同僚と恋人/9
ショコラッテのグラスの氷が溶けて、カランと鳴ると、蓮は再び視線を戻し、話を違うことに変えた。
「夕霧は?」
「午前中に会ってきましたよ」
無限に永遠な世界。それは、温かいものは温かいまま。冷たいものは冷たいまま。それも意味していた。さっきから冷めないアリティスカティーは光命の体の奥底へ落ちてゆく、ベルガモットとシナモンの香りの暖流をまき散らしながら。
蓮の携帯電話がトレンチコートから、テーブルの上に少し投げやりに出された。
「俺はさっきメールを見た」
「そうですか。私は実際観てきました。ですが、あなたはリハーサルなどがありましたからね。警備をしている貴増参から全員にメールは届けられたみたいです」
蓮は携帯電話を取り上げ、メールアプリを立ち上げる。それはグループに送られる仕組みのもの。メンバーは限られている。
蓮の銀の長い髪は疑問で斜めに傾き、隠されていた右目が少しだけ姿を現した。
「ん? 既読が七だから、全員じゃない」
そばにあったサボテンのトゲを神経質な指先でいじりながら、光命はきちんと訂正する。
「いいえ、全員です。メールを発信した貴増参と、大会に出場した夕霧本人が抜けるのですから……」
「九引く二……七?」
数字に強い自分。
簡単な引き算に首を傾げる相手。
職場は一緒なのに、音楽というものに触れているのに、それぞれの尺度で過ごしていた同僚。今度は光命から見ると、銀の長い前髪を持ち、潔癖症の男がどう映っていたかの話になった。
「同じ音楽家ですが、あなたは私と違う。あなたは夕霧と同じで、地道な努力の末に、ディーバ ラスティン サンディルガーと芸名を改名して、今の不動の人気を手にしたのです」
「…………」
蓮は何も言わず、ただショコラッテを一口飲み、無表情でロンググラスをテーブルの上に置いた。この男の心の内はわかっている、光命には。今のは、何の自惚れもせず、謙遜もせず、ただ事実として受け止めた、肯定の意味の沈黙。
スタートは自分と同じだった、光命の前にいる男は。
「初めは、ヴァイオリンでクラシックを弾いていましたが、途中からR&Bに転身した」
「あれがよく聞いていたから、俺も聞くようになった。そうしたら、そういう曲が思い浮かぶようになった。だから、ジャンルを変えた」
砂糖もミルクも入っていない紅茶を、スプーンでかき混ぜると、自分の顔が何か別の運命にでも巻き込まれたようにクルクルと円を描いた。
「私もクラシックばかりでしたが、最近は様々なジャンルの音楽を聞くようになりましたよ」
光命の刺すような冷たさが、陽だまりのような暖かさに変わった原因のひとつがテーブルの上に降り積もった。だが、蓮の天使のように綺麗な顔は急に怒りで歪み、持っていたナプキンを乱雑に、サボテンの近くに投げ置いた。
「あれが、お前に余計な音楽を聞かせるから、動きがおかしくなった」
いきなり出てきた意味不明な言葉。金のスプーンを指先で立てたまま、光命はふと動きを止めた。
「どちらの動きですか?」
蓮は気まずそうに咳払いをして、今はテーブルの影になって見えない、光命の黒の細身のズボンのベルトのすぐ下を指差した。
「んんっ! ……光の腰だ」
瞬発力抜群ですと言わんばかりに素早く、光命の右手はスプーンから離され、カランカランとカップが鳴った。それと同時に、またサファイアブルーの宝石がついた指輪は、くすくすという笑いをそばで聞かされることになった。
(なぜ、急にセック○の話になったのでしょう? おかしな人ですね、あなたは)
ツボにはまった光命は何も返せなくなり、いわゆる彼なりの大爆笑を始めた。
「…………」
白いカットソーの肩を小刻みに揺らし、紺の長い髪は前へかがんだことによって、両肩から胸元にほとんど落ちてきていた。首回りにつけていた十字のチョーカーは、笑いの渦の中で、キラキラと店のマリンブルーのライトの中で光り続ける。
全然、笑いの沖から戻ってこれない男を前にして、蓮は不思議そうな顔をした。
「なぜ、笑っている? あれから同じ音楽を聞かされたという話だった……どこがおかしい?」
光命は冷静な頭脳という名の盾を使って、大爆笑という激情をデジタルに抑えた。姿勢を正して、紺の長い髪をゆっくりと横に振る。
「何でもありませんよ。えぇ、そうです」
ここまでは楽しい会話だった。同僚で、お互いに好きで、懐かしさと愛おしさの旅路をたどるために話していた。だが、光命の次の言葉は衝撃的だった。
「私とあなたは《《同じ女性》》を愛したのです」




