夢の欠片/2
だが、きちんと自分で戻ってきた。
(というのは冗談で……)
未だに手をかけている肩をもう一度揺すると、
「起きて~! 朝になっちゃうから」
結んでいないマゼンダ色の髪をかき上げながら、森羅万象のような神秘的なヴァイオレットの瞳がまぶたから解放され、ゆるゆる~と語尾の伸びた声が響いた。
「どなたですか~?」
話したことなどない。相手は有名な眠り王子でも、自分のことは知らないだろう。少女はそう思って心を改めた。
「花水木 颯茄。同じクラスの――」
だが、月は途中でさえぎり、こんな言葉をスラスラと並べた。
「知っています~。一年の一学期は左から三番目の列で前から二番目の席。二学期は一番右側の列の前から四番目の席。三学期は一番廊下側の最後尾の席。そうして、二年の今学期は窓から二列目の最後尾に座っている、僕のクラスメイトです~」
眠り王子と呼ばれている男子高校生の身に何が起きているのかわからなくて、颯茄はぽかんとした顔をした。
「え……?」
今の言葉の羅列をもう一度思い返してみる。
「……席の場所?」
「うふふふっ」
ニコニコとした笑顔と含み笑いの前で、颯茄はびっくりして大声を上げた。
「えぇっ!? どうしてそんなに全部覚えてるの?」
本人でさえ、言われなければ抹消寸前だった記憶。それなのに、話したこともないのに、答えてきた。颯茄にとっては驚嘆に十分値する。
だが、月にとっては、彼女の言っていることの方が不思議だった。
「おや~? なぜ、忘れるんですか~?」
「なぜって……?」
眠り王子の奇怪行動の真相に迫れそうだったが、颯茄はまぶたをパチパチしただけだった。起こしておいて、何も言わない女子。ニコニコの笑みで月は問いかけるが、
「何かご用ですか〜?」
「あぁ、もう放課後だよ。このままだと夜になっちゃうから……」
颯茄は窓の方へ振り返って、少し色あせた夏の空を指差した。すると、地獄の底からの招待状のような末恐ろしい含み笑いが聞こえてきた。
「うふふふっ。君は僕の眠りを妨げたみたいです〜」
語尾はゆるりと伸びているが、ヴァイオレットの瞳は邪悪一色だった。颯茄は背筋に寒気が走り、震え上がり、
「あぁ、余計なことをして……」
月からはこんな言葉が出てくるのだった。
「今回は見逃して差し上げますから、僕の願いを聞いてくださいませんか?」
さっきと打って変わって、ニコニコの笑み。女子よりも綺麗で、石鹸の香りがする男子。ふたりきりの教室で、颯茄は月の顔をじっと見つめる。
「どんなこと?」
「僕の話を聞いてくださいませんか?」
「話?」
颯茄が聞き返すと、ニコニコの笑みはすっとどこかへ消え去り、ヴァイオレットの瞳はまぶたから現れた。それはどこか寂しげな色をしていた。
「誰にも話していない僕の話です」
「漆橋くんの話……」
綺麗な瞳で、夕暮れ時の空よりも澄んでいて、吸い込まれていきそうで、颯茄はカバンを持つ手の力が抜けそうになるのだった。
凛とした澄んだ儚げで丸みのある女性的なのに男子の声が、シャンと鈴が鳴るように要求を突きつける。
「月と呼んでください〜」
「え、でも……」
一年生の時から同じクラスだ。姿は気になって見てきた。しかし、話したのは今日が初めてだ。颯茄は戸惑ったが、もうすでに月の手中に落ちていたのだった。
「おや〜? 僕の願いを聞くでしたよ〜」
確かにそう言っていた。颯茄は交換条件の罠を仕掛けられていたとは気づかず、
「あぁ、月くんの話を聞く……わかった」
月はニコニコの笑みをしていたが、わざとらしく言葉を紡いだ。
「君はおかしな返事をする人ですね〜」
「え……?」
颯茄は思った。この目の前にいる男子高校生がもし、自分の夫だったとしたら、妻として今の言葉は理解しかねると。
「うふふふっ」
月は含み笑いをもらす。この目の前にいる女子高校生がもし、自分の妻だったとしたら、夫として見逃せない言葉だと。
そこで、ガラガラっと教室のドアが勢いよく開き、男性教諭が顔をのぞかせた。
「ほら! 用がないなら早く帰れ!」
「あぁ、はい!」
颯茄が慌てて返事をすると、緊縛は解け、ふたりで教室から廊下へと急いで出た。




