先生と逢い引き/1
恋の微熱のように吹いていた夏風が、流れ落ちるように消え去ると、目の前に現れたのは小学校の校庭だった。さっきまでサッカーをしていた子供たちの姿はどこにもなく、使っていたボールもゴールまでも、なぜかきれいになくなっていた。
白い着物の袖をともなった孔明の大きな手で、レースのカーテンはゆっくり開けられた。どこかの美術館かと勘違いするほどの、曲線美を持つ上り階段が広がる前で、ずっと隠し持っている銅色の懐中時計を出した。
「十三時二十八分六秒……」
大きく伸びをして、「あ〜ああ〜」どさっと両腕を脇へ下ろした。「約束の時間に遅れちゃった。十三時三十三分から講演会はスタートだったのに」
くるっと部屋へ向き直って、誰もいない待合室を眺める。
「それに間に合うように、二十八分に迎えにくるって言われてたのに、六秒遅刻……」
失敗しているようだったが、孔明は春風に吹かれながらスキップするように楽しそうに笑った。
「ふふっ。な〜んちゃって。嘘かも!」
応接セットのローテーブルには、どんな強い雨風にも負けない岩のようにじっと動かない存在感の大きな弁当箱がいた。その結び目は、最初は女の長い髪を結い上げたような色気を漂わせていたが、今は美しい筆文字を書くほど器用な手を持つ、孔明の男の色香に取って代わっていた。
「ボクのこと迎えにこようと一回したかも? あの男の先生」
約束の時刻を過ぎているのだから、その可能性は大きい。しかも、瞬間移動をして別の惑星へ行ってしまって、席をいきなり外している。というわけで、その可能性はさらに上がるのだった。
窓へ振り返ると、眉目秀麗な自分のキリッとした眉尻と、どこまでも広がる氷の湖のように冷たい雰囲気がガラスに映っていた。
「恋愛で相手を振り向かせる。それを成功させるためには、余計な感情は捨てる。今の罠の最終目的はこれ。明引呼からキスしたいと思うようにさせて、すること」
さっき話した、あの甘々で砕けた感じの言葉が全て罠で、何ひとつ無駄がなかったことを、孔明は一人でつぶやいた。
「それをするために、ボクは具体的にこうした」
銀のチェーンブレスレットを、指先でくるくると回し弄び始める。
「貴増参はボケてるところがある。罠を張る時がある。そうすると、明引呼にラブレターの主が誰か告げないで、貴増参は仕事に戻る可能性が高い」
すうっと手に戻ってきた、閉じたままの紫の扇子を縦にして、先を唇に当て、紙の少し痛いくらいの感触を感じる。
「明引呼は挑発的なところがある。ラブレターの主がわからない。そうなると、探そうとする可能性が高い。そこへボクが電話をして、ボクだと告げる。明引呼の興味はボクに自然と向く」
両脇に追いやられたレースのカーテンを、扇子の先端でなぞり、繊維に引っかかりもたつき、わざと崩したリズムを刻む楽器の音色のように楽しむ。
「でも、それだけじゃ、明引呼の心をボクに向けることは少し難しい。だから、わからないことを放置したくない明引呼が、未だに知らないことを聞いてくるように話を仕向けた。その答えを囮にして、興味をさらに惹きつけるために」
今もジリジリと線香花火のような熱を発している唇を、指先で何度もなでる。
「だけど、気をつけないとけないのは、キスをすることから遠くならないように話すこと。だから、ボクの話す内容にはずっと色がついてたんだ」
唇を軽くトントンと叩くと、薄手の白い袖口は、乱れた髪をかきあげる女のような色気を振りまいた。
今は春で、いくぶん色 褪せている青空を見上げたが、さっき男とキスをしてきた、あの惑星の姿を仰ぎ見ることはできなかった。夜になれば、一番近くの輝く星として、人々を魅了するのに。
「そして、明引呼のキスをしたいっていう気持ちを二回確認した。でも、隣の惑星で離れてて、会いにいけない。お互い仕事中でもあるしね」
小学校でこれから講演会を行う大先生の頭脳はやはり優れていた。
「そこで、ボクが瞬間移動をいきなりして、キスをした。だから、目標は達成、ボクの勝ち!」
持っていた扇子をバッと開いて、漆黒の髪をパタパタと仰ぎ揺らした、まるで国家規模の戦場で、つかみ取った勝利を祝福するように。




