武術と三百億年/11
お姫様を舞踏会にご招待みたいに、袖口がフリーダムに空いている白のシャツをともなって、焉貴は夕霧命に手を伸ばし、ナルシスト的に微笑んで、高い声をわざと低くしたそれで、女を落とすように言う。
「決まってるでしょ? お前と俺ですることって言ったら……」
色気もなくキスの時間がやってきたが、武道家は絶対不動の落ち着きで普通に返してきた。
「今日はどうする?」
いつもしているみたいな話運び。焉貴の指先は暗雲立ち込め、雷光がはう上空に指先と一緒に、黄緑色の異様にキラキラと輝く瞳が上げられた。
「瞬間移動で空に上がって、浮遊を使って飛んでる状態で、どう?」
普通では味わえない。空中でのキス。
「構わん」
低い声が離れた場所でしたかと思うと、武術の技、縮地を使って、あっという間に距離をつめてきた。男の香りがワンテンポ遅れて、風圧という空気の流れで連れてこられる。
それを吸い込むか込まないかの短い間で、合気をかけるように、袴の白い袖は節々がはっきりしているがしなやかな手が触れてくる、二つの結婚指輪が真実の愛という音をかすかに響かせながら。
「ちょっ!」
まだら模様の声が少しだけ聞こえると、二人の姿はすうっと消え去った。
一瞬のブラックアウトと無音のあと、手を伸ばせば雲の微粒子に触れられるほどの高い場所にいた。その中ではい回る青白い閃光に、お互いの髪の色がストロボを焚いたようににわかに染まる。
焉貴はつかまれた手をそのままに、なぜか携帯電話を見ている夕霧命の横顔に文句を放った。
「今日は俺が瞬間移動かけたかったんだけど……」
「…………」
そんなことなどバッサリ切り捨て、意識化でつながっている、あたりの景気の制御を変える。
(春モードだ)
光る粒子が弾け飛ぶように、景色は一瞬にして変わってしまった。血のような空は、ガラス玉よりもさらに透き通った青。マグマの海に立つ断崖絶壁に囲まれた大地は、どこまでも続く黄色の菜の花畑になった。ふたりのそばを、二羽の小鳥が愛の歌をさえずりながら舞い上がってゆく。
袴の袖の奥に慣れた感じで、不釣り合いな携帯電話をしまって、一点集中を如実に表す、色気も何もあったものではない、真っ直ぐな言葉が青空の下で響いた。
「するか?」
焉貴はすうっと横滑りしてきて、ピンクの細身のパンツは、紺の袴に寄り添うように近づいた。またナルシスト的に微笑んで、螺旋階段を突き落としたみたいなぐるぐる感のある声で、意味ありげに聞く。
「女には秘密だよ?」
禁断の香りが思いっきり漂っていたが、夕霧命の真っ直ぐツッコミが、敵から武器を奪ったように艶やかにやってきた。
「女ではない、妻にだ。お前と俺は結婚している」
焉貴は気にせず、芸術的な武術を生み出す、節々のはっきりしているがしなやかな手を、指一本一本をまるで体の奥深くをなめるように絡ませる。
「俺に、キスっていう武術の技かけちゃって?」
「構わん」
夕霧命が短くうなずくと、紺のデッキシューズはぴょんと空中を両足で蹴り上げ、ピンクの細身のズボンは、袴の白と紺の境目に羽交い締めにするように巻きついた。
焉貴が抱っこの形で、袴の白い袖は両腕とも背中に回され、しっかりと抱きしめた。顔をお互い同じ方向へ少しだけ傾け、半開きになった唇というジューシーで艶かしい実を食むように近づくと、ズレあった瞳はすっと閉じられた。
女とする時とは違う、少し硬めの感触が唇に広がる。竜巻のように吹いてきた春風に、菜の花の黄色と桜の淡い桃色がくるくると回る。二色の綺麗な螺旋を描いて、二人のまわりを下から上へと登ってゆく。大きく取られたお互いの裾がフワフワと風を大きく吸って膨れ上げる。
(合気の達人。その若さで、達人にはなれない。誰もなってない。そのお前とする、唯一無二の極上のキス)
ふたりの靴底が不安定に浮いたまま、青空と菜の花畑の間に、両足と両腕ががんじがらめで止まっている、焉貴と夕霧命。羽交い締めという密着度満点の体勢で、キスは強めに綿菓子のように甘くふわふわと続いてゆく。
(お前の正中線と俺の正中線が重なり合う。たまらんキスだ)
深緑と山吹色の髪がお互いの頬に乱れ絡みつこうと、そんなことなど蚊帳の外の出来事というように、真っ暗な視界の中で、愛しくて仕方がない男の香りを、間合いゼロで吸い込み、全身を快感という毒が甘美にしびれさせていた。
キスが終わると、春が広がる地面へ寝転がる。宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳、と、無感情、無動のはしばみ色の瞳には、青空が真正面に広がり、菜の花の黄色が体を包むシーツの海のようだった。
お互いの体温で温め合った唇は、今も存在感を色濃く残し、体中に甘いハチミツをこぼすように広がってゆく。だが、その余韻も日本刀でバッサリ切り捨てるように、夕霧命はすうっと立ち上がった。手のひらを軽くついただけで、艶やかに一本の縦の線を崩さずに。
「俺はもう出る」
その手には砂色の四角いカラのお弁当箱。その結び目は手渡された時には、女が長い髪を結い上げたキュッという色気が匂い出ていた。だが、今は袴を着て、精神統一したようなピンとした一本の線が縦に入る、結び目が夫によって、交換日記のように新しい跡をつけられた。
映画に出てくる侍のような綺麗な後ろ姿を見せている夕霧命へ振り返って、焉貴はさっと起き上がる。瞬間移動を使って、紺のデッキシューズで不思議と菜の花を踏み潰すこともなく、ピンクの細身のズボンは一瞬で立った。
「そう、じゃあ、俺も出ようかな? 今日はあれのコンサートがあるしね」
縮地を使って、歩いているように見えるのに走ってる速度で動いている夕霧命の前に、なぜかドアノブがあった。それを回しながら、低く短くうなずく。
「そうだ」
焉貴はもう一度瞬間移動で、武術の技のスピードに追いつき、袴の背中のすぐ近くに、フリーダムな白のシャツは突如現れ、すっと扉が開かれると、二人の姿はその向こう側へ消えた。
誰もいなくなった春の景色。それは急にユラユラと揺れ、モノクロになったかと思うと、全て消え去った。気がつくと、そこはただの真っ白な壁で、何ひとつ物のないただの部屋。窓がひとつあるだけで、その向こうには、桜の大木から花びらがこぼれ落ちる本物の外が広がっていた。




