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定められた土地で咲いて実る

 ナザロフ王は、またファビエンヌの手が温かさを取り戻すまで続けて通った。

 温かさを取り戻した分、ナザロフ王は自分を受け入れて貰えたように感じるのだ。


 これまでのファビエンヌの変化は伽の間隔を空けすぎたのが原因ではないかとナザロフ王は疑っていた。

 だから今回ファビエンヌの所に7日間続けて通ったあと1日だけフィロメナ王女の元へ行った。

 そして、またファビエンヌに伽を命じてみたのだ。


 その夜、ナザロフ王は来るなり掴んだファビエンヌの手の温度に落胆してしまう。

 2日前までは確かに温かかったはずの手は氷水に漬けたように冷えていて、ナザロフ王の掌から温度を吸い取っている。

 これはもう言わねばならんとナザロフ王は口を開いた。


「ファビエンヌ…」


「はい、陛下」


 改まった様子で名を呼ばれた。

 これから何を言われるか見当がつかない。

 ファビエンヌは首を少し傾げた姿勢でナザロフ王の言葉を待つ。


「――女はな。男より精神的なものが体に出やすい」


「そうですか」


 この話が何処に繋がるか見えないファビエンヌは、また続く言葉を待った。


「お前、心になにを隠している?」


 ファビエンヌは一度瞬きをしたあと、少し俯いて目を伏せた。

 時間にして3秒。その間に動揺して乱れた感情は押し潰して消した。

 ファビエンヌは顔を上げてナザロフ王と目を合わせた。


「なぜ、わたしが隠しごとをしていると思われるのですか?」


「気付いていないのか。1日でも間が空くと、お前の手は冷えてしまう」


 その答えに正確に状態を把握できていないことが分かる。

 ファビエンヌは恐縮した表情をベースに悲しさを散りばめて驚きを添えると大陸共通語で言った。


「まあ。わたくし、気付かない内に陛下にご不快な思いをさせてしまったのですね。申し訳ありませんでした。これからはお越しの前には必ず手を温めておきますわ」


 珍しく眉間に皺を寄せてナザロフ王が言った。


「違う。そういうことを言っているんじゃない」


「――親愛なる陛下。そういうことですわ」


 ファビエンヌは言いながらナザロフ王の両頬にそっと手を添えた。


「いつも身に余る程のご厚情を賜って、わたくし心から感謝しておりますの」


 感謝されたいわけじゃないと、深く短いため息を吐いてナザロフ王は首を振る。


「よせ。ファビエンヌ」


 ファビエンヌも首を横に振った。


「ここは身を削り心を削り国のために尽くす陛下がお体とお心をお休めになるところです。わたくしのことでお心を煩わせる必要はございません」


 ナザロフ王はファビエンヌの手首を掴んで自分の両頬に添えられている手を下ろした。


「心配しているんだ。ファビエンヌ。わかるだろう?」


 この国に来てまだそれほど経っていない。

 それなのに、こんな風にナザロフ王が心を寄せてくれるのがファビエンヌには意外だった。

 どんな顔をして良いのか分からなくなってファビエンヌは目の前の厚い胸に顔を埋める。


「結婚して環境が大きく変わったのですもの。心と体が驚いてしまったのですわ。きっとそうです。そのうち治まります」


「今日だけだ。今日だけそれで誤魔化されてやる」


 頭の上から言われるのを黙って聞いたファビエンヌは広く厚い胸の中で小さく頷いた。

 そのまま何も言われないのでファビエンヌは抱きしめられるまま長椅子で静かにしていた。少し間があって、また頭の上から籠もった声がする。


「ファビエンヌ。ここはハーレムだ。お前のところばかりは来れない」


「ええ、承知しております。敬愛する陛下」


 ナザロフ王は真意を窺いたくてファビエンヌの表情を見るために肩を掴んで胸から引き離した。


「女達の元に訪れることでハーレムに送り込んだ要人達や同盟国の顔を立てているのだと理解しております。そして、わたくしもその女の一人。大丈夫です。弁えております」


 ファビエンヌの強靭な理性がそう言わせた。それはファビエンヌの心を守る強固な盾だった。

 夫であるナザロフ王の前で心を守らなくて良い日が来るのかは今のファビエンヌには分からなかった。


 そして、ナザロフ王はファビエンヌのこの言葉に少なからず傷ついていた。

 思わず違うと否定したくなる。だが違うところはない。実際そうだった。

 慰み目的であっても、子供を孕ませる目的でもあっても、献上された女を抱いて褒美をやり、時々我儘を聞いて甘やかすことで、献上元に満足していると見せる。間接的にこの信頼関係が継続していると見せるのだ。

