雨とバッハ/4
雨音とクラシック曲が部屋の中で、五線譜の風をしばらく吹かせていた。女は振り返ることもなく、レンも動くことはなく。ダイニングテーブルを間に挟んで、女の後ろ姿をレンが見つめる。
こんなことが昔にもあった、気がする。いや、絶対にあった。
それでも、名前が出てこない。これ以上待っても仕方がない。
「誰だ?」
女は驚くわけでもなく、パッと振り返って、おどけた感じで聞き返す。
「あら? もう名前忘れちゃったの?」
知っているそぶり。
記憶喪失なのか、これは――
女が近づいてくる背後のベッドサイドに置いてあるイヤリングを、レンは見て、起きた時の違和感を思い出した。
一人分のもぬけの殻。この女が今ここにいる。自分が起きるよりも早く起きて、買い物をしてきた。そうなると、
抱いたのか――
酒は飲んでいない。ゆきずりの女を家に連れ込む。潔癖症の自分がするというのはにわかに信じがたい。
まるで形の似ている間違ったパズルピースを無理やりはめ込んだような違和感。
考えても答えは出てこない。とにかくそんなことではなく。
「お前、ふざけていないで、きちんと名乗れ」
レンはきつい口調で言ってから、気づいた。
この女はやはり知らない――
女は両腕を組み、ため息交じりに窓の外を眺める。レンの前で横顔を見せる女は、小さな声でボソボソとつぶやく。
「そう。これは違うのね」
「どういう意味だ?」
鋭利なスミレ色の瞳ににらみつけられたが、女はおどけた感じでごまかした。
「こっちの話。いいわよ、私の名前は、リョウカ コスタリカよ。悪魔退治を生業にしてるの」
同業者の女。それで顔を知っていたのかと思う。しかし、どうにもはっきりとしない記憶の輪郭。
「…………」
レンが考えているうちに、リョウカは買い物袋から、中身を外へ取り出し始めた。
「ねぇ? 朝ごはんは?」
「いらない」
朝食は取らない主義。基本的にミネラルウォーターのみの生活だ。
両手いっぱい持ってきたのに、断ってきた男。リョウカはがっかりするわけでもなく、カウンターパンチを食らわしてやった。
「あぁ、そう。持ち帰るのはできないから、ここに置いておくわね。三日後にはカビが生えて、腐臭漂う……かしら?」
部屋からもわかるほどの潔癖症だ。さすがに応えたらしく、レンの天使のように綺麗な顔は今や怒りでひどく歪みきっていた。
「っ!」
リョウカは平然と見返して、言葉をつけ足す。
「それが嫌なら、食べちゃうことね」
次々に出てくる食料。目の前にいる女の言う通り、食べずに置いておけば、腐敗するのは目に見えている。レンは悔しそうに吐き捨て、
「くそっ!」
テーブルへとやってきて、濡れた髪のまま椅子へ座った。リョウカはラザニアをキッチンへと持っていき、フォークを探し出して、適当にフィルムに穴を開け、電子レンジへぶち込む。
電気ケトルのお湯をマグカップに注ぎ込み、マドラーがわりのスプーンでカフェラテをカラカラとかき混ぜた。
ジャンクフードなど食べるに値しない。レンはやけにフルーツが多いテーブルの上を眺めて、マスカットを一粒ちぎり、口の中へ入れたが、
「っ!」
レモンの比ではない酸っぱさが広がり、慌ててミネラルウォーターを飲んで口の中をゆすいだ。




