王子、姫が参りました/1
神秘的な光は全て消え去り、人工的な部屋の明かりが戻ってきた。
ヴィオレットの瞳はまぶたに固く閉ざされて、月の体は崩れ落ちるようにその場に倒れようとした。
「おっと……!」
颯茄は慌てて歩み寄り、足をローテーブルにぶつけ痛みが走ろうとそれどころではなく。月が床に転倒しないよう、彼女は自分の身を呈して阻止した。そのまま、月の体はソファーに横向きにぐったり横たわる。
気絶したのか。正体がない。颯茄は肩を揺すぶった。
「月くん?」
「…………」
魔法が解けたはずの眠り王子。それなのに、リップでも塗っているのかと思うほど綺麗な桜色をした唇は動かない。まぶたも相変わらず閉じたまま。
「月くん?」
「…………」
返事は返ってこない。口元に耳を近づけると、息はしているようだった。
肉体に魂がふたつ入っていて、ひとつを取り出した。ファンタスティックな出来事を前にして、颯茄は心配になった。
「どこかおかしくなったとか? それは大変――」
「ボクはお姫さまのチュ〜で起きると思うんだけどなぁ〜」
孔明の間延びした声が響いたが、言っている内容はちょいエロだった。
「はぁ?」
颯茄は思いっきり聞き返す。いつどこでそんなメルヘンティック世界へ突入したのだと、思うのだ。
孔明が人差し指で唇に触れて小首をかしげると、妖艶な漆黒の長い髪が肩からさらっと落ちた。
「お姫さまのキス」
「…………」
颯茄は床に膝をついたまま何も言わず、しばらく落ち着きなくあたりを見渡す。
ソファーに横たわる女の子に見える男子高校生。
その綺麗な唇。
マゼンダの長い髪。
研究室の本棚の群れ。
机の上のPC画面のブルーライト。
試験管やビーカー。
窓のブラインドカーテン。
天井の明かり。
そしてやがて、颯茄はさっと立ち上がって仁王立ちし、ヤッホーと叫ぶように、口に手を添えて大きく呼びかけた。
「姫さま! 王女殿下はどちらにいらっしゃいますか〜っっ!!」
待ってみたが、返事を返してくるものは誰もおらず、虚しい沈黙が広がるばかり。いつまで待っても笑いのオチがこない。
「颯ちゃんがお姫さまでしょ?」
さっきからやけにその手の話を振ってくる孔明に、颯茄は言い返してやった。
「え……? 孔明くんじゃなくて?」
今日の昼休み、孔明が月を好きだと言っていた。
「ボクは男の子だから」
孔明が月を好きだと言っていた。あれは聞き間違いではない。
「あぁ、じゃあ、王子さまに王子さまがキスをして起こす……」
BLメルヘン。颯茄は粘ってみたが、孔明は春風みたいに穏やかなのにやけにクールに言ってのけた。
「ううん、お姫さまがするの」
颯茄は床に視線を落として、今の会話履歴を思い返そうとしたが、もうすでに何度も言葉を交わしていて、ごちゃごちゃになっていた。ため息も混じりに、
「どうしてこんな話になったのかな?」
「どうしてかなぁ〜?」
どうやってもこのキスループは抜けられない。颯茄は観念して、ソファーのそばに両膝を落とした。月の綺麗にカールした長いまつ毛をのぞき込んで、文字通り跪く。
「月王子、颯茄姫がやって参りました。決して一目惚れではございません。お目覚めくださいませ」
颯茄は心臓バクバクで、石鹸の香りがする月に近づいていこうとしたが、
「…………!」
途中で何かに気づいて、さっと離れて、パッと大きく右手を上げた。意見があります的に。
「ちょっと待った!」
ここまできて、往生際のよくない、颯茄だった。
「どうしたの〜?」
のぞき込んできた孔明の聡明な瑠璃紺色の瞳の前で、極めて重要なことを颯茄は口にした。
「月くんは望んでないんじゃないかな?」
相手の気持ちを無視してするとは、人として常識に欠けている。指先で漆黒の長い髪はつうっとすかれて、重力に逆らえず、パラパラと落ちてゆく。
「望んでる気がするんだけどなぁ〜?」
「何でわかるの?」
今日会ったばかりだ。孔明が月を好きだと言っていた。転校生は両手を後ろで組んで、「だって、そうでしょ?」と可愛く小首をかしげて、
「ボクたちが月の家に行った時に彼の両親は出てこなかった。彼の病状も知らないみたいだった。悲しいことだけど、育児放棄っていう可能性が高いよね? 月も心を開いてなかったみたいだし」
十二年前のあの事故から、時が止まってしまった家の中。開かずの間。子供を亡くした悲しみで、残った子供さえも排除したい、弱い気持ち。それが、あのパラレルワールドみたいな空間の実体だったのだ。
体と心を休めるはずの自分の家が、一番の修羅場。ソファーに倒れている青年はどんな想いで毎日を過ごしてきたのだろう。そう思うと、颯茄は両手を強く握り合わせた。
「あぁ、だからか……」
「他の生徒にも話してない。でも、颯ちゃんを選んだ。それは気があるってことじゃないのかなぁ〜?」
誰にも話していないと、月本人も言っていた。それを今ごろ、颯茄は思い出した。落ち着きなく、右手を触って、左手を触ってを繰り返す。雪のない土の上をソリが進むように、ひっかかりまくりの言葉だった。
「あ、あぁ、そ、そう、ですか……」
いつの間にか転がり込んでいた恋。
「キミの返事待ちなんじゃないかな?」