 だから、否定せずにナザロフ王は言葉を飲んだ。


「…これからは、他の女のところへ行く日はその前に顔を出す。1時間程度になるが話をしよう」


 ファビエンヌは首を強く振った。垂らしたままの長い金髪が部屋の灯りを反射させながら揺れる。


「いけません。このハーレムの決まりでは王が1晩に2人の女の元へ行かないことになっていると聞いています」


「別に抱くわけじゃない。それもお前の体が良くなるまでだ。すぐに治るなら問題ないだろう?」


「…わたくしのために決まりを破られるのですか?」


 悲しそうな顔をするのでナザロフ王は困惑する。


「破ったことにはならない。そもそも、わたしが作った決まりだ」


 それでは納得しないのを見て取ったナザロフ王は理由を言ってやる。


「前王のハーレムでは一晩に幾人もの女を召されるのが普通で、昔それを母上は嫌がっていた。だから自分ではそうしないと決めた。それだけのことだ」


 聞き終えてもファビエンヌは俯いて物憂げに碧い瞳を揺らしている。

 ナザロフ王は軽く抱きしめてファビエンヌをあやすように揺すってやった。

 触れている腕からファビエンヌの沈んだ気持ちが伝わってくる。

 いつまでもファビエンヌが沈んでいるのでナザロフ王は横抱きで寝台まで連れていき、甘やかして夜を過ごした。



 次の夜、ナザロフ王はヘドヴィカの所に行く前に約束通りファビエンヌの部屋に立ち寄った。


「やあ、ファビエンヌ。体の調子はどうだ」


 予告通り本当に来たのかとファビエンヌは驚いて大陸共通語で挨拶を返した。


「ごきげんよう、尊敬する陛下。勿論、わたくしには何も問題ありませんわ」


 ナザロフ王は疑わしそうな顔でファビエンヌの手を掴む。

 昨日より少し温かいことが分かると顔を緩ませた。


 夜伽用ではないファビエンヌの寝間着姿とゆるく編んで垂らされただけの髪型が新鮮でナザロフ王はじっくりと検分した。

 目が合うとファビエンヌは、にこりとする。


「なにか召し上がりますか?」


「いや、お前が飲むといい」


 いつものようにデキャンタから果実酒をグラスに半量注いでファビエンヌに渡した。


 ナザロフ王は、ちらりと寝台の方を見たがすぐに首を軽く振る。

 話をする場をいつものように寝台にしようかと思ったが、うっかり手をだしたら困るから、やっぱり止めようという心の声が聞こえてきそうだった。

 疚しい気持ちを誤魔化すために所在なく目線を漂わせたナザロフ王がセンターテーブルの上に飾られた小さなブーケを見つけた。


「今日はこっちに飾っているのか」


 伽の褒美と共に贈られる小さなブーケは、いつも寝台のサイドテーブルの上に飾ってある。


「ええ、今夜はあちらの部屋へは一緒に参りませんもの」


 そう言われると何だか勿体なく思えてくるのが男心というものだ。

 ナザロフ王はファビエンヌと寝台のある場所を交互に見る。

 もちろんファビエンヌは先手を打って牽制した。


「英明なる陛下。元異教徒のわたくしには、違う女の香りを染み込ませたまま女を抱くのは罪深く感じるのです。どうお思いに?」


「…それをお前が嫌がっていることは覚えておこう」


 そう言って神妙にするのでファビエンヌはナザロフ王がなんだか可愛く思えて、くすりと笑った。

 小さく微笑むファビエンヌの肩を抱こうと無意識に手を伸ばして、ナザロフ王は触れる寸前に手を上にあげた。


「近くに居るとうっかり触ってしまいそうになるな」


「…すぐに慣れますわ」


 触っていけないと思うと唇や首や体に目が行ってしまう。

