9.
「明日、朝ご飯食べたらちょっと出かけてくる」
ミラーお手製のビーフシチューを頬張っているとミラーは思い出したかのようにそう打ち明けた。
今日は私の都合に付き合ってもらったが。ミラーにも用事があるのだろう。
私も明日はお父様と弟のリーグルに宛てて手紙を書こうと思っていたことだしちょうどいい。
「わかったわ」
自分ではたった二日でものすごく馴染んでいるとは思うものの、知り合って間もないのだ。あまり深くは聞くまいと聞き分けよく頷く。
するとミラーは焦ったように顔の前で手を振って「あ、お昼までには戻るから。昼食の心配はしなくても大丈夫だから!」と付け加える。
それにはポカンと口を広げて間抜けな顔を見せてしまう。
私ってミラーの用事の内容よりも昼食の心配をすると思われていたの?
全くもって心外である。
そもそもミラーの中で私ってどう映っているんだろう?
そう思い、とりあえず今の自分を想像してみる。
ビーフシチューをスプーンで掬っては口に運び、パンを千切っては口の中に広がる幸せに頬をゆるませている――うん。腹ぺこキャラだと思われても仕方ないわね。
だが一つ言い訳をするのであれば、これは全てミラーの作るご飯が美味しすぎるのが悪いのだ。
少なくともリンデル国にいた頃は、こんなに手が進むことはなかった。そもそもこんなに気の緩んだ状態で人の前に出ることもなかったのだ。
夜会やお茶会は人の目がある。
王子の婚約者として、私は誰もが認める模範的な貴族の娘であらなくてはならなかった。
いくら相手があのメイガス王子であろうと、いや彼だからこそ隣にいる私はずっと気を張り続けなければならなかったのだ。
いくら国王陛下に頼まれたからとはいえ、引き受けたからには……と。
屋敷に帰ればその緊張もほぐれるのだが、あいにくこの数年間は学園やお茶会、夜会で過ごす時間が多かった。
今になって思うと、王子の婚約者という立場は私にとって相当なプレッシャーだったようだ。
割り切れていると自分では思っていたんだけどなぁ……。
すっかり気の緩みきった今から考えると、あの時の私はいろいろと頑張りすぎていたのだ。
今の状態がいいことだとも言えないが、まぁこれは後々直していくことにして……とりあえず今は腹ぺこキャラからどうにかして脱却することを第一目標として掲げることにする。そんな気持ちを込めてせめてもの主張をしてみる。
「別に子どもじゃないんだから別に一人でも食べられるわよ……」
先ほどキッチンに立った際に、冷蔵庫の中身は確認済みである。
ミラーに出せるような食事を作れる自信はないが、私の分の昼食くらいはスクランブルエッグなりなんなりを作って乗り切ることが可能だ。
だから安心して、ミラーは外食でもしてくるといいとミラーに目をやる。
するとミラーはスプーンをおいて、口を拭いてから、まっすぐにこちらを見つめて口を開いた。
「俺が一緒に食べたい!」
何とも力強い主張である。
ここまで言われれば、明日の昼食を堅くなったスクランブルエッグだけで我慢する予定は簡単に吹き飛んでいく。
「なら楽しみに待ってるわ」
もちろん手伝う予定である。
手伝い、はする。
出来る限り。邪魔にならない限り。
結局先ほどもリンゴの皮むきの他に私がしたことと言えば、冷蔵庫から言われた材料を取り出すことのみである。
夫婦の共同作業と言えば聞こえはいいが、子どものお手伝いのようなことしか出来ていない――が私は満足だ。
なにも私が無理に手を出すことはないのだ。
適材適所、これは大事なことである。
美味しいご飯が食べれるのが一番!
再びスプーンでビーフシチューを掬って口に運ぶ。
やはりミラーの作る料理は美味しい!
私にはこのレベルの料理は作れないだろう。
「それで明日の昼食なんだが……俺に料理を教えてくれた宮廷料理人のコッチが帰りにお弁当持たせてくれるって今から張り切ってるみたいだから、塔の上でピクニックみたいなことでもしようかと思ってるんだけど、どうかな?」
「ピクニック! いいわね」
ピクニックとはあれだ。
メイガス王子と何度か予定したものの、決行した思い出が全くないという摩訶不思議な、憧れのものである。
おかしい。
遠駆けすらした記憶がないから当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。
……まぁそんなことは今は記憶の奥底へと眠らせておくことにしよう。
地上からでは塔の頂上が見えないほど高いこの塔の上で……さぞかしいい景色が見られることだろう。
だがそれにしても……。
「帰りってことはミラー、あなた明日はお城に行くの?」
「ああ。リュコスとのことを聞いてこようと思って。俺はお試しでもこのまま奥さんとしていて欲しいけど……。でもリュコスが困るようなことはしたくないんだ。だからここはしっかりしておかないと」
「ミラー……」
ピクニックを提案した時とは違い、まじめな表情を浮かべるミラー。
奥さん、奥さん、と話し相手が出来たことにはしゃいでいるだけかと思いつつも、ミラーもちゃんとそのことを考えてくれていたらしい。
「それで出来ればリュコスもリンデル国の方に聞いて欲しい」
「それなら明日、父と弟に手紙を出す予定だからそこに書いてみるわ」
だからこそ私も真摯な対応をしなければならないのだ――居心地のいいこの関係を少しでも長く続けるために。
決してミラーの手料理にガッシリと胃袋を捕まれたから、なんてそんな理由ではないのだ。