従兄弟と男/3
そして、こんな男の響きが引き止めた。男性にしては少し高めの声。こんな言葉は存在しないが、これしか当てはまらない。遊線。遊ぶ線。それがさらに、螺旋を描く。それなのに、優雅で芯のあるもの。
「夕霧?」
自分の名前という気つけ薬で、合気ワールドから現実へ引き戻された、夕霧命は艶やかさを持って、すうっと振り返った。そこには、小さい頃と変わらない冷静な水色の瞳。紺の長い髪があった。
「……光?」
いないはずの人がここにいる。不思議そうに袴と草履は立ち止まった。
「なぜここにいる?」
地鳴りのような低さの声が真っ直ぐ聞き返すと、光命の遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が真逆の性質を持って答えた。
「武道大会を家族で観戦するために、生徒がお休みしたのです。ですから、あなたの試合を観にきたのです」
「そうか」
二人の隣をボクサーのグローブをした狼が二足歩行ですうっと通り過ぎてゆく。
「初出場、いかがでしたか?」
「まだまだ修業が足らん」
「そうですか」
優雅な笑みつきで、短くうなずいた。ここまでは普通の会話に見えた。だが、夕霧命の前にいる光命は策士。彼のさっきからの言葉は情報収集のため。三つ前の言葉が疑問形だった。月命が言っていた、基本中の基本だと。
紺の長い髪と冷静な水色の瞳の奥に隠された、デジタルな頭脳が即座に判断を下す。
(二つ前のあなたの言葉)
『まだまだ修業が足らん』
(こちらから判断すると、あちらのことに気づいていないという可能性が99.99%)
光命は心の中で軽く嘆息した。
(仕方がありませんね。私があなたに伝えましょう)
神業のごとく、理論で計算し、自分のうなずきのあとに、言葉をつけ足した。
「ですが……」
夕霧命の敗北の理由がもうひとつ告げられる、袴姿とは似ても似つかない、エレガントな服装に身を包む男から。
「ピアニストの私でも、あなたの動きは手に取るようにわかりましたよ」
武術とは全く関係ない人に動きを読まれている武道家。同じ背丈の音楽家を、夕霧命は不思議そうに見た。
「なぜだ?」
細く神経質な手のひらを上に向け、顔の両側へ上げて、光命は優雅に降参のポーズを取った。
「困りましたね、あなたは。忘れてしまったみたいです」
「何をだ?」
そして、この世界の大原則のひとつが、遊線が螺旋を描く声で、試合中継のアナウンスに混じりながら、控え室へと続く通路に響き渡った。
「私たちは、子供をはじめとする全員が未来を読むことができます。ですから、あなたが左へ動くという未来を決めたのなら、相手にも左へ動くという未来が読まれてしまいます」
観戦席の後ろの柱で、試合が始まる前に見えていたものは、Eグループ一回戦という試合の未来だったのだ。珍しく、無感情、無動の切れ長な瞳は見開かれた、驚いたために。
「っ……思いつかんかった」
手の甲を中性的な唇につけ、光命はくすくす笑うと、逆三角形の肩が上下にさざ波を起こした。
「おかしな人ですね、あなたは」
ふたりが話している外で、聖輝隊の隊員が迷っている親子を案内してゆく。左から右へ夕霧命と光命を追い越すが、向こうからは二人の姿は見えない。光命は笑いの余韻を残しながら、言葉を続ける。
「ですから、未来を囮にして、別の方向、もしくは違う技を使わないと、一回戦を勝ち進むのは難しいかもしれませんよ」
通常では思いつきもしない、未来という名の心理戦。次の動きがどうとかではなく、試合最後までわかってしまう、相手にも観ている人にも。
夕霧命は一点集中で、光命は全ての可能性を常に抱いたまま。如実に現れた違い。無感情、無動のはしばみ色の瞳は珍しく細められた。
「お前は俺と違って、頭がいい。助言、感謝する」
「どういたしまして」
光命が優雅に微笑むと、甘くスパイシーな香水の香りが二人をそっと包んだ。ピアニストではなく、ピアノの先生としての仕事。それが光命の、今現在の職業。武道家よりもある意味、自由な身の上。
目の前にいる優雅な王子さまみたいな男。叶うのなら、もう少し話していたい。夕霧命の心の中はそんな願いが浮かび上がった。
「時間は?」
目の前にいる男の貴重な時間を、自分のために割くと言ってきている。どんな宝石よりも名誉よりも、誇り高いこと。光命は本当に余暇を楽しむ王子のように、優雅に微笑んだ。
「午前中は休みになりましたよ」
「そうか」
夕霧命が言うと、まるで以心伝心。二人は何の言葉も交わしていないのに、慣れた感じでメインアリーナからすうっと瞬間移動すると同時に、会場から歓声が上がった。その廊下を急ぎ足で過ぎてゆく、聖輝隊の担任が深緑色のマントを揺らし去っていった。