 そんな男の性を仕方がなく思いながらナザロフ王は気分直しの話題を提供した。


「以前、仕事がしたいと言っていただろう?実は何を任せたらいいか考えている」


「わたくしに出来ることでしたらなんでも。どうぞ如何様にもお使いください」


「なんでも?」


 ナザロフ王はファビエンヌの言葉の一部を繰り返す。ファビエンヌのその言葉から裏打ちされた自信を感じる。


「元々わたくしは王の隣に立つ女として教育を受けてきたのです。陛下のお力になることが喜びです。不安定な国政を立て直すためになにが出来るのか、どうかわたくしにも考えさせてください」


 この国では女が国政に関わることはなかったが、ファビエンヌが配下のような位置からではなく、一歩下がった自分の隣で寄り添い支えようとしていることにナザロフ王は驚くと共に喜びもした。


 王は贅沢ができるだけの楽な仕事じゃない。緊張を強いられながら自分の心を殺し、王冠に耐え難い痛みと重みを感じても誰にも見せずに超然としていなければならない。王たる自分の孤独な心の傍らに静かに在ろうとするファビエンヌの姿を想像してみる。

 ナザロフ王は安らぎと心強さを感じた。


 約束の時間になり、部屋の扉の前までファビエンヌに見送られたナザロフ王は、このまま離れるのが名残惜しくて立ったまま暫し見つめ合った。それから、後ろ髪を引かれつつヘドヴィカの元へ行った。



 そして、次の夜。

 ファビエンヌの手を掴んだままナザロフ王は悲しげに顔を歪めた。


「すっかり話してくれ。ファビエンヌ。もう隠すな」


 前日より冷えている手がナザロフ王の考えの誤りを証明していた。


 ファビエンヌは観念して話してしまおうかと思ったが、その前に聞いておきたいことがあった。

 これからは今の拙いナザロフ語で話をするのは無理があり、ファビエンヌは大陸共通語で言った。


「篤実にして寛大な陛下。その前にお聞きしたいことがございます。わたくしに質問の機会をいただけますでしょうか」


 硬い表情の動きの悪くなった唇から了承の言葉が紡がれる。


「…ああ、許す」


 この一言を皮切りにファビエンヌは打ち明けるか否かを決める質問を投げかける。


「それではこれより、陛下には目を閉じた状態で、わたくしの言葉のままご想像いただきたいのです。まずはご自身が今、理想の王に仕えているところを」


 意図が分からずナザロフ王は少し戸惑いながら頷いた。


「ああ、わかった」


 返事と同時にナザロフ王は目を閉じる。

 それを合図にファビエンヌは昔話をするように、ゆっくりと話しだした。


「貴方様の居場所には、王の為に作られた古くからの制度がありました。それは王にさえ撤廃できないものです。貴方様はその制度に深く関わっており、そのことで心密かに苦しんでいます。もしも貴方様が苦しんでいることを王が知れば、変えられないこと故に、王はいつまでも心を痛めるでしょう。――そろそろ貴方様が密かに苦しんでいることに王は気がついたようです。王は貴方様に、その苦しみの理由を打ち明けるように言われます。貴方様はどうされますか?」


 ナザロフ王は苦しそうに顔を歪めた後、深く深くため息を吐いてから目を開けた。


「――絶対に打ち明けない」


「ええ、そうでございましょうとも」


 その答えが自分の答えだとファビエンヌは暗に言った。それで話は終わりだった。

 ナザロフ王は長椅子の背もたれに寄り掛かって両手で顔を覆うと、そのまま黙り込んでしまった。


 バランド王妃から贈られた置き時計のカチカチという音だけが聞こえてくる。


 もしかしてナザロフ王は眠ってしまったんだろうか?

