眠り王子/4
先生が振り返りそうになって、少女は慌てて視線をそらした。腰までの長い髪がベールのようになって、顔をうかがい見ることができない少年から。
(恋をしてるってことじゃなくて……)
ノートの端に、適当な線をシャープペンで何本も落ち着きなく引いてゆく。
(すごく不思議な男の子で……)
本当にそうで、女子に見える時がある月は。腰までの長い髪のせいなのか、雰囲気なのかはわからないが、人目を引く。背は高く、落ち着いてよく見ると骨格は男子なのだ。だが、
(女の子みたいに綺麗で、女子から……)
どこか神秘的な男子生徒についた、異名を少女はノートに走り書きした。
(眠り王子――って呼ばれてる)
いくら綺麗でも、眠っているだけの男子に、女子もそうそう注目するはずがないが、魔法と呼ぶべきか、月の奇怪な行動が今日も授業中に始まる。
先生の説明とチョークのカツカツという音だけが、七月の教室に響いていた。
「ここは体言止め。こっちは倒置法を使っている」
だが、黒板に書かれていた文字が止まると、教師は振り返り、
「あともうひと――」
一番前の席で、眠っている生徒を見つけた。
「漆橋、聞いてるのか?」
眠り王子のマゼンダ色の長い髪はもそもそと起き上がり、月のような美しい横顔はまどろんでいた。
「……あぁ、はい」
その声色は凛として澄んだ儚げで丸みのある女性的だが、誰がどう聞いても男子のものだった。起きたばかり、熟睡していたのは誰が見てもよくわかる。
教師は怒る口実を作るために、わざと言う。
「それじゃ、今説明したところ読んでみろ」
「くすくす……」
できずに怒られる姿が容易に想像できて、クラス中から密かな笑い声がもれた。
月が立ち上がると、椅子がズズーっという音を教室中に撒き散らし、開いてもいなかった教科書をめくり、平然と読み出した。
「――空の生き写しのような海は、淡く濃い真逆の青、瑠璃色。まるで僕の心を表しているようだった。恋に不慣れな僕の心を」
教師は制裁を与えるつもりが、問題点は生徒によってかき消されてしまった。
寝ていたから、どこを今やっているかわからないだろう。という予測を見誤った、生徒の見る目がない教師は、あっという間に倒されてしまった。
気まずそうな表情も、他の生徒たちにはできるだけ隠して、
「う、んん……終わりにしていい」
「はい」
月は教科書を閉じると、また椅子に座って、突っ伏して眠り始めた。マゼンダ色の綺麗な長い髪が、机の端から淫らに床に向かって落ちる。
クラスメイトたちは顔を見合わせて、コソコソ話を始めた。
「どうして、寝てたのにわかるんだ?」
「本当は起きてるとか?」
疑惑だらけの眠り王子を一人残して、ざわざわと強風に揺れる木々の葉音のように大きく広がってゆく。
「それだったら、机の上に突っ伏さないよな?」
「怒られるの目に見えてるしね」
大人の教師にもさっぱりだった。月の言動の構造は。
「静かにしろ」
先生の叱りが飛ぶと、生徒たちの話し声はピタリと止んで、授業はまた進み出した。
黒板の字をノートへ写しながら、どこかずれている瞳の少女は今日も囚われる。マゼンダ色の長い髪持ち、女性的な声を持つ不思議な雰囲気の青年に。
(そうなんだ。寝てるはずのなのに、当てられるときちんと答える。どうなってるんだろう?)
だからこそ、余計に噂が噂を呼び、眠り王子などというメルヘンティックでファンタジーな名前を、女子につけられてしまうのだった。
その時だった。終業を知らせるチャイムが鳴り響いたのは。
「じゃ、今日はここまでだ」
授業という拘束からの開放によって、生徒たちがそれぞれ席から立ち上がり、話や笑い声が波のように押し寄せ出した教室の端で、マゼンダ色の長い髪を持つ男子生徒は微動だにせず、まるで死んでいるように眠り続ける。
平凡で頭がいいわけでもなく、他人のこと優先で自分のこと後回しの、どちらかというと損するタイプの少女の、どこかずれているクルミ色の瞳は、クラスメイトの隙間を縫って、眠り王子を見つめる。その視線は誰も知ることはない。
(動かない。休み時間もずっと椅子に座ったまま眠ってる。というか、起きてるとこをほとんど見たことがない)
高校生の自分が見ても異常な行動。人は自分の価値観で相手を見る傾向がある。サボる人は、相手もサボっていると思う。
いつでも一生懸命な彼女には、月の奇怪な言動には全て意味がある気がした。
(病気か何かなのかな?)
首をかしげると、ブラウンの長い髪がワイシャツの背中で揺れ動き、盛夏の訪れを予感させる風が吹き抜けていった。




