14小節目 楽しいとか、楽しくないとか
『上手にできるからこそ楽しい』
昨日の帰り道で、同級生の初心者フルート吹きである越阪部夢佳が言った言葉。僕はその言葉が胸につっかえていて何だかモヤモヤしていた。遠い昔に誰かからこんなことを言われたような、妙な既視感を感じる。一体どこで、どんな場面で言われたかは全く分からないけれど。
上手にできて楽しそうの代名詞が佐野心音。小学校から父にアルトサックスを教えてもらっているから上手いうえに、本人はとても楽しそうに吹く。もっとも、今のところはまだ合奏に慣れていないらしく、顧問の長谷川先生いわく音が馴染んでいないとのことだが……心音のことだから、多分じきに修正してくるだろう。
それに、越阪部の『下手な私は楽しいだなんて思ってはいけない』という言葉。僕はそれに表面的には反対しつつも、どこかでは共感できるところもあって。多分、僕が昔水泳をやっててその経験によるものなんだと思う。詳しくは言いたくないけどさ。
でも、周りを見ているとやっぱり越阪部の言うことは間違ってるんじゃないかなとは思う。僕がトランペットのパートリーダー、山かおる先輩は『この部があんまり上手くなくっても、音楽は楽しい』と言い切るような人だし、それに……部長で弦バス弾きの中井田文香先輩はその逆で、確かにものすごく上手いが、あの時の『個人練』は楽しそうというよりかは何かを発散しているような感じだった。当然だけど色んな人がいるから、越阪部の考えだけにとらわれるのはよくないと、部活に来て思う。
けれど……。
「見澤くん、もうちょっと音が安定するといいね」
……あれこれ考える前に、僕自身のスキルアップの方がよっぽど急務だった。
--※--
「ここのGの伸ばしがちょっと合わないね」
「もうちょっと粕谷に合わせてくれる? そしたら吹きやすいんだけど……」
「見澤くんはもっとイメージを持って音を出すべきですよっ。適当に吹いていたら音に失礼ですっ」
パート練。なんか、総攻撃食らった。昨日の帰りに引き続き、なんか知らないけど僕結構ヘイトもらってるっぽい。ただでさえ目立つトランペットに、部内唯一の男子。おまけに初心者。
つまり……トランペット+男子(水泳経験者)+初心者=バンドをたった一人でぶっ潰してしまう異端新参爆音暴走機関車、というわけで。あー……そりゃあ、イライラするよなあ、みんな……。
「というかそれ以前にこのただうるさいだけの音を早くどうにかしてくださいよっ」
……それにしても、同じくトランペット初心者(音楽は経験者)の1年生である高野玲奈からの当たりがやたら強いのはちょっと気になるが。先輩たちには全く反抗しないどころか借りてきた猫のようにうじうじする高野だが、なぜだか僕だけに対してはめちゃくちゃ噛みつく気の強い猫である。
「……お前は音量をもっと上げた方がいいと思うが」
「うにゃっ……」
さすがにちょっとイラっときたので逆に弱点を指摘してやったら、すぐに黙ってうつむいた。めちゃくちゃ弱いなこいつ。
「こらー、玲奈ちゃんをいじめるなー!」
「理不尽!?」
で、2年の粕谷未瑠先輩になぜか僕だけが紛糾される。向こうが仕掛けてきたってのにひどいや。これだから男子は辛いのだ。
「まあまあ。……とりあえず、見澤くんは音色をどうにかしないとだねー」
粕谷先輩をなだめつつ、こうやって明るく僕に言ってくる山先輩に感謝しかない。
……とはいえ。
「はい。けれど、何をすれば音ってよくなるんですか?」
悪い場所は存分に思い知ったが、肝心の修正方法が分からないのだ。やみくもに練習してもそれは効果的とは言えない。
僕が山先輩に聞くと、返ってきた答えは。
「毎日吹く!」
違う。僕が求めている答えはそれじゃない。
「……ええっと、できれば具体的に」
「あはは、ごめんごめん」
山先輩は苦笑いしながら小さくウインクを飛ばす。ひょっとしたら答えを持ち合わせていないんだろうか?
心配する僕だったが、別にそういうことではないみたいだった。山先輩は僕に懇切丁寧に教えてくれた。
「基本はやっぱりロングトーンかな。退屈かもしれないけど、いい音のイメージを頭に思い浮かべながらやるんだ」
「いい音のイメージ……ですか?」
「そう。何事にも上手くなるには目標が必要でしょ? もしイメージが曖昧なら、プロの音を動画で聴いたりするのもいいかも」
「なるほど……」
音をよくするには、まずいい音が何なのかを知る必要がある。言われてみれば当たり前なんだけど、盲点だった。
「そうして、口の形だとか、息の使い方だとか、色々工夫して……あ、この音いいと思ったら、それが定着するまで繰り返す。……出来そうな気がしてこない?」
なんだかこう言われると自信がわいてきた。やれる気がする。
「はい!」
「ん、いい返事! 結構しんどいかもだけど、頑張ってみてね」
山先輩は僕に小さく手を振って笑いかけてくれる。山先輩と話すと、僕は絶対に元気を貰えている気がする。まるでみんなに元気になる魔法でも使っているみたいだ。
「うんうん。頑張ることはよきことかな」
「……未瑠もロングトーンやろうねー」
「うっ……はい……」
まあ、粕谷先輩も粕谷先輩で曲のソロ散々ですしね。僕は心の中でそっとつぶやいた。
--※--
僕は一人でロングトーンの練習をする。チューナーの電子メトロノーム機能を使い、だいたい60のテンポで音を8拍伸ばす。たったそれだけの練習で、何なら楽器を初めて持って1時間経たなくても実行可能な練習だ。
でも……そんな簡単な練習だからこそ、常に自分の音について考えて音を出さなければ意味はない。
最初のうちは山先輩の力で、結構よく吹けてたと思う。でも、次第にいらないことが頭を支配してくる。
上手くならないと、楽しく吹いちゃいけない?
