もうひとつの夜/3
「え……? 本がいっぱいだ」
部屋の壁は全て本棚で、天井まで埋め尽くされた本の群れ。
「生物学……?」
颯茄は近くに寄って、タイトルを見つめるが、知らない専門書の背表紙が立ち並ぶ。その合間に埋もれるようなベッドの上で、マゼンダ色の長い髪はもそもそと起き上がった。
「おや〜? ふたりとも不法侵入ですか〜?」
「あれ〜? 勉強会を一緒にするって約束したの忘れちゃったの?」
孔明の話はさっきと違っていて、颯茄は視線をあちこちさ迷わせた。
(いつ約束したんだろう? 昼休みは眠ってて、そのあと話してるの見てないけど……)
ヴァイオレットの瞳と瑠璃紺色の瞳はベッドと床の間で真摯に交わる。何も言わず、動かず。
「…………」
「…………」
だが、それはほんの一、二秒のことで、月はニコニコの笑みになった。
「どのような冗談ですか〜?」
「あれ〜? ボク本気だったんだけどなぁ〜」
押し問答が続きそうだったが、月はベッドから制服を着たままの足を床へ落とした。
「構いませんよ〜」
「颯ちゃんも」
孔明に手招きされて、颯茄は今のやり取りに疑問を持っていたが、従ったほうがいいのだと、心のどこかでそう思った。
「あぁ……そうだね」
しめ切っていたカーテンを月が開けている間に、孔明はバッグの中から、教科書とルーズリーフをローテーブルの上に乗せながら、
「じゃあ、数学。このページの一問目から五問目まで解こう」
「数学、数学……」
颯茄は慌てて同じものを取り出す。月はバッグの中に手を入れて、指先の感触だけで、それぞれ一番左側にあるノートと教科書をテーブルに置いた。
三人でなぜか勉強会が始まり、颯茄は問題文を読んで、どの数式を使うか吟味して解き始めた。
一問目の途中で、月の凜とした儚げな声が眠そうに響く。
「終わりましたから僕は寝ます〜」
シャープペンをテーブルの上に置いて、転がるようにベッドに入り込むマゼンダ色の長い髪を横目で見ながら、颯茄は驚いた顔をした。
「えぇっ!? もう終わったの? 早いなぁ」
「月、ノート見せて〜?」
孔明が声をかけたが、もうすでに眠り王子は寝息しか返してこなかった。
「……ZZZ」
月に気を取られている颯茄の前で、友達のノートを写すという行動を装って、孔明は月の女性的で柔らかい線でノートに書かれた数字を目で追う。
(数式はなし。答えはあってる)
颯茄の座席の場所を前年から全て答えてくる。三年前の日付が簡単に出てくる。それは、孔明の頭の中ではこう消化された。
(一度見聞きしたものは、全て覚えてる可能性が高い)
さすがの颯茄も違和感を覚えて、シャープペンを握ったままの手で頬杖をつく。
(どうして、寝てばかりいるのに勉強できるんだろう?)
眠り王子はいつも教師を撃退する。学園の七不思議といってもいいほどだ。それも、孔明の頭の中では答えがもう出ていた。
(授業中眠っていても、当てられたところが答えられるのは、教科書の先の部分を覚えてる。そして、授業の進むスピードがどのくらいの速さか計算してる。だから、時計さえ見れば、当てられた時どこだかわかるから答えられる)
記憶力が尋常ではなく、自身の中に入ってきた情報をデジタルに切り分け、組み替える能力に長けている。それが眠り王子の魔法のひとつだった。
本ばかりに囲まれた部屋で、一日の大半を眠り続ける月。
(彼は頭がとてもいい人間だ)
孔明の脳裏でまたひとつパズルのピースがはまり、彼は急に陽気に鼻歌をうたい出した。
「んん〜♪」
月のノートを写す振りをして、透明な袋から紙を一枚取り出し、
「あっ! ルーズリーフの紙がクローゼットの中に入っちゃった」
問題を解いていた颯茄はシャープペンを走らせるのを止めた。
「え……?」




