暗赤濁の怨線/1
――横へなびく雲がかかる朧月。
落ち着きなくあたりを見渡す、自分の目玉がふたつ。景色が左へ右へ動いては止まり、また忙しなく横流れをする。
人に見られては困るというような後ろめたさの塊でありながら、己の生活をまっとうするための手段。
別の手段があるかもしれないと思い、必死に探すこともしない、怠惰の末の行い。他人もしているからいいという甘え。
悪行という名にふさわしい、チラチラと、キョロキョロと、ギラギラ。様々な種類の視線の連続。
舗装されていない土の、デコボコ道を小走りに横切る草履。胸の中には細く重みのある鉄の塊を大切に包み抱えている。
表通りより二本も奥へ入った路地裏。民家から離れた雑草だらけの場所を、草をかき分け進んでゆく。
腰まで隠れてしまうほどの、ボウボウと生える草の海へ身を沈める。視界は夜色を浴びた隠れ藪の細長い葉だらけになった。
獣道のようなもののすぐ近くで息を殺す。虫の音も不自然なほどない、嵐の前のような静寂。
時折り風が揺らす草のすれ合うサラサラという音だけの中で、気が遠くなるほどの時間が過ぎてゆく。
ただひたすら息をじっと潜め、何かを今か今かと待つ。
やがて、微かに後方からザザッと土を鳴らす足音が近づいてきた。
焦りと息切れがひどい女の声が風に乗って、餌食という匂いを撒き散らす。
「急がないと……最近、ここら辺では……」
草むらに隠れている自分はひたすら息を潜める。蝶が巣にかかるのを待つ、蜘蛛のように。
いつでも動けるように、片膝は地面へつき、反対のそれを立てて、細長く重いものへ右手をかける。
今少しでも動けば、金属音という警報が鳴り、蝶――相手に逃げられてしまう。逃してなるものか。
女の足音が自分の体を右から左へ通り過ぎる。地面の上で草履をすうっと反転させ、忍びという円を慎重に描き、女の体に合わせて正面を向いた。
標的が背後を見せる時が狙い目――。
わかっている。今までもそうだった。幾度となく、この動きはしてきた。体が覚えている。
風も夜の匂いも相手との距離も気配も。そうして、左手の中にある鉄の塊の重さも役目も。
あと半歩で自分を通り過ぎる位置へと、女がやってきた。
照準が合ったように、自分の目の位置は一気に高くなり、薄暗い中で女の背中を肉眼で捉えた。
今が好機だ――。
草むらから自分の体は、突然獣道へザバッと踊り出した。左手にさっきから持っていた細く重たいものから、カチャッと微かな金属音が放たれ、鋭利なものをスッと抜き出す。
月の光で不気味な銀色を放ち、そのまま無防備な背を向けている女へ向かって、力みもせず、呼吸も乱さず、完全に意表をつく形で力一杯振り下ろした。
すぐと、暗赤濁の怨線が薄暗い夜道に突如浮かび上がり、
「きゃぁぁぁっっ!!!!」
女の断末魔が響き渡った。
誰もいない。自分たち以外いない。町外れの民家もない無法地帯。
自分の体や腕に生暖かい液体が、毒のように弾け飛んできた。女の背中はすぐさま屍となり、無残にも地面へ崩れ落ちた。
自分の手で人を殺した。それなのに、驚くどころか、喜びを感じる自分がいて、満足げに唇が動いた。
「これで、宇田川様に献上出来る。いい出来だ……」
服の間に慣れた感じで手を入れ、 懐紙を出し血と脂を綺麗に拭い去り、鋭利な鉄の塊を鞘へと戻した。
敬意などという言葉はどこ吹く風で、女の死体を草履でひょいとまたいだ。土の道を歩きながら、朧月を仰ぎ見る。
「そろそろ、この辺は噂が出てるから、場所を変えねえといけねえな。西の町外れのほうにするか……」
何事もなかったかのように、自分の家がある表通りへと戻ってゆく。女の死体から地面へどんどん広がってゆく血の海を、密かな月明かりが不気味に映し出していた。
*
――カンカンカン!
鉄を叩く音が、耳を引き裂くようにつんざく。炎の中に細長い鉄の塊を入れると、マグマのような赤オレンジ色の四角いものが現れた。そうしてまた、
カンカンカン!
細長いものを目の高さと並行に持ってきて、品定めするようにじっくり眺める。そばに置いてあった水面に沈めると、
ジュッ!
白い湯気が上がりながら、火が水にいきなり消されたような音がした。
それと反比例するように、あの人を斬る重みや感触が燃えるように蘇る。自身の能力を超えた、制御の効かない力を手にした、哀れな人の末路よりも、この戰慄に狂喜する自身に酔いしれる。踊らされているとも知らず。
まさか自分がそんな過ちを犯していているとも気づかず。いや、そんな愚かではないと、首を何度も横に降る――暗示をかける。
そうして、人のために役に立っているのだと、言い訳を正当な理由にすると、また自分の口の端を醜く歪めて、呪文のように唱えるのだ。
「今日も夜出かけるか」