 ファビエンヌが不安になるほどナザロフ王は黙ったままだった。


 ファビエンヌは恐る恐る近づいて大きな掌に覆われた隙間から様子を窺う。その瞬間、手首をがっしりと掴まれた。


「言ってくれ。ファビエンヌ」


 今度はファビエンヌが深くため息を吐く番だった。


「苦しさにも慣れるかもしれません。苦しさが無くなる日が、消化できる日がいつか来るかもしれません。このまま、この話を終わりにすることは出来ないでしょうか」


「出来ない」


 ファビエンヌの哀願もきっぱりとした一言で遠ざけられる。


「お優しく残酷な陛下。わたくしが言いたくない。知られたくないと思っているとはお考えにならないのですか?」


 ファビエンヌは恨めしい気持ちを隠さずナザロフ王を睨んでしまう。


「お前がわたしの傍で黙って苦しんでると分かって、理由を知らずに済ます訳がないだろう」


 ナザロフ王も怒りを湛えた目で睨み返す。

 暫く無言の睨み合いが続いたがファビエンヌが折れた。


「――では、明日「今だ」」


 ナザロフ王が声をかぶせて来るとファビエンヌは痛んでくる頭を手で抑えた。


「陛下が今夜の伽を命じられた女は支度を済ませておいでになるのを待っているはずです。今日はお帰りを」


「そっちはいい。あとでどうにかする。お前の気にすることじゃない」


 またも長い溜息をついたファビエンヌは吟遊詩人が歌うような滑らかさで語りだした。


「――同盟国バランドの王女は我儘で、生国の力と王の寵愛を笠に着ている。ついにはハーレムのルールを王に曲げさせてしまった。国を改革するために一緒に血を流すことを選んだ忠臣は、信じた王子が王となった時、永遠の忠誠の証として上等な女を献上した。なのにその証たる女は尊重されないどころか、今は王に捨て置かれている。それはまるで――」


