同僚と恋人/7
その時だった、左手の遠くに、春物の薄茶のトレンチコートが姿を現したのは。銀の長い前髪の奥からのぞく鋭利なスミレ色の瞳は、はるか遠くの地平線にでもビーム光線を出すように向けられていた。黒のショートブーツはモデル歩きでこっちへ進んでくる。
光命は柵から腕を離し、四十五度左へ振り返って、あの写真立てとは違って、難しい、いや超不機嫌な顔で、自分の近くへ歩いてくる男を待っていた。だがしかし、あごに手を当て首を左に倒して、どうやっても考えているのは誰でもわかる様子で光命の横を通り過ぎようとした。
「…………」
どこかの誰かさんと同じことをしている銀の髪の人。光命は両手のひらを上へ向け、顔の両脇に持ってきて優雅に降参のポーズを取った。
(困りましたね。あなたも夕霧と変わりませんね。集中するとまわりが見えなくなるという傾向がある。仕方がありませんね)
遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声がエレガントにつかまえた。
「蓮?」
銀の前髪は一旦自分とは反対方向へ向いたが、こっちへやってきた。冷静な水色の瞳と鋭利なスミレ色のそれは、音楽事務所という仕事場で一直線に交わった。
あごに当てられていた繊細な手はとかれて、最低限の言葉、いや単語が奥行きがあり少し低めの声で吹き抜けのエントランスに、素晴らしい歌声のように響き渡った。
「光……仕事?」
さっき自分の膝の上に乗っていた小さな銀の髪を持つ子供と、目の前にいる男の面影がぴったりと重なって、焼けボックリに火がつくがごとく、光命の笑みは穏やかな陽だまりみたいに微笑んだ。
「いいえ、違いますよ。あなたと話をしたくて、事務所まできました」
自分に会うためにわざわざきたと言った相手。それなのに、蓮はそっけない態度だった。
「ん」
そんな彼を前にして、光命は結婚指輪を指先で後れ毛をつかみ、悪戯っぽくクルクルと回す。
「以前よく行っていたカフェでお茶をしませんか?」
「ん」
さっきと言葉が変わっていないが、光命にはきちんとわかっていた。
「それでは、私が瞬間移動をかけます」
「…………」
そして、とうとう何の反応もしなくなった蓮とともに、光命の逆三角形の細い体はすうっと消え去った。近くを通っていた鶏の社員は気にした様子もなく、打ち合わせのスタジオのドアをグッと開けた。
*
サーッという音とともに潮の香りが突如広がった。ザバーンと潮騒が心地よく、シャッフルのリズムを刻む。海辺に面したおしゃれなカフェの窓際の席に座っていた、光命と蓮は。
入り口から入ってこない客。だが、そんなことはよくあること。店員のイルカは慣れたもので、海の中を泳ぐように浮遊して、すうっとテーブルへ近づいてきた。
「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」
どうなっているのか、胸ビレで器用に水の入ったコップふたつをそれぞれに差し出した。
紫の細身のロングブーツは優雅に椅子の上で組まれ、細く神経質な指先は紺の長い髪を耳にかき上げながら、遊線が螺旋を描く声の王子さまは、午後のひとときにこれを注文した。
「私はアリティスカティーをお願いします」
ヨットハーバーを背にして座っている蓮は、辛いの苦いの大の苦手のお子さま舌のため、このカフェで一番甘いものを頼んだ。
「ショコラッテ」
「かしこまりました」
イルカがカウンターへたどり着くと同時に、注文品はそれぞれの前にすうっと瞬間移動で現れた。ストレスレスなこの世界。
ウッドデッキへと続く店内の窓ガラスは開け放たれ、海風が潮の香りを連れてくる。それとにじみ合うベルガモットの柑橘系と、シナモンの甘くスパイシーな琥珀色。その水面を丸く切り取っているティーカップを、光命は砂糖もミルクも入れず、ストレートのまま中性的な唇に近づけた。
「こうやって、あなたとこちらのお店で、お茶をするのは九ヶ月と十六日、十三時間十四分三十二秒ぶりです」
ずいぶん細かい記憶力だったが、蓮は気にした様子もなく、店の照明がまるで海の中に潜ったように、様々なグラデーションを見せる青を銀の髪に映していた。
「ん」
ストローを使って、激甘の飲み物を飲んだが、潔癖症で口元に何かがつくのを許せない蓮は、ナプキンを一枚つかみ取り綺麗に拭った。トレンチコートは背もたれにもたれ、黒のショートブーツの膝を華麗に組む、光命のように。
カップがソーサーにぶつかるカチャッという音が、話すタイミングをもたらした。テーブルの上に置かれた小さなサボテンの緑が、ふたりの話をじっと聞く。白のカットソーの両肘はテーブルの上に乗せられ、光命は神経質なあごを手の甲に乗せた。
「あなたは私のことをどのように想って、同じ職場で過ごしてきたのですか?」
「……………………」
しばらく、鋭利なスミレ色の瞳は店内にいる他の客たちや、宝石のような輝きを降り注ぐ照明を眺めていた。だがしかし、さっきまでほとんど動かなかった綺麗な唇が普通に話し出した。
「……今は同じ二十三歳だが、俺はお前より、六年あとに生まれている。だから、そこにきたら、お前がいた」
「えぇ」
出会いはこんな平凡なものだった。優雅で芯のある声で先を促されてしまった蓮は、両腕を腰の低い位置で組んだ。
「姿を見るたびに何か気になった」
「どのように気になったのですか?」
「……………………」
光命は心優しくも紅茶を一口飲み、ベルガモットとシナモンの香りというダンスを楽しみながら待っていたが、いつまでたっても返してこない。それどころか動きもしないので、こう言った。
「私があなたに話しかけて、あなたが返事を返してこないのは、こちらで千九十二回目です」




