16小節目 ロングフォー・コンプレックス
県立奈々岡高校吹奏楽部、スプリングコンサート。第二部は、第一部と打って変わってポップス系が中心のプログラムになっていた。
演奏自体もただ演奏するのではなく、ソロの場面で前に出て立奏したり、曲に合わせて吹きながら動きをつけたり。中には部員数人が前に出てダンスをする曲もあった。プログラムの表紙イラストにもなっていたユーフォニアムの男子部長がソロを披露した時なんか、ものすごく盛り上がっていた気がする。
みんながみんな、楽しそうに曲を演奏していた。それは音にも出てきて、全体を通して明るく元気の出るパワフルな音色だったと思う。そして、大体の人はその明るい音色と、エネルギッシュな勢い、そしてとにかく楽しそうに演奏をする部員たちに巻き込まれて、演奏会を心の底から楽しんでいたように思える。実際に演奏会が終わった後の雰囲気は少し浮ついた感じがあって、楽しい感情の余韻がホールの中にふわふわと漂っているような錯覚さえした。
……でも、楽しそうに演奏していたからといって、聴いている人全員が素直に楽しめるわけではないみたいで。
「……」
初心者フルート吹きの同級生、越阪部夢佳は終始微妙な顔をして黙りこくっていた。
そして、そんな顔を見た僕も……あまり素直に楽しむことが出来なかった。まるで、心につっかえているような、何か異物が挟まっているかのような……そんな、よく分からないモヤモヤとした感覚。
高校生とはいえど前年度県大会銀賞止まりの部だ。確かに演奏のレベル自体は決して高いものじゃない。けれども、この楽しげな演奏を素直に楽しむことができないという変な感情の原因は、多分演奏レベルの問題なんかではないと思う。
……これは僕ら自身の問題なんじゃないか。演奏会が進むにつれて、そう思うようになってきてしまっていた。
楽しくなってしまえばそれをわざわざ壊す必要はない、とは思ったけどさ。
それって裏返せば、楽しくならなければ永遠につまらないまま、ということで。
……そして、どうしてだか楽しくなれない呪いにかけられてしまった僕らが、楽しいはずの空間のど真ん中に居座っていたんだ。
--※--
「ウチ、家族と一緒に帰るんだ。ごめんね」
父がここの顧問である佐野心音とは越阪部と共に一緒にこの演奏会に来たが、帰りは別々になるらしい。心音とはホール内で別れ(一応楽しかった、と二人で言葉だけでは言っておいた)……ホールを出て興奮交じりのざわざわとした喧騒が、無機質な車の往来に塗り替えられたときに気づく。
僕と越阪部、二人になるどころか二人で話すのさえ初めてだ。
そしてその初めての機会なのに、越阪部はあまり浮かない顔をしている。一応向こうから拒否はされていないので、一緒に帰ることに関しては問題ないみたいだが……。
「……あまり、良くなかったみたいだな」
空気は決してよくないが、ずっと黙っているのもアレだ。僕は遠慮がちに越阪部に話を振る。
グレーのパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま歩く越阪部は、軽く僕を見上げて苦笑した。
「私、損してるよな、ほんと」
越阪部は自嘲気味にそう言うと、はあ、と一つため息をつく。夕日の光に当てられて、越阪部の横顔が暗く浮かんでいる。こんな仕草をしておきながら、越阪部は小柄で声も高めなのだが。
橙色に染まっている空を眺めながら、越阪部は話し始める。僕に向かってというよりかは、ただ独り言を垂れ流すかのように。
「昨日先生からさ、『変なこと考えず楽しんでこい』って言われただろう? 私も来る前はそうやって聴こうと思ってたんだよ。でも、ホールの中に入った途端に変なスイッチが入ってさ。そこからはもう、ひねくれた目線でしかステージを見ることが出来なかった」
笑っているのか、怒っているのか、はたまた哀しんでいるのか。それぞれの感情の境界線をふらふらと歩いているかのようだ。掴みどころがなく、複雑で微妙な感情。
けれど、その感情の行き先は決して外部に向けられたものではなく、全て越阪部自身に向いているものだということはほのかに感じられた。
