優雅な主人は罠がお好き/6
窓から一望できる霞に沈む街へと、崇剛は視線を落とし、春風に紺の長い髪を揺らす。
執事を捕獲した――押し倒したままのような主人。
未だ自分を襲うような格好で覆いかぶさっている崇剛に、涼介は真剣なベビーブルーの視線をやって、さっきより声のトーンを低くした。
「お前、つかむ相手――を間違ってるだろう」
崇剛は珍しく不思議そうな顔を、執事へ向け、
「そちらの言葉はどのような意味ですか?」
「俺がお前のこと知らないわけないだろう――?」
三十二歳の男の心臓がドクンと大きく脈を打った。こんな体験は幼い頃以来ない。全てを成功させるようにいつも計算し尽くしてきた。
そんな崇剛だったが、彼にも弱点があり、そこをつかれてどんな時も流暢に話す彼は言葉を失った。
「…………」
そうして、逆立ちしたような格好のまま、男ふたりの視線はぶつかり合い、ガッチリと動かなくなった。静寂が広がる――。
「…………」
「…………」
氷柱という先の尖った鋭い崇剛の冷静な瞳。
それに負けないほどの熱意を持った涼介の純粋な瞳。
ふたりの目の色が混じり合ってしまうほど見つめ合う。サイドテーブルに置いてあった時計の秒針が、触れ合っているお互いの手首の脈とシンクロするように、カチカチと刻んでゆく。
長い髪のせいで女性のような主人は、どこからどう見ても男性的な執事をベッドの上で押し倒し続ける。
「…………」
「…………」
今にもキスをしそうにかがみ込んだまま、男ふたりきりの寝室でそれぞれの想いを胸に立ち止まっていた。
しかしそれでも、策略的な主人は冷静な頭脳を駆使して逃げ道を作った。いつも通り優雅に微笑み、執事の耳元で吐息まじりにささやく。
「私が愛しているのは、あなた――かもしれませんよ」
「なっ!?」
主人の思惑通り、執事はびっくりして一瞬固まったその隙に、崇剛はすっと身を引いた。涼介は負けじとすぐに気を取り直して、大声で猛抗議する。
「どうして男のお前に、俺が愛されるんだ!」
崇剛は今頃時刻に気づいた振りをして、おどけたふうに言う。
「おや? もうこんな『時間』ですか」
執事が口にしている言い方――『時間』を策略的に真似して、素知らぬふりでベッドボードへシルクのブラウスの背中をつけた。
話をはぐらかされてしまった、涼介は額に手をやり、うなるように吐き捨てた。
「この、BL神父!」
懺悔から解放された執事はベッドから跳ね起きて、主人は何事もなかったように、ベッドから足を床へたらし、
「ありがとうございます――」
なぜかお礼を言ってきた崇剛に向かって、涼介はまたかみたいな顔をして、あきれ返った。
「だから、褒めてない!」
ロングブーツをはき直している神父の乱れた髪を見下ろしながら、執事は主人の身を案じて問いかける。
「もう行くのか?」
「えぇ、十五時から患者が見えますからね」
ターコイズブルーのリボンを少し柔らかい唇でくわえ、主人は鏡の中をのぞき込む。髪をブラシで整え、束ねようとして口からリボンを引き抜き、崇剛らしい言葉が色めき立った。
「約束は約束です。守らなくてはいけません――」
ルールはルール。几帳面な策略家。椅子の背もたれにもたれ掛けさせられていた、瑠璃色の上着を手に取り、慣れた感じで袖を通している崇剛の横顔に、涼介は心配そうな顔で引き留めようとする。
「今日ぐらいは休んだっていいんじゃないのか?」
「できませんよ」
首を横へゆっくり振った崇剛の思考回路は、チェスのゲームでもするように展開する。
(今から十五個前の会話は、涼介が言いました――)
『輸送の馬車が事故に遭ったらしくて、夕方までないんだ。前にもあったよな? いつだったか忘れたけど……』
人の言った内容を一字一句覚えていて、順番も全て記憶している人並外れた頭脳の持ち主が崇剛だった。優雅な主人は正直な執事に命令を下す。
「そちらよりも、ワインのほうをお願いしますよ」
「わかった」
素直に了承した涼介は、ワインに一手間加える注文を受け、その主人は廊下へ出て寝室のドアはパタンと閉まった。
イライラと涼介は部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて足を止めて、扉をじっとにらみ、
「この慈愛バカ神父! 少しは自分のことも大切にしろ!」
執事は主人に聞こえるどころか、春風舞うベルダージュ荘中に響くように毒舌を吐いた。




