天使が訪れる時/3
彼の脳裏に浮かぶ。紺の長い髪と冷静な水色の瞳を持つ、優雅な人が言った、数々の言葉が、今頃神の導きのように降り注いだ。
『シュトライツ王国は崩壊します』
『神はたとえあなたが悪に下ったという過去を持っていても、正神界へ戻った時には何も言わず、喜んで両手を広げ暖かく迎えてくださるでしょう』
『あなたを救うのはあなた自身であり、次は神なのです。私たち人間はその次なのです』
安堵と後悔の涙が、男の頬をボロボロとこぼれ落ちてゆく。
本来の自分を知ることは恐怖がともなう。一歩踏み出せる勇気は自身にしかないのだ。
弱い人間だった。偽りの道を歩んでいた。自分はなんて身勝手に生きてきたのだろう。
誰からも見放されたのだと思った。誰も自分の苦悩の日々を知る存在はないのだと思った。
それでも、こうやって、心に手を差し伸べてくれる存在がいた。それが神と言うのだろう。それを教えてくれたのは、
「先生……」
財産を全てなくし、水も飲むこともできない貧困。カラカラに乾いたのどの奥から、男はかすれた声で言った。
「人のためになること……神さま……」
涙の筋がついた頬を上げ、後ろへ振り返ると、小高い丘の上に、赤煉瓦の美しい二階が建物が佇んでいた。
男は杖に手をかけ、不自由な足でもう一度立ち上がった――
*
今日も平和なベルダージュ荘。
一階にある部屋から、ピアノの音が癒しの香りのように広がり漂い、さわやかで穏やかな屋敷の空気と混じり合う。
ドビュッシュー アラベスク。
八分音符の三連符。絶え間なく滑らかに紡がれるメロディーが、金木犀の香りを乗せた風とめぐり合う。
お互いの首を垂れて、上品に挨拶をすると、手を重ね合いくるくると舞い踊る。風の強さが変わると変調して、美しき旋律が違った顔を見せる。
冷静な頭脳の持ち主には、ピアノの弦を背景にして、アラベスクの楽譜が鮮明に浮かんでいた。
白と黒が規則正しく並ぶ鍵盤の上を、神経質な指が流れるように動くと、わざともたつかせて束ねられていた長い髪が背中でゆらゆらと揺れる。
崇剛は歓喜に酔いしれるように浸り、後れ毛が窓から入り込む秋風に艶やかに舞う。
ピアニッシモでささやきだすと、瑠璃色の貴族服を着た崇剛の細い体は、ピアノへそうっと忍び寄る。
冷静な水色の瞳は時折りまぶたの裏に隠され、咲き乱れる花の絨毯に仰向けに寝転がり、見上げた空に雲が流れてゆくのを愉悦に堪能するように忘我する。
部屋の中で心地よく舞っていたピアノの音は、最後の余韻がふわっと消え去った。
鍵盤からロイヤルブルーサファイアのカフスボタンが、軽く跳ね上がるように離れると、待っていたかのようにドアがノックされた。
「はい?」
ピアノの椅子に座ったまま、崇剛が返事を返すと、ピアノの音符という妖精が消え去った部屋に、
「崇剛、渡したいものがあるんだが……」
はつらつとした執事の声がドアの向こうから響き渡った。
「入ってきて構いませんよ」
ひまわり色の髪をした涼介が顔をのぞかせる。
「街で新聞の号外を配ってたから持ってきた。お前に何か役立つ情報が載ってるかもしれないからな」
気の効く執事はアーミーブーツのかかとを鳴らしながら、崇剛に近づいて目の前に紙面を差し出した。
「ありがとうございます」
策略的な主人がお礼をする姿が、綺麗に磨かれたピアノに映り込んでいた。涼介が部屋から出てゆくのを視界の端で捉えながら、崇剛は記事に視線を落とそうとした。
あちらの記事であるという可能性が89.78%――
いつもの癖で、懐中時計をポケットから取り出し、
十月十九日、水曜日、十五時五十七分五十二秒――
ピアノの鍵盤の上で紙面を細く神経質な手で広げ、冷静という名の頭脳に文字の羅列を記憶し始めた。
シュトライツ王国、ついに崩壊。ミズリー教徒により、国王を含め、王族全員が暗殺された。
拘束されていた教祖は無事に解放され、教徒たちをすぐに集め、民主主義国家にするという方針を打ち立てた。
最後に後継者の名を残し、教祖は大勢の人々の前から忽然と姿を消した。現在、行方を探しているが、まだ発見されていない――




