mon chaton —モン・シャトン—
「好きな人ができました」
僕の妹が水を一口飲んでそう言った。
僕たちがいるのは母さんが経営する小さな喫茶店、”モン・シャトン”の窓際席。
お気に入りの席で僕は、僕の大切な妹の口からその言葉を聞かされていた。
その時の顔はきっと驚きのあまりに目をまん丸く見開いて、滑稽に映っていただろう。
僕の大切な妹に、大切に思える人ができてしまったのだから。
「どこの馬の骨だ? 相手は? 僕が知っているヤツなのか?!」
「アサガオ通りの……突き当たりにあるクリーニング屋さん」
「あの家はダメだ! 犬がいる!」
「犬?」
予想もしていなかったであろうその反対意見に、妹は訳が分からないといった感じに小首をかしげた。
「犬好きは理解できない……。あいつらは何でもかんでも支配したがる野蛮な生き物なんだ! お前だってそのクリーニング屋さんが、おい! って呼べば、はい。ってすぐに返事をしなきゃあいけないんだ。じゃなきゃ、きっと虐待される!」
「あの人はそんなことしないわ! それに、私あの人にプロポーズされたもの」
「プロポーズ?」
「この前うちに来た時に、なんて綺麗な黒毛なんだ。って……ずっと撫でていたいって……」
「そんなのお世辞だし、君のことを子供のままだと思っている」
「違う!」
急に怒鳴り声をあげて威嚇する彼女の姿が、まさしく子供のままだと僕はつくづく思う。
確かに妹の黒毛はとっても綺麗だ。風でふわりとなびく姿は何者にも縛られない自由の象徴だと誰もが見惚れてしまうほどである。毎日欠かさずブラッシングしての賜物だろう。しかし今はその象徴も、烈火のごとく逆立って僕のことを責めたてる。
気まずくなった僕はうつむいて、逃げるようにお隣さんの様子をチラリと見た。
男女二人組のお隣さんは店に入ってから一言も喋らずに黙って向かい合っている。
男の人は僕と同じようにずっとうつむきながらメロンソーダのアイスを突っついていて、女の人の方はアイスティーを涼しく飲んでいた。
透明なストローの中を茶色い紅茶が上っていき、女の人のピンクの口に注がれる。彼女の毛も又、手入れがとても行き届いており、美しい色艶の黒毛をしていた。動くたびにサラサラと小さな肩を撫でている。大人の女性とはこんな感じだ。
それに比べて男の人は、コップについた水滴のようにダラダラと汗をかいていた。きっと彼らも僕と同じように、悲しい事情があるのだろう。
そう客観的に眺めてみると、僕はとっても惨めになった。
僕は未だに彼のように未練ダラダラで妹のことを呼び止めてしまっている。この男と同じように……。
もっとスマートにならなくっちゃ! でも、やっぱり僕は寂しい。
「……きっと母さんは悲しむよ」
「ええ、そうね」
「黙って行くのかい?」
「じゃなきゃ、きっとお母さん、私のことを呼び止めるわ」
「クリーニング屋さんに突き返されたら?!」
「それでも私、諦めない。だって私、あの人のことが心底好きになってしまったんだもの……」
どうしようもない。と、潤んだ瞳で彼女はないた。なきたいのは僕の方だ。
だけども凛と澄んだ彼女の顔が、今まで見てきたどんな顔よりも美しく、愛おしかった。きっとこの顔ができるのも、クリーニング屋さんの彼がいるお陰なんだ。僕じゃ一生引き出せない。
「きっと母さんは悲しんで、お前の分も僕を可愛がるんだろうなぁ……」
「ごめんなさい」
「いいよ。可愛い妹のためだ。君が幸せならば、母さんの重すぎる愛も僕はきっと受け止められるよ」
そう物悲しく話していると母さんが、「ご飯よ」と言って焼き魚をほぐしたお昼ご飯を持ってきた。僕らの前にそれらを置くと、嬉しそうに頭を撫でてゆく。
「食べていかないの?」
「うん。お兄さんが食べて」
そう言った妹も、お隣さんの二人をじっと見つめていた。
「僕と結婚してください!!」
お隣さんから聞こえた声。それの意味を僕は全く知らないが、言われた女の人が大粒の涙をこぼしているからきっと、とても悲しい言葉なのだ。
母さんは笑顔でお隣さんのコップを片付けているが、ぐちゃぐちゃだったアイスクリームもいつの間にか綺麗に平らげられていた。
「じゃあね、お兄さん」
妹は窓際の特等席から飛び降りると、尻尾をピンと立たせて歩いてゆく。
大胆にもお会計をする男女の横を通り抜け、扉の外へと飛び出した。
母さんは女の人と楽しそうにお喋りをしていたから、気が付いていないようだけど、僕は窓ガラスに張り付いて彼女の後ろ姿を眺めていた。
アスファルトに照らされた白い光に僕の目はやられてしまったけど、彼女の黒い後ろ姿が小さくなっていく様を最後まで見送ることは何とかできた。
――じゃあね、元気で、お幸せに。
幸せに向かって走って行く彼女に僕は精一杯のエールを送ろうと、母さんに聞かれないように小さく鳴いた。