Escape from evil/6
追い詰められてしまった聖女は、巫女服の袖口をもじもじと触りながら、
「そ、それは申せぬ……」
守護をする者としての苦悩に責め苛まれる。
(先に教えるとの、『あれ』にならなくなってしまうからの)
いつもと違う予兆があるのに、何の対策も立てられない。それは無謀以外の何物でもなく、神父から聖女へこの言葉が叩きつけられた。
「どなたかに口止めされているのですね?」
「しゅ、守護霊もいろいろあっての……」
百年の重みがすっかりなくなってしまった若草色の瞳は、守護する人の冷静な水色の瞳へちらちらと向けられながら、屋敷の一番東側の部屋で昨夜告げられたことを思い返す。
(あの話を我も昨晩初めて聞かされての。空前絶後の出来事での、我も驚いての。ラジュはもっと前に知っておったと思うのだが……。じゃがの、必要なことなのじゃ、今日のことは)
クリーム色のリアシートには、瑠璃の小さな人差し指がぐるぐると円を描いていた。その仕草の愛くるしさが、神父の心の氷を溶かしてゆく。
瑠璃さんも立場的に大変みたいです。
しかしながら、困りましたね。
十二時十五分過ぎに、何かが起きるということがわかっても対策が取れません。
知らずに底なし沼へと落ちるのと、知っているのにどこにどんな仕掛けがあるのか未確認のまま、前へ進むことを策略家は決して好まないのだ。しかし、彼の原動力が突き動かす。
(ですが、情報は欲しいのです――。仕方がありませんね)
静まりかえった車中に、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が響き渡った。
「それでは、こちらから歩いて登りましょう」
主人の命令に、リムジンはすぐに路肩へ止められた。八合目からハイキングコースへ一行は入った――。
そうして今、慣れない山道を四苦八苦してきたというわけだ。崇剛の茶色いロングブーツは坂道を再び登り始めた。
「そちらの出来事があり……はぁ……、私、瑠璃、涼介、瞬の四人で……はぁ……三沢岳のハイキングコースを……はぁ……登っているのです」
「崇剛、お前、普段歩いてく場所で一番遠いの旧聖堂だろう。あとは、車だし。屋敷からほとんど出ないからな。だから、運動不足でそうなるんだろう?」
手作りのお弁当を入れた大きなリュックを背負っても、平然と坂道を登ってゆく、二十代後半の執事。
「そう……はぁ……かもしれませんね」
インドア派の三十代前半の主人は息を切らしながら、高い場所にいる涼介と、下段にいる自分を客観的に見て、『下克上』だと心の内で思った。優雅な策略家の地位は完全に失われていたのだった。
運動不足の主役を置いて、執事と五歳児、そして、守護霊だけが先へ山頂へ到着しようとした時――
前を歩いていた瞬の小さな歩みは急に止まった。幼い指先が転落防止用の柵の向こう側を指す。
「パパ! あそこにひとがいる」
「どこだ?」
涼介は振り返り、不思議そうな顔を向けた。しかし、雄大な景色が広がるだけで、何も見えなかった。
というか、急斜面の崖下に林が広がっているだけで、人が立っていられるような場所ではない。
それでも、瞬は誰もいないところを見たままで、無邪気な声を上げる。
「てがしたから、でてきた」
やっと追いついた崇剛――千里眼の持ち主はすぐさま霊視をするが、
どなたもいません。
ですが、霊感のある瞬がいると言っています。
従って、時間軸がずれている過去の場面を見ているという可能性が99.99%――
自分が今通ってきた道へ一旦振り返り、瞬の小さな指がさしている場所を確認して、崇剛は合致する情報を取り出した。聖霊寮の不浄な空気に、しゃがれた声がにじむ。
『転落現場は三沢岳のハイキングコース。山頂近くの東側だ。おかしなことに、一ミリもずれてねえんだ』
まだ少し息切れが残る中、優雅な歩みは、情報提供された写真と同じ場所までやって来た。次に、日時が再生されてゆく。
二十年前、四月十二日、日曜日、十七時十六分二十五秒――
恩田 真里。恩田 元の最初の妻。転落死亡事故一件目。
メシアという感覚を使って、時間軸を正しいと思われる場面の少し前まで巻き戻し、デジタル化された新しい記憶と照らし合わせた。