 渋面で黙って聞いていたナザロフ王は悔しそうに立ち上がってファビエンヌの言葉を止めた。


「わかった。もう行く」


「ご英断です。賢明なる陛下」


 扉まで見送りに出たファビエンヌを前に、ナザロフ王は力の限り抱きしめてバラバラにしたい衝動を、強く目を瞑ることで抑えた。


「では、明日だ、ファビエンヌ。忘れるな」


「はい。承知しております。この国で唯一無二の尊いお方。おやすみなさいませ」


 見送る背が消えたあと、ファビエンヌは疲れた体を寝台の上に投げ出した。


 否定的な感情が次々とファビエンヌを襲ってくる。

 疲れているのに眠れそうにない。仕方がなく目を閉じる。


 心の中では、バランド王が厳しい顔でファビエンヌに決して言うなと釘を刺す。

 その反対側に立つマティアスがファビエンヌに全て言ってしまえと唆す。


 12歳の少女の自分が分厚い本の上から顔を出す。

「結婚したら相手を愛して心を通わせないといけないのよ」と無邪気な顔で窘めてくる。


 15歳のデビュタントの白いドレスを着た自分が笑いながら得意げに裾を翻す。

「ダメダメ。マティアス様を好きになってしまったんだもの。わたくしはもう心を定めたのよ」と歌うように言ってくる。


 17歳の制服を着た自分が学園の中庭に俯いて立っている。

「男は裏切る。信じては駄目。心を預けては駄目」と泣きながら言ってくる。


 ファビエンヌは先の見えない蛇行した道を彷徨い歩く。


 よく知った背中を見つけた。安心してその背に寄り添う。

 安堵の溜息をつく前に、その人は振り向いてファビエンヌに言う。


「セシルを愛してしまったんだ。わたしは彼女を伴侶にしたい」


 膝から崩れ落ちて俯くファビエンヌの元に大きな影が出来る。

 もう疲れ切っていて顔を上げることさえままならない。

 褐色の指が顎にかかり上を向けさせられた。男の顔が見える。


「ここはハーレムだ。お前のところばかりは来れない」


「知ってるわ!!」


 そう怒鳴って何故か手に持っている小さなブーケを男の顔にぶつけた所で目が覚めた。


 女官のノンナの心配そうな声が天蓋のシフォン越しにかかる。


「タラサ・ステマ様。あの…ご気分が優れないのですか? うなされておいででしたが…」


「ああ、大丈夫。悪い夢を見たのよ」


 そう言ってファビエンヌは両手で顔を覆った。


 今、悪夢を見たことでファビエンヌには分かったことがある。

 マティアスにつけたと思った大きく深い醜い傷は自分にもついていた。

 そして、その傷の表面は恐らくハーレムに居る限り、乾くことがない。



 ***



 伽を命じられたファビエンヌはいつものように支度をして待っていた。

 そこに現れたナザロフ王の挨拶代わりの言葉はいつもと違っていた。


「やあ、ファビエンヌ。覚悟は出来ているか」


「ごきげんよう、勇壮なる陛下。わたくしはいつでも陛下のお心のままに」


 今夜のナザロフ王はファビエンヌの手を握らなかった。

 この白く細い指も掌も冷たく冷えているのはもう分かっている。


「なにかお召し上がりに?」


「ああ、貰おう」


 言いながらナザロフ王は重い荷物を下ろすようにどさりと長椅子に腰を掛けた。


 ファビエンヌは並んだデキャンタから酒精の強いものを選んでグラスに注いだ。

 そして、毒味を兼ねて顔をしかめながら2口飲んでグラスをナザロフ王に渡した。


 ファビエンヌは飲んだ酒が想像より強く辛かったのでケホケホと小さく咽ながらナザロフ王の横に座った。

 これから本題に入るべきか、少し世間話をしてからにしようか考えているファビエンヌの眼の前でナザロフ王は受け取ったばかりのグラスを一気に煽って空にした。

 呆気にとられていると眼の前が急に暗くなる。ナザロフ王に抱きしめられたのだ。

 体を締め上げてくる強い力にファビエンヌは苦しくて呻いてしまう。

 離して貰おうにも声も出せず絶望していると、ふっと目の前が明るく開けた。

 ナザロフ王は何事もなかったかのようにファビエンヌの前にグラスを差し出す。


「もう一杯頼む」


 二杯目を注ぎグラスを渡したファビエンヌは少しだけナザロフ王と距離をとって長椅子に腰を掛けた。

 物言いたげな目で見てくるがそれは無視した。また狼藉を働かれてはかなわない。

 二口だけだが強い酒を飲んで少し気の大きくなったファビエンヌは、もう本題に入ってしまうことに決めた。


「バランド国は王族から平民に至るまで一夫一妻制です」


 この出だしでナザロフ王は予想はしていたがどんな話なのか分かった。

 目を閉じたままグラスを傾けて酒をゴクリと飲み込む。


「ただ、ご存知のとおり他国の王族に嫁がせる予定で、わたくしは教育を施されました。他国では一夫一妻制の方が少なく、持てる人数は異なっても側妃を許していることの方が多いのです。バランド国は一夫一妻制とは言いながらも王族は公式愛妾を持つことは許されています。国の駒となる王族は、それなりの数必要となり、妃一人で揃えることが出来ないのなら、母体を増やす必要があります」


 年に見合わない冷酷にも思える考えをさらりと述べて見せるファビエンヌ。

 彼女が受けた教育の厳しさが自分の思っていた以上であることをナザロフ王は知った。


「側妃や愛妾は宮廷内で変に力を持ってしまうと国を乱す元になるので警戒しなくてはならない相手です。居ないのなら、それに越したことはありません」


 ファビエンヌはナザロフ王を見ずに話をすることに決めているようだった。

 ナザロフ王の視線もまるで無いものの様に扱って、ちらりとも見ない。


「ですから、わたくしは自分が正妃になったなら、夫には愛情を傾け、愛される努力をし、強い信頼関係を築けるように努力を重ねるつもりでした。それでも側妃や愛人を持たれたら、それは努力が及ばなかったということですし、想定外という訳でもありませんので許容出来たでしょう」


