武術と三百億年/1
時は午前中へと巻き戻る――
手を伸ばせば届きそうな青空。空中庭園の上空を風に乗せられ気持ちよさそうに飛んでゆく雲たち。飛行機が銀の線を描いで離陸するが、その轟音はさっきからかき消されている。武術大会が行われているメインアリーナの人々の歓声やどよめきによって。
米粒大のたくさんの人たちが思い思いに動き、声を掛ける楕円形の観客席。投げ入れられた色とりどりのリボンたちが、海中を泳ぐ魚の群れのように横へ横へ流れてゆく。時折、金や銀の細い線が竜が空を登ってゆくように、巻き上げられる。
聖輝隊のマントはあちこちに配備していた。次から次へと人が訪れても、空席はまだまだある底無し沼のような球技場。人々の服の色が万華鏡のように、普遍的に好き勝手に動く。
開場以来、静寂が全くやってこない。客席の中に浮かぶ大画面。それは媒体があるのではなく、空中に直接映し出されるため、夜色を向こう側にした窓ガラスが鏡になるように映像が透明感を出しつつ、はっきりとした輪郭を作り出していた。
その中央に、青空の上にポッカリと浮かぶ試合会場。それが碁盤のように横たわっている。両脇から対戦者がやってきて、真ん中に立っていた審判が右手を上げると、一層歓声の渦が強まった。
津波が押し寄せるように、人々の声援を背で受ける形で、控室からの通路を歩いてくる男がいた。日陰でまだよくわからないが、フィギアスケートのスピンをしたような縦に一本の線がすうっと入り、歩いているのに左右前後に一ミリも揺れることなく、その男はやってくる。
会場へと続く、地面の青空の上に一歩踏み出す。それは靴ではなく草履。骨格のいい裸足が連れてくる、紺のスカートのようなものを。光が当たると、それは袴だった。
袖は白い旗のように両脇で揺れている。身を清めた神主のようなピンと張り詰める和装の色気が漂う。その人の瞳は、無感情、無動、重厚感のあるはしばみ色の切れ長な瞳だった。
歩く姿は艶やか。隠しても隠しきれない、男の匂い立つ色香。他からの奥深くから鍛錬という修行の日々で手に入れた、真の美しさを放ちながらやってくる、その男は。
大きな岩のような揺るぎない沈着さを持っているが、カーキ色の癖げと優しさの満ちあふれたブランの瞳を持つ、警備をしている貴増参の横を、男は悠然と通り抜けていった。
大音量で鳴り響く、たくさんの人の声と興奮。人混みに酔うように、普通なら戸惑い緊張してしまうところだが、この男が持つ絶対不動の性質がそうはさせなかった。
観客席から見ると碁盤のように小さい試合会場は、一段高くなっていた。それを挟んだ向こう側に対戦相手が立っていた。細い針をさらにねじったようなピンと緊迫した空気が張り詰める。
選手がふたりとも試合会場の脇へやってくると、中央にいた審判が手を大きく上げて、声を張り上げた。
「十時三十分になりました。それでは両者とも、試合場へ上がってください」
階段を足で上がるのではなく、体がすうっと浮き上がって選手たちは会場へ登った。
人の山どころではなく、山脈に四方を囲まれた試合会場。そこから少し離れたところに、解説者席があった。血湧き肉躍る興奮を抑えられないという感じで、スタンドマイクの前でアナウンサーの男の声が、会場中に響き渡った。
「さぁ、一回戦、Eグループ。緑のくまさん対夕霧命。そろそろ、試合開始です。いかがですか? 解説者の、歳を重ねたら九十センチ背が縮んでしまった達人さん」
話を振られた人は、テーブルの下からかろうじて、光る頭が出ているだけの、小さなじいさんだった。仙人みたいな真っ白なフサフサした眉とヒゲ。年老いた声が、自分の名前に物言いをつける。
「縮んでしまったんじゃなくての、わざと縮ませたんじゃ、わしが自らの」
アナウンサーは見向きもせず、試合に注目しながら、まくし立てるように話し続ける。
「そちらの言葉は今ので、十三回目ですので、時間の都合上、拾いません。お笑いはまた別の機会にということで、解説をお願いします」
頭しか見えていない達人は、アナウンサーの方へ顔を向けた、いかにもか弱そうな雰囲気を出しながら。
「年寄りに冷たいの、お主。わしも老い先短いんじゃがの、ゴホッ、ゴホッ! もう少し優しくせん――」
それさえも、アナウンサーは早口で阻止する。
「はるか昔、世界の法則として、『老い』というものが取り入れられましたが、ほとんどの方が必要ないということで廃止になりました。ですが、一部のお笑い好きの男性のみが今も使っており、おじいさんになっているだけで、歳を重ねたら九十センチ背が縮んでしまった達人さんは、本来の姿は十八歳で、背も伸びて七十センチから百六十センチになると、打ち合わせ時にうかがいました。時間が迫っています。ですから、ここは飛ばして、解説の方をお願いします」




