もうひとつの夜/4
顔を上げると、孔明がクローゼットの近くにしゃがんで、漆黒の髪を床に落としながら、中をのぞき込んでいた。
「よいしょ! あれ〜? 奥に入っちゃったのかな?」
手伝うものでもなく、颯茄は孔明の大きな背中の後ろで、落ち着きなく体を横に揺らす。
「開けるしかないね」
「月、クローゼット開けるよ」
眠り王子はもうすでに熟睡しており、返事は返ってこなかった。孔明はスッと立ち上がって、両開きの扉を引き開けると、異様な光景が広がった。
(そう……)
落ちてもいないルーズリーフを拾った振りをして、脇に隠し持っていたものを手に持ち替え、ローテーブルに戻ってきた。
約束通り五問解いて、颯茄と孔明は勉強道具をバッグにしまい、微動打にしないマゼンダ色の長い髪に声をかけ、
「月、帰るよ〜」
「また明日ね」
静かにドアを閉めて、階段を降りてゆく。家の中は炒め物の香ばしい匂いが広がっていた。それでも、お茶も出てこない。誰も顔を出すこともない。
颯茄と孔明は靴を履いて、あとは玄関のドアを出ていくだけ。人の気配がするのに、人がいないみたいな奇妙な家から。
孔明は髪の毛をくるくると手に巻きつけて、今度は靴箱の前にかがみこんでいた。
「ん〜?」
「何してるの?」
奇怪な行動で、颯茄は問いかけたが、好青年の声はこう言ってきた。
「携帯電話落としたから……」
カタンと落下した派手な音がするはずで、颯茄は自分がそれを聞き逃すなどおかしいと思い、首をかしげた。
「ん? そんな音した?」
彼女を背にして、瑠璃紺色の瞳は下駄箱の下に広がっていた異様な光景を、冷静にただ脳裏に記憶した。
(そう……)
玄関のドアを閉めて石畳を戻って、門もきちんと元にした。平和な夕暮れの街並みが広がる、住宅街の細道。
だが、颯茄にとっては、月の家は異界にでも入り込んだような、空間だった。あえていうなら、パラレルワールド。それが一番ぴったりくる。ある時点で世界が分岐して、並行して存在する別世界。何かが狂っている。
(何だか不思議な時間だったなぁ)
あと髪引かれながら歩き出すと、前にいた孔明がふと振り返った。
「おかしいね」
颯茄はぶつかりそうになりながら、慌てて立ち止まる。
「ん?」
「彼は一体いつ本を読むんだろう?」
今頃それがおかしいと気づいた。部屋の異様な雰囲気の原因はこれだったのかもしれない。
「あぁ、そうだ。夜はしっかり寝てて、昼間もほとんど寝てるのに、本当にいつ読むんだろう?」
陽はだいぶ西に傾いて、ふたりの影は長くなり、しばらく動かず、それっきり言葉は途切れた。チリンチリンと自転車のベルの音が脇を何度か通り抜けてゆく。
大きな矛盾点。あの本だらけの部屋で何が起きているのか。
月が眠っているだろう部屋の窓を見上げ、颯茄はしばらく考えていたが、答えは出てこなかった。家に帰って、紙に書いて、落ち着いて思案しないと、彼女には難しい。
「じゃあ、あし――」
「颯ちゃん、待って」
孔明に呼び止められて、颯茄の靴は彼を追い越す途中で立ち止まった。
「どうしたの?」
聡明な瑠璃紺色の瞳はかがみこんで、春風みたいな柔らかな声が言う。
「黒、もしくはそれに近い色の私服に着替えて、七時にここにもう一度来れるかな?」
「来れるけど、どうしたの?」
「月の夢の解析だよ」
「わかった」
颯茄はしっかりうなずいたが、孔明から即行ツッコミがやってきた。
「颯ちゃん、その返事は失敗しちゃうかも?」
孔明は思う。この目の前の女子高生がもし、自分の妻だったとしたら、夫として今の言葉は見逃せないと。
「え……?」
颯茄は思う。この目の前の男子高生がもし、自分の夫だったとしたら、妻として今の言葉の意味は理解しかねると。
颯茄を残して去ってゆく、孔明は手を顔の横で振って。
「それじゃ、またね」
「うん。どういうこと? 返事が失敗してる?」
帰る道が反対方向の彼女は、孔明の漆黒の長い髪が夕闇に混じってゆくのを、真昼の灼熱が冷めてゆくアスファルトの上に立ち尽くして、しばらく黙ったまま見送っていた。