下手でも、音楽って本当に楽しい?
僕の頭の中で、ぐるぐると渦巻く余計な考え。初心者だから下手なのは当たり前だし、そんなこと考える前にまず頭空っぽにして吹けって言われそうだし、実際僕もそう思うんだけど……。
「……」
思考が邪魔をして上手く管に息が入らない。まるで気管に薄い膜を張らされているみたいだ。
そのことが嫌になってイライラが募っていく。口が、姿勢が、他にも色々全部崩れてくる。僕自身がもうそんな感じだから、出てくる音もふにゃりと曲がって下にストンと落ちてしまう感覚。
……ダメ。練習にならない。僕はトランペットから口を離し、ふうっと荒く息を吐く。さっきあれだけ『できるかも』って気になっていたのに、この有様だ。
「……み、見澤くん?」
そんな僕に声をかけてくるのは、意外にも高野だった。
「……ん、ああ」
「な、何だか、煮詰まってるみたいですねっ……」
「まあね……ちょっと、ね」
高野に今僕が考えていることを話してもな……。僕は曖昧な態度で対応した。
「あ、あのっ」
「ん?」
「そのっ……ここ」
高野が楽譜の一部分を指さす。
「えと……一緒にやってみませんかっ」
僕はきょとんとした。何というか、高野がこういう提案をするのはすごく意外だった。思わず聞き返す。
「高野と?」
「はいっ、ボクと、ですっ。その……人と一緒にやることで、気分転換になればいいなって思ってっ」
おどおどしてる癖して、言葉自体はハッキリと聞こえる。
「それにっ」
トランペットを持った高野がずいっと僕の顔を覗く。驚いて少し身体を引くと、高野も冷静になって恥ずかしそうに身体を引いて……。
「な、何だか、楽しくなさそうでしたからっ……」
「……」
僕って、意外と分かりやすいのだろうか。高野の言っていることは図星だった。苦笑いが漏れる。
高野にこう言われたら、拒否するなんてもってのほかだ。
「め、迷惑だったらごめんなさいっ」
「そんなことない。……やろう、高野」
「は、はいっ!」
「ありがとな」
高野は譜面台と椅子を僕の隣に持ってきて、それなりに距離を空けて置いた。
僕はチューナーの電子メトロノームの音を出す。原曲よりほんの少しだけ遅い。このテンポでいいか、と聞いたら高野は小さくこくりとうなずく。
音の小さい高野。音が大きすぎるらしい僕。普段通り吹けば間違いなく高野の音をつぶしてしまう。
だから僕は、なるべく高野の音に寄り添うように吹くことを心がけることにした。
「……さん、し」
僕がカウントを取ると、初心者2人の合奏が始まる。
高野のハモリに、僕のメロディーを重ねる。僕が前に行くんじゃなくて、高野の音を聴きながら音を合わせる。こうすることで初めて、ちゃんと見えてきたことがある。
高野の音は小さく、まだまだ不安定ではある。それでも音の一つ一つに意志を感じるんだ。この音はこういう役割を持たせたいだとか、このフレーズはしっかり吹いた方が上が安定しそう、だとか……。そういう一つ一つの意図を僕は受け取って高野の音に重ねていく。……そう、不思議と意図が受け取れてしまうんだ。こんな、ド初心者の僕でも。
そういえばドレミファソラシドのソロコンサートの時、高野の演奏を先生がほめていたっけ。ああ、それってこういうことだったんだって僕は思った。技術こそまだまだだけど、高野のセンスだとか、音楽に対する真剣さ、熱意というものはすごく感じられる。
引っ込み思案? 自信なさげ? そんなことない。高野は音楽に対するちゃんとした姿勢を持ってて、そこだけには確かな自信を持って吹いているんだ。じゃないと、メロディーの僕がハモリの高野に引っ張られるなんて逆転現象、起きやしないから。
そして、高野に引っ張られた僕は……素直に、楽しかったんだ。まだまだ僕は下手だけど……でも、なんかもう、今はそれでいいって気がした。
ロングトーンでハモって、フレーズが終わる。僕と高野はトランペットを下ろして――。
「……楽しいな、音楽って」
「ですねっ……」
照れくさく、笑いあった。
楽しいだとか、楽しくしちゃいけないだとか、なんかもうよく分からないけどさ。
『楽しくなっちゃった』のなら、もう仕方ないよな――なんて、思ってしまった。