49小節目 その仔犬は懐かない
登校中、飼い主のおばあちゃんと散歩をしている小型犬を見かけた。その小型犬はずっとおばあちゃんに寄り添って離れず、じっと見つめ続けていた。
「ホントは撫でたかったよ? でも、あまりに仲良さそうだったから邪魔できないと思ってさ……」
そう、心音は困ったように眉を下げて笑った。一人と一匹の後ろ姿は、まさに固い絆で結ばれたパートナーそのものの雰囲気だった。
こんなの邪魔なんてできないな。いくら僕らが可愛いと思っても、それは多分僕の主観でしかないもので。
おばあちゃんと犬の間に入って撫でるということは、僕の先入観と偏見に満ちた「可愛い」という存在を押し付けるものなんだと……そう、思ってしまったのだから。
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「思い切りよく吹けているね。さすが越阪部さんだ。この調子を維持していこう」
越阪部夢佳は、顧問の長谷川先生に昨日言われたこと――フルートのソリの部分を遠慮がちに吹いているという問題点をほぼ完全に修正してきた。後ろで聴いていても心なしか音が分厚くなった気もする。
しかし、越阪部の返事はこわばっていた。喜んで浮かれるなんてことはしない、むしろ褒める言葉を突っぱねるようにすら聞こえた。反発、しているのだろうか。
……してるんだろうな。越阪部はとにかく自分を低くする。自分を高くする言葉を受け入れたくない、と思っているはず。
そうやっていると、多分……限界が来るんじゃないか。精神的にも、音楽表現的にも。
自分の全否定は、自分の表現の全否定でもあると思うんだ、僕は。
じゃあ、誰が越阪部を認めるべきだ? いや、誰が越阪部自身のことを認めさせるべきなんだ?
……そもそも、越阪部の自己否定以外の本質って……何だ?
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校門。薄灰色だった空が段々と濃さを増して、あっという間に黒に近くなっていた。
「……待ってたのか、キミたち」
ほんのわずかの驚きをにじませて、越阪部はぼそりとつぶやく。
「最近夢佳と話してなかったから待ち伏せしてた。ダメだった?」
越阪部に満面の笑みを向けるのは、彼女の友人で僕の幼馴染である佐野心音だ。『今日は夢佳のことを待とう』、と部活終了後にこっそりと言われたので、二人で越阪部のことを出待ちしていたのだ。
そんな僕ら二人を見て、越阪部はほんの少し間を置いた後首を横に振った。
「ダメだ。昼こそ暖かいが夜はまだ冷える時期だろう?」
「大丈夫だって、二人いるから」
心音が僕の手をぎゅっと握ってくっつく。無意識にもほどがあるんじゃないかこの幼馴染は……。
そんな心音と僕の様子を見て越阪部は怪訝そうな目を向けた。
「……こうやってくっついて待ってたのか?」
「うん」
「言うな!? 言うな心音!?」
いやいやいや普通言うかコイツ!?
僕は慌てて心音の手を振りほどき、ばっと離れてわざとらしく距離を取った。
……はい。実はくっついてました、というか時々一方的にくっつかれてました……。
心音と僕は決してそういう関係じゃないし、そういう感情も持たないし……まあ、異性として意識はするけれども恋愛に踏み込むなんてことは今のところない。
……断言できないところがアレではあるけれども、さ……!
「まあ、私はお似合いだと思うけどな。キミと心音」
「越阪部も乗ってくるなよ!?」
「夢佳、お似合いってどういう意味?」
「分かってねえ、分かってなさすぎるよこの幼馴染……!」
心音が昔からそういうのに疎いのは薄々感じつつあったけど疎すぎるにもほどがあるんじゃないのか……。
というか、今の時期は思春期といって何かしら異性を意識するべき時期だと思うんですけどその辺いかがでしょう心音さん。
……いや、一応人目を気にしつつくっついてきた面はあるからそれなりに気にはしてるのか……?
いや違うな。多分噂になるのが嫌だからくらいにしか思ってないと思う、心音は。僕を全く恋愛対象に入れてない雰囲気だったよこれは。女友達と同等な扱いされてるだけだと思うよきっと。
そんな感じで三人にぎやか、いつも通りの下校を始める。……久々の、いつも通り。
心音も越阪部も笑いが絶えない。もちろん、僕も。
ああ、いつも通りって、幸せなことなんだな……。改めて実感しながら談笑する帰り道。
でも、いつも通りっていつも続くわけじゃない。
「夢佳ちゃんー!」
越阪部を見つけるなり手を振って猛ダッシュしてくる、越阪部と同じくらいの身長をした若い私服姿の女性。
明らかに分かりやすく引きつる越阪部の顔。表情に乏しい越阪部があんなに険しい顔をするのは初めて見た。
……えっと……姉……?
その、越阪部の姉? らしき人物は僕らに目もくれず一目散に越阪部に突進、そのまま抱き着いた。
「っ……やめろ、っ」
「また心配させないでよー! もう辺り真っ暗じゃない!」
「離してくれ、友達いるのだから、っ……」
越阪部の姉らしき人物がはっとした顔になる。僕らの存在を認めたようだ。
……しかし、なおそれでも抱き着いたままだ。
「あ、ごめんなさい……夢佳ちゃんって見ての通り『可愛い』から、ついついお母さん可愛がりたくなって」
え。……母親、なのか……? 下手すれば10代、高く見積もっても20代半ばくらいにしか見えないのに……?
「周り暗いし怖いし危ないから、夢佳ちゃんは私と一緒に帰ります。二人も気を付けてね。じゃあね!」
「ちょっと待ってくれよ、お前っ……!」
今、母親に『お前』って言った……?
「だめ、待たない! すごくすっごーく心配したんだからっ!」
「お、おい、待てって言ってる――」
「だめったらだーめっ!」
「おい……!」
越阪部の言うことを全く聞き入れずに手を強引に引っ張り引きずっていく越阪部母。あっという間に越阪部母娘は日暮れの道に消えてしまう。
……まさに嵐のような人物だった。あまりの衝撃に、僕は越阪部母に対して一言も発することすらできなかった。
「……すごい人、だよね」
「うん」
「夢佳のお母さん、夢佳のことしか目に入ってないんだよ。ウチのことすら分かってないの」
「……」
心音は越阪部の母のことを知っているらしかった。おそらく小学校の授業参観等で見ているんだろう。
そして、越阪部の一番の友人である心音ですら、越阪部母は認知していないということだった。
一層沈んだ心音の声色が、僕の心をさらに揺さぶりにかかる。
「……死んだペットの代わりにされてるんだって」
「え?」
「昔、夢佳が言ってたんだ」
言葉を失う。世界から音が消える。
越阪部は母から役を押し付けられている。愛玩動物の代わりという決して望んでもいない役を。そして越阪部は……それに目いっぱい反抗しているのだ。
そうか。親の欲望への反抗が越阪部夢佳という人間を作り、そしていびつな形に越阪部を変えてしまっているのか……そう、僕は感じた。
ああ。知ってしまったな。越阪部の本質。
……ああ……そんなの、知りたくなかったな……。
「嫌だよね。夢佳は、夢佳でしかないのに」
「僕に……何が、出来るのだろう」
「何も出来ないよ」
即答だった。
あの、心音が、である。
「心音――」
「……何も、出来ないよ。あのお母さんには……」
僕は夜空を見上げた。曇り切った顔をした心音からとにかく目を逸らしたかったのだ。
しかし、空を見上げたとしても……それこそ三億光年先ですら続いていそうな、深い深い雲しか見えなかった。