「多分、これは彼女たちが望んでいる聴き方じゃないはずだ。もっと単純に、音楽を、ステージを愉しいと感じてくれれば彼女たちはそれでいいはずなんだ。……私は子供だ。でも、中途半端に大人だ。だからこんな簡単でシンプルなことさえできない……いや、できないんじゃないな」
越阪部はやれやれといった感じで首を横に振り、自分自身の言ったことを否定した。やけに遠回りな話し方だが、何となく感覚で言いたいことが分かる気がする。
ちょうどいい表現を探しているんだろう、越阪部はしばし上を見上げたまま押し黙る。何か言葉を掛けたら越阪部の思考をぶち切ってしまいそうだったから、僕は何も言うことが出来なかった。
ひゅう、と春風が頬を掠める。妙に、冷たい。
しばらくすると越阪部は大きく息を吸って前に向き直り、話を続ける。
「そうだ。その単純な思考になるというのに恐怖を感じているんだよ、私は」
相変わらず、越阪部の言葉は決して僕だけに向けられていない。僕にも聞こえるように言う独り言だ。しかし、独り言にしては、その言葉は熱を帯びすぎていた。
「世間一般から見れば私たちは子供だ。中学一年生の、未成熟でまだまだ青い子供なんだよ、私たちは。けれど、子供という概念であっけなく簡単にくくられて、『こうコミュニケーションを取れば好感度が上がるだろう』と、テンプレートで周りから接せられるということが心の底から嫌だと思っているんだ。だから私は、単純に戻るのが怖い」
越阪部が珍しくここまで熱っぽく語っても、表情や声のトーンはいつもの越阪部のままだった。
けれど、越阪部の話……大人に単純だと思われたくないという話にはすごく同感した。
大人に子供だと思われたくない。
大人に単純だと思われたくない。
ああすれば喜ぶだろう、という布石に簡単に乗りたくない。
そう、僕らは……大人の言うとおりになんて、思惑通りになんて、なりたくないんだ。……まあ、今日の演奏会で前に立っていたのは高校生だけれど……僕らより年上なんだから、大人というくくりで見てしまうんだろう。
「……だから私は単純に理解できない人間というものに憧憬し、偽りの複雑を装うんだろうな。そして、今日みたいな損をしてしまう」
……ほんと馬鹿だよな、私。越阪部は再度ため息をついた。僕はそのため息に被せるように、こう口をついていた。
「越阪部だけじゃない。俺もだよ」
越阪部は僕の顔を見た。表情は相変わらず変化に乏しく……けれど、ほんの少しだけ目が見開いた気がした。
しかし、越阪部がどんな反応を見せようと、僕はその後の言葉を止めることはできない。越阪部の言葉は、僕の心につっかえていた異物を解かして……知らない間に瓶詰になっていた僕の感情が流れ出る。
「……ふと、冷静になってさ。ひとたび演奏レベルに気が付いてしまったら、ずっとそれが胸につっかかってさ……何でこんな楽しい演奏会なのに、俺は素直に楽しめないんだろうなって思った。そっか、そういうことか。俺たちはただ単にひねくれてただけなんだな……」
数多の長所よりも、たった一つの短所の方を気にして……そのまま細かいことに突っ込んでいって、悪印象が止まらなくなる。
これは多分、単純に見られたくない、複雑な人間に見られたいという僕らの年頃にかけられた、一種の呪いのようなものなのかもしれない。
僕だって、本当は何も考えずに楽しみたいんだ……。
「大したことない演奏だと気が付いたのは、私の影響か?」
越阪部が聞いてくる。やはり、無表情に近いが……でも、わずかにばつの悪いような、そんな雰囲気だ。
……確かに僕は、越阪部の微妙な表情に引っ張られて演奏会中はそう思うようになってしまった。しかし、当然そんなことは越阪部に直接言えるわけがない。
僕は即座に強く否定した。
「そうじゃない。そんなわけない。俺が、勝手にそう思っただけだ」
「……そう、か」
越阪部は目を伏せた。わずかに口角が上がったように見える。
そして。
「優しいな、キミは」
そうつぶやく越阪部の顔が、声が……僕には何だかひどく寂しそうに聞こえた。
……多分、僕がごまかしたことを見抜いていたんだろう。僕は十数歩歩いて、そのことに気づいた。
気づいたところで……何も、できなかった。
見かけ倒しの複雑で覆われた僕は、単純な回答が簡単にはできないのだから――。