Time for thinking/5
四番目の妻――千恵さんだけは違った。
幽体離脱は起きず、男の霊も現れなかった。
ですが、崖下には三人の女がいました。
それらの顔は、すでに私の記憶に残っていました。
恩田 真里、霧子、涼子の三人だったのです。
彼女たちが、崖下から千恵さんの足を引っ張り転落させた。
ですから、彼女だけ死亡せずに済んだのかもしれません。
唯一の殺人未遂事件。
崇剛が意識を失っているうちに、それでも他界してしまった千恵。聖霊寮で国立を通して、千里眼で見た逮捕時の彼女の言葉が、脳裏に色濃く蘇った。
『あなたを信じています、どのような状況になろうとも……』
あちらの時点では、千恵さんは正神界であるという可能性が78.56%――
しかしながら、崖から転落させられています。
従って、可能性は上がり、89.78%――
崇剛はいつの間にか、美しい銀の月が空に冴えるのに、真っ赤な地の雨が降る断崖絶壁に囲まれた、矛盾している谷間にひとり佇んでいた――。
死装束を着た千恵が目の前で必死にもがいている。助けに行こうとしても、底なし沼が行手を阻む。助ける術をと、冷静な瞳であたりを見渡す。
白血病で入院されたのは、四月二十一日、木曜日、夕方。
亡くなったのは、一昨日、四月二十八日、木曜日、十八時二十七分三十八秒。
約一週間です。
亡くなるまでが早すぎます。
こちらから導き出せること……。
千恵さん邪神界の者によって殺されたという可能性が99.99%――
さらに、千恵さんは正神界であるという可能性が上がり、99.99%――
瞳の焦点が戻ってくると――、崇剛は青の抽象画を遠目に眺めていた。足を優雅に組み替え、後れ毛を耳にかける。
千恵さんの念が見せた二番目の場面――
夜、悲鳴が聞こえ、血の匂いがした。
こちらから導き出せること、そちらは……
千恵さんも過去世で、恩田 元に殺されているという可能性が出てくる。
殺されてもなお、千恵さんは恨みを持たなかった……みたいです。
なぜなら――
崇剛の瞬きが急に多くなり、残っていたサングリアをのどへ流し込んだ。神経質な頬を一粒の涙がこぼれ落ちてゆく。
千恵さんの生霊が言っていた言葉――
『助けて……』
『早く、助けて……』
『早く助けて。私はもう……』
これらの本当の意味は――
邪神界――悪へ降った恩田 元の魂を改心させることを『助けて』ほしいである。
という可能性が87.65%――
従って、『どのような状況になろうとも』は、邪神界であろうとも、改心することを信じている――という意味である。
巫女服ドレスを着た瑠璃は、漆黒の長い髪を小さな手で後ろへ払いのけたが、その唇はぴくりとも動かなかった。
誰かの本当の幸せを望む真実の愛が、人の心を平気で無視する人たちに無残に踏みつけにされた。
挙げ句の果て、死という再生不可能なものへ陥れられた事実を前にして、聖霊師の頬にもう一粒の涙が伝っていった。
「間に合わなかった……」
神父の体の内側で今も鳴り続けるピアノ曲。十六連符の六連打という激しいうねり。
ダンパーペダルを踏んで、余韻と滑らかさを持たせるが、すぐにペダルを離し、次の拍の頭音を際立たせるの繰り返し。
小刻みで忙しない重複音が、窓に吠え狂う嵐という獣の雄叫びのようだった。
聖女は目を閉じて、音の乱気流で浄化しようとする。理不尽な輪廻転生の歪みを。
激しい春雷の中で、聖霊師と聖女はしばらく黙ったまま、尊き心の持ち主――千恵へと弔いの花を手向けていた。
カラのワイングラスにサングリアが注がれると、冷静な頭脳の中で、事実と可能性の数値が流れ始めた。
グラスを少し柔らかい唇へつけ、重厚なブドウの香りを楽しみ、一呼吸置いた。
本日、四月三十日、土曜日、十二時十五分一秒過ぎ――
大鎌の悪霊と恩田 元の関係性の数値に関する私の思考。
『全ては恩田 元と関係する――です。100%――確定です』
こちらに対するカミエ天使の言葉は、『違う』でした。
否定の言葉ですが、私の思考が全て違うという意味とは限りません。




