発展途上の完成品/2
何だか雲行きが怪しくなっていたが、彼らより少し離れたところで、子供ひとりが嬉しそうに大声を出した。
「夕霧パパ、貴パパ!」
羽布団みたいな柔らかさの低い声で、いつもの口癖が出た。
「貴増参なので、省略しないで呼んでくださいね♪」
「子供にまで言ってる……」
そんな彼らの声さえも、コンサート会場のざわめきに吸い込まれてゆく。まだまだこれから続くディーバの歌の数々。期待を胸に待ち続ける人々の熱気に溶けていった。
*
一瞬のブラックアウトと無音のあと、光命は上階へと続く階段の下に立っていた。
光命は階段を登る。合理主義の彼は、自宅では絶対に歩かない。そのため、浮遊ですうっと斜め上に向かって進んでゆく。
少しカーブのあと、階段を上りきった。電気のついていない廊下。扉は三つ。光命は迷いもなく、真ん中の引き戸の前に立つ。次の瞬間、それを開けることなく、部屋の中に立っていた。
もう夜だというのに、明かりはたったひとつだけ。卓上電気スタンド。アンティークのもので儚げな暖色系が、本棚の隣で止まっている。
本棚は天井までの大きさのもので、前後に二列にしまわれている入りきらない本たち。プリンターの電源ケーブルはいつ足を引っ掛けてもおかしくないほど、床にだらっと横たわっていた。
それとは反対側にある窓。外に夜色が広がっているというのに、レースのカーテンのまま。その向こうのガラス窓に、女がひとり映っていた。机の上で分厚い本を開いて、ぶつぶつ言っている。
「ん〜〜? 声……入り乱れる? 歪む? ここはどっち――」
光命が真正面に顔を戻すと、長い髪を乱雑に後ろでひとつにまとめている彼女の後ろ姿が目に入った。椅子に腰掛け、PCの画面が彼女の前で白い光を発している。
その左側には、デュアルディスプレイの画面があり、音楽再生アプリのウィンドが開かれている。それは再生中。彼女の耳にあるイヤフォンからは、前はR&Bをよく流していた。
光命には意識を傾けると、微かに聞こえた。彼女の最近のお気に入り。それはループするように、同じメロディーが何度も何度も繰り返すのを、売りとしているポップスバンドの曲。
辞書で調べ物をしている。かと思ったら、突然、椅子の上で右に左にノリノリで揺れながら、PCのキーボードをパチパチと打ち出す。
「よし、ここは入り乱れるで……んん〜♪ んん〜♪」
六畳の狭い部屋。百九十八の光命の歩幅では、二、三歩で十分である。女のそばに行くには。もう距離にして、十センチまで迫っていた。
だが、彼女はまだ全然気づいておらず、強風に吹かれた木々が荒れ狂うように、頭を縦に振り、座っているのに足を斜めに蹴り出し、リズムに乗りに乗っている。
「よし、終了した。あとはデータを送信。意外と早く終わったぞ〜。んん〜♪」
光命の優雅な笑みは一層濃くなる。自分が聞かないような音楽を聴いて、そのリズムを全身で取って、座っているのに踊っている我が妻。ある意味、起用であるのを前にして、中性的な唇に手の甲を当てくすくす笑う。
(おかしな人ですね、あなたは)
右側へ一歩踏み出し、神経質な顔をのぞかせた。すると、彼女は踊るのをピタッとやめ、PCから手を離した。しかも、まるで幽霊でも見たように、自分の目を疑った、紺の長い髪を持ち、冷静な水色の瞳が部屋にさっきからいたことに。
「あれ? 後を追いかけてきたんですか?」
もうこれ以上は入りませんと言っているようなゴミ箱。と、彼女の間に光命は片膝をついて跪く。
「あなたへの懺悔の時間ですから」
あきれた顔をした颯茄は、自分よりも下になった光命の逆三角形の両肩に手を置いた。
「だから、それはもういいって言ってるじゃないですか」
いつも穏やかな妻だったが、珍しく声を荒げた。光命の紺の長い髪が強情という名で横に揺れる。
「いいえ、ルールはルールです。決まりは決まりです。あなたを十四年間待たせたのは、事実です」
颯茄は知っている。光命はPC並みに融通がきかないと。ここで違うと否定しても、同じことの繰り返しになり、永遠続いてゆく。そんな日もあった。だからこそ、今日こそは何としても、この目の前にいる男を打破しなくてはいけない。いや、罪だと勘違いしている人を助けなくてはいけない。
颯茄は机の上に置いてあった色ペンを持って、ちょっとイライラした感じで、カチカチとペン先を出してはしまってを繰り返す。
「十四年間待ったんじゃなくて、必要だったんだと思うんですよね」