 ファビエンヌは一旦話しを止めて、細く長く溜息を吐いてから続けた。


「ところがある日、国内の派閥争いを終わらせる理由から唐突にわたくしの妃教育は終わりました」


 それはあくまでも表向きだった。

 頻度は低くなったが定期的に王宮には呼ばれて将来外交のホスト役を頼む可能性があるからと苦しい言い訳で教育は続いた。

 初めから王家は情況に応じて政略にファビエンヌを使うことを止めるつもりはなかったのだ。


「侯爵家嫡男との婚約が結ばれ、将来侯爵夫人になる道を提示されたのです。制度に守られた結婚を将来約束されたことで、わたくしは夫から妻の自分だけがたった一人愛される未来を夢見てしまいました。ですがご存知の通りそうはならなかった」


 胸が痛む。息苦しさも感じる。

 ナザロフ王は深く溜息をつくと、掌で歪んでいるだろう自分の顔を拭うように強く撫でる。

 グラスの中の酒は残りを一気に煽って空にした。


「わたくしは夫を複数の女と共有するこのハーレムの在り方が許容できないのです。理解はしています。先日そのように申し上げましたが嘘はありません。ただ心がどうしても受け付けないのです。陛下が他の女に触れた手で同じ様にわたくしにも触れるのかと思うとどうしようもなく心が冷えて沈むのです。心を誤魔化しても体は物を言う。だから、わたくしの手は冷えてしまうのでしょう」


 いつの間にか強く組み合わせた手を祈るように額に押し当てていたファビエンヌは、ここでやっと顔を上げてナザロフ王に目を合わせた。


「――これが理由ですわ。親愛なるわたくしの陛下」


 ナザロフ王は――なにも言葉が浮かばない。返事さえも出来なかった。

 なにか言った方がいいのは分かっていたが、形を成さない言葉の塊がナザロフ王の喉に詰まっていた。


 ナザロフ王はファビエンヌに手を伸ばしかけて、その手を途中で力なく下ろした。全てを聞いた後では、さすがにこの手でファビエンヌに触れることが躊躇われた。


 そのかわりにナザロフ王は立ち上がってガウンを脱ぎファビエンヌに頭から被せると横抱きにして寝台に連れて行った。

 それからファビエンヌの何処にも直接触れないように気をつけながら寝台に並んで横たわり、包んだガウンごとただ抱きしめるだけの夜を過ごした。


 ナザロフ王は何も言わなかったし、ファビエンヌもそれ以上何も言わなかった。


 ファビエンヌは前日からの睡眠不足と、強めの酒を飲んで、心に溜めていたことを吐き出した安心感も相まって、程なくして眠ってしまった。

 その安らかな寝顔をナザロフ王は苦悩の表情で眺めた。


 ナザロフ王には、これまでずっと問いたいことがあった。

 ベール越しでなく初めて顔を合わせ、初めて言葉を交わした初めての夜。

 ファビエンヌが意図せず名付けた「夜の王」という名を呼ぶのは、今や寝台の上で与えられる快楽で酩酊しているときだけだ。

 最初の三日間、それは親しげに呼んでくれたのに、なぜ意識のあるときは呼ばなくなったのか。

 理由の一端は今日知れた。けれど、詳しく問いただそうとすればファビエンヌとの関係が悪い方に変わってしまうと勘が告げていた。

 だからナザロフ王は恐らくこの先もそのことを問えない。



 ***



 ナザロフ王は今後、月の障りに掛からない日を選んだ月の半分を連続でファビエンヌと夜を過ごすことに決めた。

 残りの半分はフィロメナ王女や他の女達を順番に一巡りしたあと、次の一巡の合間の1日を伽と称してファビエンヌの元へ行くことにした。その時はファビエンヌの気持ちに考慮して、抱かず話しをするだけの夜を過ごすのだ。


