雨とバッハ/3
つけっ放しにしたままのスピーカーから、聖なる歌声が神に祈りを捧げるように流れ出した曲。そこに混じる雑音としか言いようのない、女の声。
しかも、シャワーを浴びようとしているのに、自分の行く手を邪魔する女。天使のような綺麗な顔は怒りで歪み、視線などくれてやるかと、見向きもせず放置しようとした。
「Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm……」
歌詞は何度も聞き覚えがあるのに、
「ねぇ? 開けてよ!」
ドアの外から聞こえてくる女の声は、どんなに記憶を掘り返しても、自分とは関係ないものだった。鍵はかけてある。自分の性格なら絶対にそうだ。
レンは返事を返す義理がないと言ったように、バスルームのドアを開けて中へ普通に入っていた。
「開けてってば!」
女の叫び声だけが虚しく響く。だが、ドアをノックする音はさっきからまったくしない。蹴破ってきそうな勢いで大声を張り上げているのに。
「勝手に開けるわよ!」
最後通告を言い渡すと、
ドカーン!
という爆音とともに、ドアは中に勢いよく押し入れられた。
「もう」
両手でスーパーの茶色い紙袋を抱えていたが、その中から衝撃でオレンジがコロコロと床に転がり出た。どこかずれているクルミ色の瞳、ブラウンの長い髪はポニーテル。
「ドア、蹴って開けたわよ!」
バイオレンスに強行突破してきた女。動きやすさ重視の膝までのロングブーツは遠慮なしに、玄関のドアを後ろ足で蹴り閉め、すらっとした長身の男を探す。
「あら? いないの〜? いるって聞いたからきたんだけど……」
白のシャツは襟元からボタン三つも開け切っていて、左右に体をねじるたび、胸の谷間の線が強く描かれる。
「どうなっちゃってるのかし――」
そこで、雨音に別の水の音が混じってきた。レンがさっき入っていったバスルームの扉前で、女のプリーツ入りミニスカートが立ち止まる。
「あぁ、シャワー浴びてるのね」
荷物でよく前が見えないながらも、ダイニングテーブルへと近づいて、
「それじゃ、出られなくても仕方ないわね」
両手に持っていた茶色の紙袋をどさっと下ろした。
「よいしょっと!」
電子レンジ用のラザニアやプレッツェルの袋が、几帳面に整えられたテーブルの上になだれ落ちる。
玄関近くにまだ転がっているオレンジを拾いに、ロングブーツは戻り、膝も曲げずに片足を後ろへ床と水平に伸ばしかがむ。
すると、太ももの内側から、拳銃ピースメーカーのグリップと下着が顔をのぞかせた。
土足で歩く床の汚れがついたオレンジを袖で拭き、テーブルの上に置くと、女はソプラノとストリングスの調べに気づいた。
「音楽……」
少しだけ振り返ると、青く光るイコライザーが高く伸びたり短くなったりを繰り返している。
聞いたこともないクラシック曲。オレンジを手のひらでポンポンと投げ弄びながら、一段と雨音が強くなった窓際へとやってきた。
「あいにくの天気ね〜」
女のミニスカートのすぐ脇には、ベッドサイドに置いてあるイヤリングがあったが、彼女は気づいていないのか、ただただ激しい雨を眺める。
外は雨。玄関のドアから買い物袋を持って入ってきた女。傘は持ていない。しかし、不思議なことに、彼女の服も髪もロングブーツさえも濡れていなかった。
白のバスローブに着替えて、フロアに出てきたレンのスミレ色の瞳に、女のポニーテールが映った。
慣れた感じで入ってきた彼女だったが、彼はあの女など知らない。不法侵入だ。そうそうなことでは驚かないレンだが、歩みをすぐに止めた。
「?」
誰だか問いかけようとした。だが、今度は逆の気持ちになった。この女とはどこかで会ったことがある。どこでだかはわからないが、記憶はきちんとある。しかし、名前が思い出せない。
何かがおかしい……。




