もうひとつの夜/8
うなずかないことが、肯定の意味だった。マゼンダ色の長い髪は気だるくかき上げられて、テーブルの上に放り投げてあったタバコの箱を取り上げた。
「善意でしたことよ」
だが、孔明はすぐにそれを蓮香の手から奪った。
「違う」
「どうして?」
イライラを解消するものが持って行かれて、蓮香は鋭い視線を、聡明な瑠璃紺色の瞳に投げつけた。
「肉体という物質は作れたとしても、完全なる人間は人には作れない。神の領域だ」
「作れたわよ。家族だって喜んで――」
珍しく厳しい口調で、孔明はさえぎった。
「魂が入ってない」
「…………」
空っぽの宝箱を渡したのと一緒だ。言葉をなくした蓮香に構わず、どこまでも冷たい孔明の声が容赦なく降り注ぐ。
「魂は心。それは人には作れない。その人たちが死んだあと、誰もそこにはいなかったになるんだ。それは本当の幸せなのかな?」
「…………」
人生は死んだら終わりではない。その先も続いてゆく。蓮香は空っぽの試験管をただ見つめていた。研究者の起こした罪の重さは計り知れず、颯茄はポツリつぶやく。
「偽物の幸せ……」
神主見習い魔導師は、霊界のルールを語り出した。
「地上へ勝手に降りることは、どんな理由があっても許されていない。ひとつの肉体にふたつの魂はいらない。もともとこの肉体は月のものだ。君が去るべきだ。これ以上残っていても、君は罪を重ねるだけだ」
さっきまで落ち着いていた蓮香のヴァイオレットの瞳が陰る。
「戻ったらどうなるの?」
この女は少女ではない。二十三歳の大人だ。現実を受け入れるべきだ。
「自動的に地獄に行く」
「罪を重ねた他の人たちと一緒に……」
蓮香の言葉に漆黒の長い髪は否定して、横へ大きく揺れる。
「違う。十五年前に、地獄の制度は大きく変わって、一人一畳の大きさの部屋に入れられて、罪を償うまで決して出ることはできない。人の力では開かないシステムになってる」
甘い話はない。自分が犯した罪に他の人は関係ない。弱い自分と一人で戦うしかない。誰も助けてくれない。自身で落ちたのだから、己ではい上がるしかない。
「一人きり……」
蓮香の視界はぼやけ始めた。それでも、魔導師の話は止むことはなく、容赦なく事実を突きつける。
「声も念――想いさえも外に通さない特殊な作りなんだ。だから、誰も助けにこない」
「…………」
助けて欲しいという願いさえ、神でさえも聞き取れない。孔明の脳裏に前面から数字が迫ってきて読み取る。
「キミが地獄から出てくるには、今のところ千五十年はかかる」
生きた人生よりもはるかな時の長さ。
「そんなの一人きりで……。罪は償えるのかしら?」
善悪がきちんと判断できない人間らしく、蓮香は弱気なことを言った。
少し考えれば、罪の重さはわかる。
まずは月の人生の邪魔をしている。
レプリカを本物だと思っている家族とその親類が落胆する気持ち。テレビのニュースを見て、同じ病気を患っている患者や家族のぬか喜び。膨大な数の人間の心を裏切っているのだ。
迷い続けている蓮香を見ている孔明の心の目には、無情にも彼女が地獄に入っている年数が加算されてゆくのが映っていた。
黒のワンピースミニを着ていた颯茄は、蓮香に一歩近寄って、真剣な顔を向ける。
「償おうと思わなければ、できないんだと思います。何年かかっても」
人と違って、神は見ている年数の単位が違う。億年もしくは、さらに先を見ている。罪が重なろうが、見捨てずに、人が改心して地獄から出てくるのを何億年以上も気長に待っている。何度同じ過ちを繰り返しても、できるようになるまで待っている。
戻ってきた時には、文句も何も言わず、笑顔で出迎えるのだ。
「……そうね。するしかないわね」
マゼンダ色の長い髪をかき上げて、蓮香は力なくうなずいた。孔明の脳裏の数字が激変する。
「たったそれだけで未来は変わる。キミが地獄から出てくるには、今五百八十年まで短くなった」
「こんな簡単なことで?」
蓮香は組んでいた足を思わずといた。
「小さなことが大きなことにつながるんだよ」
「でも、どうやって、戻ればいいのかしら?」
肉体に入ったまま。降りてこれても、出てはいけない。そこが不便なところだ。
そして、神主見習い魔導師の本領発揮である。孔明は呼吸を整えて、胸の前でパンと手を合わせ鳴らした。
床に青白い魔法陣が光る紋章のように浮かび上がった。ごうごうと業火のような雷光が生きているように丸い尾を引く。
「ボクが神さまとの橋渡し役になるよ。その円の中に立って」
言われるまま蓮香が入ると、マゼンダ色の髪の縁を青白い光が煙のように立ち上ってゆく。孔明は組んだ手を口元へ当て、低い声で祝詞を唱え始める。
「高天原に座す八百万の神……」
魔導師の長い呪文が続いてゆく。魔法陣の青白い光は、二匹の龍が空へ昇ってゆくように、螺旋を描きながら蓮香の体を包み込んだ。そうして、孔明は神の名を口にする。
「……六審神さま、この御霊を天へ戻し給え!」
曇り空から一筋の光が差し込むように、あたりが金色の光に包まれ、鎧兜を着た六柱の神が降臨した。
光の渦の中で、蓮香の姿は見えなかったが、ほんの少しだけ破いた布のように光が消えて、さっきまでの不安ではなく、穏やかな笑みをした蓮香の唇が微かに動いた。
「ありがとう……」
それを最後に、彼女も神も青白い光も消え去った――――