 このことを知って周囲が騒ぎ出す前に同盟国にして強国バランドの王女との子を優先的に作る必要があると言って言葉を封じた。


 ファビエンヌが伽をしない日は他の女の元に行く前に1時間ほど顔を出す。

 そして小さなブーケは伽の有無に関わらずファビエンヌの元に届けられた。

 ハーレムは廃止できないがファビエンヌの気持ちを考慮して無理ない範囲で変えることはできる。

 ナザロフ王はそのようにして誠意と愛を示した。



 当然といえば当然のことだが、程なくしてファビエンヌはナザロフ王の子を身ごもった。

 喜び狂ったナザロフ王はハーレムの女そっちのけでファビエンヌの元へ通った。

 10日経ってもナザロフ王が他の女のところに行く気配がないと知ると、ファビエンヌは一人でも多く王族を増やす責任を持った王がハーレムの妊娠した女と夜を過ごすのは無駄だと正論を顔に叩きつけた。

 それでもナザロフ王は2、3日に1度ファビエンヌと夜を過ごし、他の女のところへも義務を果たしに行った。


 ナザロフ王はフィロメナ王女と和解した。ファビエンヌが間に入ったのだ。

 ある日、ファビエンヌはナザロフ王にこう言った。


「一度で構いません。フィロメナ王女と二人きりの時、元の名をオロスコ語の敬称をつけて呼んでくださいませんか?」


 モンタルバン国が公語としていたオロスコ語で改宗後の名ではなく元の名で呼ぶようにと。

 ナザロフ王がそれを実行すると薬が効いているフィロメナ王女は身動きせずに声を上げて泣き出した。

 その涙が自分を嫌がってのものではないと分かりナザロフ王は胸を貸した。

 そして、泣きつかれて眠るまでナザロフ王はそばに居てやった。


 それ以降、嫌われている空気は無くなった。怒りを見せることもない。

 互いに愛情が持てるかと言ったらそうじゃない。短い期間だが色々ありすぎた。

 ただ、他の女達と同程度の情を今後は見せることができるだろうとナザロフ王は思った。


 ファビエンヌの勧めでナザロフ語と大陸共通語の勉強をはじめたとも聞いている。

 フィロメナ王女はこのハーレムで新しい生き方を見つけて行くだろう。

 そんな風にナザロフ王が思ってた矢先、フィロメナ王女は身ごもったのだ。


 ファビエンヌは第一王女を出産し、フィロメナ王女は執念がそうさせたのか彼女は男児を産んだ。

 第一王子の誕生に周囲は喜んだが、ナザロフ王は微妙な気持ちだったようだ。


 この国は生まれた順で王太子に決まる訳じゃない。

 後ろ盾の強さや本人に王たる適性があるかで決められる。

 だから今の所はもしファビエンヌが男児を産んだなら、その子が王太子になる可能性が高かった。


 そしてファビエンヌはその後、王子を二人産んだ。

 フィロメナ王女も初めの出産のあと間を置かずに二人目を産んだ。

 次も王子だったので、約束していた通り医者に金を握らせて、これ以上子供を作れないと言わせた。

 それを理由に伽を免除させるようにファビエンヌはナザロフ王に進言した。


 ファビエンヌは第三子の出産の時、出血が多くそれが元で体調を崩した。次の出産は数年空けるように医者に言われている。

 暫く妊娠を避ける必要のあるファビエンヌのためにナザロフ王は大陸中から避妊具を取り寄せた。共寝しないという選択肢はないらしい。


 ファビエンヌとフィロメナ王女の妊娠出産でハーレムには新しい女が多く献上された。

 それに伴いナザロフ王が手を付けた女も増えたが、ハーレムに居るナザロフの女達は妊娠の兆候がなかった。

 ナザロフ王がこれまで子供がいなかったのも、自国の女とは子供ができにくいのかもしれないとファビエンヌは考え始めていた。


 ファビエンヌは妊娠出産を繰り返している間も多くを学んだ。今ではナザロフ語も大陸共通語と同じ様に操れる。

 妊娠している間はナザロフ王がハーレムの外に出ることを許さなかったので、教師たちとは書面のやりとりを通して授業を受けた。


 そして今、ファビエンヌは間接的に国政の一部を動かせるようになっていた。目録付きの褒美がきっかけだ。

 実はあれ以降も目録の褒美はずっと続いていた。福祉事業だけに資金充当しているとすぐに偏りが出てしまう。ファビエンヌは全体を見ながら資金を充てる事業を指定したいとナザロフ王に申し出た。他分野の事業についてはナザロフ王が手配した教師たちに意見を聞くと喜んで教えてくれた。

