武術と三百億年/3
会場にいる人々は不思議そうな顔でことの成り行きを見守っていた。何が起きているのかよく分かっている達人の説明が入る。
「あれは夕霧命が正中線の意識を強くして、遠くの宇宙にまで伸ばしたんじゃ」
メインアリーナの観戦客のみんなが息を飲む中、アナウンサーとじいさんの声が、人々という絹の布地に染み込むように、会場の隅々に行き渡ってゆく。
「正中線とはなんですか?」
「体の中心を上下を貫く気の流れじゃ。持っとるやつはなかなかおらん」
試合会場の一番後ろの通路は、聖輝隊の隊員がスコープと無線でやり取りをしながら、右へ左へ忙しそうに動いている。近くの柱のすぐ横で、紺の肩より長い髪はそよ風に揺られる。その人のまわりだけでは、夢想的な趣のあるインストゥルメンタル――夢想曲が奏でられているようだった。
アナウンサーの目は夕霧命と緑のくまさんの距離がどんどん離れていっているの見て取った。
「それがあると、戦いにはどんな威力を発揮するんですか?」
「相手の動きを抑えられるんじゃ」
「触れてもいないのに、それができるいうことですか?」
「そうじゃ。己より大きなものに上から見られると、人は恐怖心が生まれるじゃろ?」
「えぇ、手が震えたりしますね。まるで蛇に睨まれたカエルみたいに」
大画面を見つめる水色の瞳はついっと細められる。その人は背中で、最後列よりも後ろの通路の柱に、優雅にもたれかかっていた。
音速というズレは起きずに、達人のじいさんの声は全会場に同時に伝わってゆく。
「今、緑のくまさんは、教会や神社で感じる、人知を超えた存在の畏敬を強く感じてるのと同じ状態じゃ」
「かかっていくのを躊躇しますね、それは。このまま、戦いもせずに恐怖心だけで試合終了か!」
見えないもの、だが感じられるもの。それは、そこに何らかの存在がある。それは現実。気の流れも同じ。夕霧命はいわゆる、雰囲気というものを意図的に変える技を習得していた。
「じゃがの、相手の方が人生経験は豊富じゃ。恐怖心もいっときじゃ。一気に間合いは崩れてくるじゃろう」
年老いた声が言い終えると、試合場で動きがあった。人々のどよめきがそれに反応して、アリーナという大きな器の中で揺れ動く。
「おう!」
歓声をバックにアナウンサーが声を張り上げた。
「歳を重ねたら九十センチ背が縮んでしまった達人さんの言った通り、やはり戦況は動いてきた! 緑のくまさん、力技を仕掛けるため、夕霧命に突進してきた!」
二本でどっしりとした太い足が地響きを鳴らしながら、ドスドスと試合会場の上を足早に進んでくる、熊の鋭い爪で切り裂くような殺気丸出しで。
無感情、無動の切れ長な瞳はそれをじっととらえたまま、紺と白の袴は風にはためく以外、動く気配を見せない。
(まずは相手の呼吸。……人族より、深く大きい)
ガバーッと熊の大きな両腕は振り上げれて、地の底から振動させるようなうなり声が上がった。
「うぉっ!」
ビュッという音が鳴るほど、勢いよく太く力強い熊の両腕は振り下ろされる。それでも、深緑の短い髪は動こうともせず、あと一ミリで自分を切り裂くというところで、
(瞬間移動)
すっと消え去った。相手にかけるのは禁止されているが、自分にかけることは許されている動き。空振りに終わりそうだった両腕を落としていた途中で止めると、茶色の毛並みがさざ波のようになびいた。
熊の鋭い瞳には映っていなかったが、アナウンサーの目にはきちんととらえられていた。白と紺の袴の行方が。
「おっと、緑のくまさんの真後ろに、夕霧命が瞬間移動した。背後を取られた!」
夕霧命の艶やかな背の高い体躯はさっきと同じように立っていた。
「夕霧命じゃがの。じっとしているように見えて、微動してるのじゃ」
「それはどういうことですか?」
「正中線を使って立つをそうなるのじゃ。余分な力がどこにも入っとらんからじゃ」
じいさんの解説を聞くことなく、合気の達人は対戦相手のクマを見据える。
(相手の操れる支点。……腹より三センチ上の前面から十七センチ奥)
緑のくまさんはくるっと振り返って、ドスドスと足音を立てながら、夕霧命にその鋭い爪を向けてゆく。
「がぁーっ!」
(正中線。腸腰筋。腸骨筋。足裏の意識を高める……。縮地)
だが、残像を少し残したまま、まるで猛スピードで物が動いたように、袴はすうっと横に揺れて消え去った。
「また背後に瞬間移動だ、夕霧命」
アナウンサーの間違いを、達人は即座にのんびりと注意した。
「今のは瞬間移動ではあらん。縮地という技を使ったんじゃ」
「縮地とは何でしょう?」




