26小節目 覚醒するのも突然に
身体が震えた。
これは本当に、僕の音なのだろうか。
「……」
昼休みの音楽準備室。
粕谷未瑠先輩がついさっきまで吹いていたトランペットを僕に渡して、試しに今度やる曲のソロを拭いてくれと言われた。当然間接キス、ということになるのだが……断り切れなかった僕は、その劣情を振り切るために半ばヤケクソで思い切り一つの音を吹きこんだ。
そしたらすごい音が出た。まるで闇夜を切り裂くような鮮烈な音が。
僕の発したトランペットの音色の余韻が、音楽準備室の空間を支配する。粕谷先輩も、三年生の花岡恵里菜先輩も、そして吹いた僕自身ですら何も言葉を発せずにいた。
それくらいの衝撃がこの空間を駆け抜けた。
何回目かの空気を吸うと、新鮮な、しかし単純な考えが僕の脳に入ってきて、身体を動かす。
……そうだ、この勢いのまま!
一回全部、空気を吐き出して……再び、空気を取り込んで。
僕は何も考えずにただその余韻と勢いを引っ張ったまま、Awakened Like the Mornのソロのフレーズを吹く。今度の本番で、粕谷先輩が吹くところだ。
たった12小節、それも非常に簡単でシンプルなフレーズ。それでも、僕の息に何かが宿ったような感じがした。
どう聴こえていたんだろう。僕には分からない。
でも、悪い演奏にはなっていないんだろうな……とは思っていた。その証拠に、余韻が僕の身体をしびれさせている。
「……見澤、くん」
しばらくの無言の後に、花岡先輩が口を開いた。
「何か、すごく、よかった。ちょっと場面には合わない吹き方かもしれないけど、でも……」
いったん言葉を切って、銀縁眼鏡のフレームに手を掛けながら何もない頭上を探す。ちょうどいい表現を探しているようだった。
しばらくして、結局出てきた言葉は。
「なんか、言葉にしづらいんだけど……惹きつけられた」
上手く言えず苦笑する花岡先輩の言葉に、神妙な面持ちで粕谷先輩がうなずく。その頬にはっきりと朱が差しているのを僕は認識して……目をそらした。
粕谷先輩は、別にそういう感情を持っているってことはないん……だよな。
だって、それらしききっかけみたいなのは本当に思い当たらないし、そもそも粕谷先輩は僕を振り回して楽しんでいる節がある。あんな大胆な行動に出たのも僕の反応を楽しみたかったんだろう、元はというと。
そして、何か思ったよりアレだったので粕谷先輩も自爆に近い形でこんな感じになってるだけなんだろう。
そうだ、絶対そうだ。粕谷先輩が僕にそんな感情抱くはずがない。
というか、そうじゃないと色々と困る。
何か色々な感情が頭をぐるぐる駆け巡っている。けれども、今僕の手にあるトランペットは粕谷先輩のもので、そもそもここにいるのは粕谷先輩のソロを聴くためで。その上昼休みであるためそんなに時間もない。
……つまり、返さねばならない。どんなに微妙な空気でも。
「あ、あの。先輩」
「……ん?」
「トランペット……ありがとうございました」
両手で持って、僕はトランペットを粕谷先輩に返却した。どうしても意識をして、ぎこちない動きになってしまう。
「あ、うん……ちょっと待ってて」
粕谷先輩は僕からトランペットを受け取るや否や、マウスピースを抜いて音楽準備室から出ていった。おそらく近くの流しで洗い流すんだろう。
「……何で僕に渡すときは洗ってくれないんだ」
「ふふっ」
「花岡先輩、笑わないでくださいよ……」
僕と花岡先輩は、粕谷先輩に両手首をピンク色のスカーフで拘束されて無理やりここに連れてこられた。
僕はトランペットを吹くにあたり拘束を解いてもらったが、花岡先輩は依然後ろ手にスカーフを巻かれて拘束されたままだ。
それに気づいて、僕は花岡先輩の拘束を解こうと思って立ち上がる。床に直に座る花岡先輩が僕のことを見上げる形になる。
……やっぱり、やめとくか? 笑われたし。
「解いてくれないの?」
立ち上がって何もしない僕を不思議そうに見つめる花岡先輩。小さく首をかしげる。僕を見上げて。
……それ、わりと破壊力抜群の動作なんですけど……。
「……だ、だって、何も言ってくれなかったじゃないですか。粕谷先輩が僕にトランペットを吹かせようとしたとき」
不意打ちに動揺したことをごまかすように、僕は少し早口で拘束を解かない理由を述べて座り込む。
「それは……なんか、面白いものが見れるかなって」
「……花岡先輩、案外意地悪なんですね」
「そうかも」
「認めるんですか……」
「わたし、結構かおるのことからかってるとこあるから」
花岡先輩はそう言っていたずらっぽく微笑む。
かおるとは、副部長の山かおる先輩のことだろう。花岡先輩とはかなり仲がよさそうに見える。
「……でも、面白いを通り越してすごいとこを見ちゃったよね」
「すごいって……僕が口付けたとこですか?」
「それもそうだけど」
「それもそうなんですか、否定しないんですか」
にっと笑う花岡先輩。今日の花岡先輩、やたらキレがいい気がする……。
一呼吸置かれる。
花岡先輩はさっきまでしていたのいたずらっぽい笑みじゃなく、ふわりとした柔らかい笑みを浮かべてこう言ってくれた。
「……見澤くんの音、だよ。すごいとこっていうのは」
確かに、僕でもあの音はすごいと自分でも思った。でも、花岡先輩が笑顔を伴ってこうやって言ってくるのは予想を超えていた。
だから僕はどう反応すればいいのか困って、とりあえず無言で小さくうなずくことしかできなかった。
「ちょっとのきっかけでこんなに変わるんだねえ、人の音って。びっくりしちゃった」
僕だって驚いている。だってあの音は、元はヤケクソで吹いた音なんだ。
「……見澤くん、最近ちょっと元気なかったでしょ?」
「えっ!?」
「音で分かるよ。それに、かおるもちょっと心配してた」
ポジティブな感情は外に出さないように出来るけれど、ネガティブな感情というのはごまかしようがない。
僕って分かりやすいんだな、と再認識しながらも、ちゃんと先輩たちが僕のことを気にかけてくれているのを嬉しく思って。
……そして、同時に申し訳なくも思った。
「もしかしたらだけどさ。粕谷さん、その辺も気にしてあなたを連れてきたんじゃないかなって」
「……そうかもしれませんね」
「粕谷さんのことだから、分かんないけどね」
実際、結構救われたかもしれない。根底からの解決にはなっていないけれど、少なくとも気は楽になった。
僕は粕谷先輩にいつも振り回されているけれども、それでも先輩であることには変わりないんだ。
「ただいま戻りました-!」
そんな話をしていると、ちょうど粕谷先輩がトランペットを持って戻ってきた。
頬の赤みもすっかり引いている。まるで水で一緒に洗い流したかのよう。
そうだ。やっぱり、粕谷先輩は僕をからかいたいだけだったんだろう。きっとそれ以上のことはない。
……そう思っているけれど、実は……なんて展開は漫画とかでよくよく見るのだが、今回に関してはそれはないだろう。粕谷先輩だし。
「おかえりー、もっかい吹く?」
「はい! 見澤くんのおかげでちょっと見えてきた気がします! ……花岡先輩の今日のパンツの色は薄い水色!!」
「ちょっ……!?」
……虚無を貫け、僕……。




