結婚の条件
――――無事に夕食前までに家へと戻ってきた、どこかずれているクルミ色の瞳はキラキラと輝いていた。
目の前にある、人参のグラッセという軍隊を従えて、ホワイトソースという冠を戴いた敵の総大将である、夕飯のメインディッシュ。
颯茄はどこか夢見がちに両手を組み、頬の横に添える。
「ロールキャベツ、久しぶり〜!」
空腹を満たすという最終目的。そのためならば、手段は選ばない。颯茄はナイフとフォークをしっかりと握って、いざ出陣! のはずだったが、左隣から、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が問いかけてきた。
「颯、表庭に行っていたのですか?」
ロールキャベツは妻の視界から一瞬にして消え失せた。食事中だというのに、両肘をついて、組んだ手の甲に神経質なあごを乗せ、一口も食べていない光命の、綺麗な顔を見つめた。
「どうしてわかるんですか?」
「髪に花びらがついています」
近づいてくる、神経質な細い指先。その持ち主は、
スパーエロなピアニスト。
官能的なピアニスト。
優雅な王子みたいなピアニスト。
颯茄は釘づけという嵐に見舞われ、策略家の前で無防備にも口をバカみたいにぱかっと開けたままになった。髪がつっと引っ張られる感触が少しして、
「こちらの花は表庭にしか咲いていません」
手のひらを上にして捕まれ、淡いピンクの小さな花びらがそっと乗せられた。
「あぁ、ありがとうございます。髪についてるって教えてくれて」
颯茄はデレデレに微笑んで、反対の手で花びらをつまみ、ワイングラスに入った水の上にさらっと浮かべた、記念として。
揺れる花びらは颯茄と光命がそれぞれ触ったもの。クルミ色の瞳の中で別の景色へと取って代わる。
――湖面に浮かぶ小舟で二人きり。
月夜を眺めながら、逢瀬の野外プレイ。
妄想世界へカウントダウンに入った妻の、フォークとナイフが皿ではなく、テーブルクロスに次々に落とされる。ロールキャベツという敵の総大将にはまったくたどり着けず、見当違いな攻撃ばかり。
そこで、凛とした澄んだ丸みがあり儚げで女性的でありながら、男性の声が語尾をゆるゆる〜っと伸ばした質問をしてきた。
「焉貴と一緒だったんですか〜?」
颯茄の視界から桜色の花びらは一瞬にして消え失せ、光命とは反対側、右隣に座っていたニコニコの笑みを持つ月命に変わった。
サディスティックな歴史教師。
女性的な歴史教師。
残虐な遊びに酔いしれる貴族的な歴史教師。
「はい、そうです。ふふ〜ん♪」
両手に花ならぬ、両手にイケメン。鼻歌を歌い始めた妻は、とうとう飛ばされてしまった、妄想世界へと――
――どこかの城の食堂。光命と月命の二人の王子に囲まれての三人での食事。ロウソクの炎が乙女心にときめきという火をつける。颯茄姫は考える、それは今日の昼間の出来事。
(二人とも、私にプロポーズしてきたの。どちらかは選べないの。だって、二人とも素敵なんだもの!)
食事も喉に通らないほどで、彼女は悩ましげにため息をつく。
(どうしたらいいのかしら……! あぁ、そうよ! 三人で結婚すればいいのよ! でも、みんな平等よ。だから、これだけは譲れないわ! でも……)
どこかずれているクルミ色の瞳は、白いテーブルクロスの上で戸惑いという線を描く。
(……断られるかもしれない。だけど、女は度胸よ。清水の舞台から飛び降りてやるわっ! とりゃあぁっ!!!!)
勇ましい掛け声をかけると、颯茄姫は食べる手を止めて、二人の王子を交互に見た。
「――バイセクシャルなら、結婚します」
すっと暗転し、両開きの扉が目の前で開けられると、鳩がバサバサと飛び上がり、ライスシャワーが降り注ぐ中。
瑠璃紺色とピンクのタキシードを着た、光命と月命が優雅とニコニコの笑みで、教会の入り口の前に立ち、こっちへ向かって手を差し伸べていた。
颯茄姫の服はいつの間にか真っ白なウェディングドレスになっていて、全速力で走り寄り、二人の手をつかもうと、両手を前に伸ばし――
「颯ちゃん、罠にはまっちゃったかも〜?」
好青年で陽だまりみたいな、孔明の声で自宅の食堂に妻は強制送還された。びっくりして、いつの間にかつぶっていた目を見開き、
「えぇっ!?!?」
フォークに刺してあったロールキャベツが、皿にビチャっと落ちた。イケメン攻撃にやられている場合ではなかった。光命と月命の言葉は疑問形だったのだから。
「カマかけられたんだろ」
明引呼の鋭いアッシュグレーの眼光が燭台の向こうからやってきた。油断も隙もないのである。確認のために、わざと聞いてきたのだ。
光命は中性的な唇に手の甲を当てて、くすくす笑っている。
「…………」
月命は怖いくらいに含み笑いである。
「うふふふっ」
聞かれて答えたら、アウトなのである。平常を装って、情報収集されていたのだ。だがしかし、おかしいことに気づいた、妻は。
「あぁ、そうか。知ってるなら聞かないですよね?」
焉貴は言っていない、が事実として確定。だからこそ、この話はおかしいのだ。
「でも、どうやってわかった――!」
そこで、さっきから、全然、ロールキャベツ将軍を倒せない、颯茄のお腹がグーッと鳴り――本陣から速攻指令が出された。
フォークとナイフを持ち直して、緑色の柔らかい腹にナイフを入れると、敵を蹴散らし、肉汁があふれ出す。
「それより、今はロールキャベツ〜〜♪」
妻はパクッと口の中に入れて、目をつぶり味わう。もぐもぐと口を動かしているうちに忘れてしまった。さっきの焉貴と一緒に表庭にいたことが、どうして光命と月命が知っていたのかを。
花びらなど、妻の髪にはついていなかったのだ。
焉貴と颯茄が家にいないから、一緒とは限らないのだ。
誰も、二人が家を出た時のことを見ていない。二人きりの廊下で、瞬間移動を焉貴がかけたのだから。
疑惑だらけなのに、いつまでたっても、妻の口からは問い詰める言葉はなく、夫全員がため息をついた。
「理論より食論……」
こうして、妻の食欲によって、事件の真相は闇に葬り去られ、明智家の夜は今日も平和に更けてゆくのだった。