 程なくして予算を増やしたい高官がファビエンヌに接触してきたのが1つの分かれ道だった。求められるまま資金を出したりはしないファビエンヌは事業内容の修正や気がつけば新規事業提案などにも手を付けることになった。


 バランド国とはファビエンヌが間に入って国同士上手くやっていた。

 この数年の間にバランド国で疫病が流行って支援したこともあるし、逆にナザロフ国の穀物が不作だった年に支援して貰ったこともある。

 手紙のやり取りは密に行っていて、ファビエンヌが貿易に関して根回しすることもあった。

 今は義理の兄にあたる王太子アンベールはファビエンヌが国を出た翌年結婚した。今年、第一王子が生まれたそうだ。第三王子ジョルジュも去年結婚していて、独身なのは第二王子エクトルだけだ。会ってお祝いを言いたいが、この国ではハーレムに入った女を里帰りなんてさせない。会えない代わりに祝いの品はいつもどっさり送っている。


 こんな風にファビエンヌが陰日向にナザロフ王を支えたので、急いで沢山の他国の姫を妻に迎えずに済んだ。

 けれども大陸の情勢を考えると国家同士の強い絆は他にも必要だった。この5年の間にナザロフ王は3つの婚約を結んで、そのうち2つはファビエンヌが提案して繋ぎを取った縁談だ。

 何を隠そう第三王子ジョルジュの妃の妹姫が今年の終わりにナザロフ王の新しい妻として入ってくる。ファビエンヌはその迎える準備を早い時期に済ませていた。



 この5年、ファビエンヌは、良く学び、夫を助け、国を支え、世継ぎを産むという義務を果たし、子供の頃、国益を考えた妃になれと強く刷り込まれたまま自分の持てる力を振るい続けた。


 一方、変わらないこともある。献上された女達の元を訪れた後、ナザロフ王が握るファビエンヌの手は今も冷えたままだ。

 けれど、もうファビエンヌは自分の心の在り処について考えない。


 ただ、ファビエンヌは待っている。時が来るのを。誰にも言わず。ずっと。



 ***



 いつものように毒味済の酒で満たされたグラスをナザロフ王に手渡すとファビエンヌはさっと足元に跪いた。


「麗しの陛下。わたくし、お願いがございますの」


 ナザロフ王が何事かと問う前にファビエンヌは話を続ける。


「尊敬する陛下が常々わたくしにおっしゃる 愛 と 信頼 の強さのほどを簡単に証明できるお願いです」


 ナザロフ王は何を言い出すのか楽しみに待ちながらグラスを傾けている。

 ファビエンヌは満面の笑みを見せた。


「それを叶えていただけるなら、わたくしだけでなく、この国の…、いいえ大陸中の誰もが、偉大なる陛下は、妻の一人であるわたくしを心から愛し、誰よりも信頼していると疑いなく理解するでしょう」


 まるで舞台女優のような大仰な言い回しをファビエンヌがするのでナザロフ王がくつくつと笑って調子を合わせた。


「わかった、わかった。叶えよう、我が愛しのファビエンヌ。わたしのそなたへの愛と信頼を大陸中に見せつけようではないか。なんでも言うがいい」


 芝居がかった台詞で夫からの了承を得たファビエンヌは目と唇を三日月の形にしならせて猫のように笑った。


「わたくしをバランド国に帰していただきたいの」


 ナザロフ王の手からグラスが滑り落ちた。ついでに表情も顔から滑り落とした。

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