武術と三百億年/4
会場の人々が試合会場に疑問という視線を送っている一番後ろで、細く神経質な手は優雅にあごに当てられ、解説者席で達人の熱弁が繰り広げられる。
「気の流れと内側にある筋肉を使って、長距離を短時間で移動する、武術の基本の技じゃ」
「そのために、通常の瞬間移動と違って見えたんですね? 移動の仕方が……その時のスローモーション映像、すぐに出せますか?」
大画面の下の方に小さな割り込みが入り、観客も投げられるリボンも何もかもが止まったように動いている中、夕霧命の白と紺の袴が体を少しかがませて、重い弾丸が鋭い線を描くように回り込でゆく。敵の背後に艶やかに走り込み、衝動で動く深緑の短髪が乱れつく頬は凛々しいばかり。そうこうしているうちに、試合会場に動きがあった。
「振り返って、緑のくまさん、夕霧命に攻撃を仕掛ける。数々の鮭を刈ってきた、その力強く鋭い爪で、一気に降参に持ち込むか!」
春風も何もかも引き裂かんばかりに向かってくる、鋭い爪をさけるでもなく、夕霧命はただただ絶対不動の落ち着きを払って、視線をはずすことなく待ち続ける。
(柔術の内のテコの原理。……相手のバランスを崩す)
自分の胸に真っ直ぐ向かってきていた熊の力強く太い腕に、右の袴の袖がふわっと持ち上がるように動いた。真正面からの攻撃。それをかわすために、一旦緑のくまさんの腕をつかんで止めた――ように見せかけて、力が迫合いを起こす寸前で、夕霧命は足音ひとつ立てずに、左横へ全体的に移動した。それはほんの一瞬の出来事だった。
「夕霧命、攻撃を左にさけて、かわした! だが、夕霧命、逃げているだけでは、勝利はやってこない」
アナウンサーの興奮した声が、会場中に響き渡ったが、じいさんが年老いたのんびりとした雰囲気で否定する。
「あれは逃げてるのではあらん」
「歳を重ねたら九十センチ背が縮んでしまった達人さん、それはどういうことでしょう?」
アナウンサーの顔が一瞬、試合会場から振り返った。そこには、枯れ木のような細い腕を組んでいる、達人のじいさんが余裕でいた。
「合気は気の流れを使って、技をかける武術じゃ。そのためには、相手の呼吸と相手の体の支点をまずつかまなければいかん。それを、夕霧命は今しとるところじゃ」
「なかなか繊細な武術ですね」
遠くの空へ、他の宇宙へ行く飛行機が銀の煌きを連れてゆく。
「一ミリでもズレたら、相手に技をかけるどころか、こっちがやられてしまう。なにせ、基本的には間合いがゼロならんと、技をかけられんからの」
夕霧命が習得している武術は、非常に危険なものだった。相手の懐近くに入り込まないとかけられない技。
「ぐわぁーっ!」
2本足の熊が相手を屠るように、鋭い牙のように拳が放たれた。
袴の裾と袖口から出ている、夕霧命の手足はそれでも動かず、歓声の渦がすうっと小さく消えてゆく。無の境地で、水面の波紋が広がるように敵の動きを的確に読み切った。
(来る。左。相手の操れる支点を奪う)
会場中にある画面には、真正面から熊の攻撃を受ける、人の男が映っていた。誰もが思っているであろうことを、アナウンサーは口走る。
「おっと、素早いパンチが緑のくまさんから夕霧命に向かってゆく! ここで、試合終了か! ちょっと早すぎるぞ」
ビューッと自分の胸に迫りくるパンチ。それがあと数ミリでぶつかる、それでも、夕霧命は待ち続ける。間合いがゼロになるまで。恐れも焦りも先制攻撃さえも、バッサリと絶対不動で切り捨てる。
(心理戦。相手の技を受けるふりをして、払う)
袴の袖が艶やかにすっと自分の内側へ動き、すぐさま熊の腕の外を、スルスルと絶妙に節々のがはっきりしているのにしなやかな腕が手がすり抜けてゆく。
「夕霧命、よけた!」
勢い余った熊の大きな体は前のめりになり、夕霧命の左側をすれ違い始めた。腕は触れ合ったまま、全ての動きがスローモーションになる。合気の達人は着実に技を発動する手順を踏んでゆく。
(相手がバランスを崩した。左の肩甲骨の意識を高める。奪った支点を肩甲骨まわりで回す。合気)
夕霧命がつかんだわけでも、足を引っ掛けたわけでもない。それなのに、熊の大きな茶色の体はまるで芸術というようにすうっと宙に持ち上がり、前転するようにくるっと回り、背中から試合会場に落ちた。それはほんの一瞬のことで、遅れて驚きの声が会場中からとどろいた。
「うぉぉぉぉっっ!?!?!?」
アナウンサーは座っていた椅子から思わず立ち上がり、興奮を隠しきれないというように、スタンドマイクを手でガバッとつかんだ。
「おっと、どうした! 緑のくまさん、夕霧命とすれ違いざまに、勝手に空中で前転して、背中から試合会場に落ちた。しかも、背中を強打だ!」
じいさんが口を動かすと、白いひげがモサモサと揺れる。
「あれが合気じゃ。緑のくまさんは攻撃するために、前に力が向かっておったが、それを夕霧命が不意打ちで右によけたことで、目標がなくなった緑のくまさんがバランスを崩したんじゃ。合気は触れていればかかる。だがの、相手がしっかりと立っている状態でかけるのはなかなか難しいんじゃ。じゃから、バランスを崩した隙に、相手の操れる支点を己に奪うんじゃ」




