もうひとつの夜/1
少しばかりざわついていた午後の学校だったが、目立った事件もなく放課後を迎えた。
颯茄は机の中から荷物を取り出して、適当にバッグにつめ、椅子から勢いよく立ち上がる。
「よし、今日は……」
帰り支度をしている他のクラスメイトの間を縫って、斜め前のマゼンダ色の髪を探そうとしたが、もうどこにもいなかった。
「あぁ、月くん、無事に帰ったんだ」
昨日フラフラしながら帰宅している彼を思い浮かべて、一人で帰れたのならよかったと、颯茄はホッとして少しだけ微笑んだ。バッグを肩に背負って、足早に教室のドアに向かう。
「私も家に帰って、落ち着いて考えてみよう。何とかして、月くんが普通の生活を送れるようにできることはしよう」
解決の糸口はまだ見つからないが、諦めという文字は颯茄にはない。他の生徒が行き交う廊下を、ブラウンの髪を揺らしながら、さっそうと歩き出した。
だが、行く手を阻むように、十字路の廊下の左右から女子生徒が数人立ちはだかった。上から目線、高飛車な少女の声が呼び止める。
「花水木さん、ちょっといいかしら?」
「はい?」
話をしたこともない少女たちが両腕を組んで挑むように立っていた。
「漆橋くんと安芸くんをふたりとも膝に乗せたそうじゃない?」
昼休みの知礼の心配事が現実となってしまった。颯茄のどこかずれている瞳は真剣そのものになり、黙ったまま彼女たちをじっと見つめた。
「…………」
他の生徒たちはこそこそと話をしたり、そうっと横を通り過ぎるだけで、誰も関わりたくないと言っているようだった。真ん中に立っていた少女が、バカにしたように笑う。
「あなたって娼婦なの? それとも売女なの?」
「あはははっ!」
増長するように、両脇に控えていた、信念のない少女たちの笑い声が上がった。颯茄の視線ははずされることなく、切るように少女たちをにらみつけた。
唇は動かず、だんまり。颯茄は思う。確かに自分は他人優先だ。自己主張することなどほとんどない。しかし、譲れないものは譲れないのだ。
怒っては相手の思うツボ。彼女はパッととびきりの笑顔に変わって、人差し指を顔の横で立てた。
「……あぁっ! そんな食べ方がありましたか! 豆腐にバターというめぐり合わせ。斬新で魅惑的な味覚」
娼婦を豆腐。
売女をバター。
心を込めて、颯茄は頭を勢いよくぺこりと下げた。ブラウンの長い髪がザバッと縦の線を描く。
「教えていただいてありがとうございます!」
人は同じレベルでしか出会えない。人を傷つけない笑いの取り方を知らない少女たち。彼女たちは毒気を抜かれたような顔になり、ついで軽蔑の眼差しを送った。
「何それ?」
「私たちの話が通じないなんて、頭おかしいんじゃない」
「行きましょう」
上履きの横の列が視界から消え去り、安物のシャンプーやらリップやらの不快な匂いが遠ざかり、顔を上げた颯茄はバッグを肩にかけ直す。
「…………」
どうでもいいのである、今の颯茄にとってはあんな人間など。とにかく月を救う手立てを探すだ。
廊下を歩き出そうとすると、背後から春風のような穏やかで柔さかな青年の声がかかった。
「ふふっ。キミは頭がいいんだね」
自分のすぐ横に並んだ背の高い人の顔を見上げた。凛々しい眉に、聡明な瑠璃紺色の瞳。漆黒の長い髪。
「あぁ、孔明くん。どう言うこと?」
「わざと聞き間違えたふりをして、追い払った」
今のように笑いに持っていかなかったら、少女たちに顔面パンチを次々に食らわしていただろう。決して颯茄は大人しい人間ではない。どちらかというとバイオレンス仕様だ。
喉がはりつくように熱くなり、視界がにじむ。彼女の独り言みたいな必死の訴えが、孔明にしか聞こえない距離で降り注ぐ。
「自分勝手という嫉妬心はいらない。一番大変な人は誰? 普通の生活が普通に送れない。それはどれほど大変なことなんだろう? 私が守りたいのは自分じゃなくて……自分じゃなくて……っ!」
ひとつしゃくり上げて、すぐに堪えた。自分が泣いても何の解決にもならない。いや一番泣きたいのは月だろう。
興味本位で月に近づいているのなら、罠でも仕掛けて遠ざけようと、孔明は思っていたが、颯茄に触れることもなく、ただ優しく声をかけた。
「だから、彼はキミを選んだのかも――」




