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09

 マスタードガス。

 一八五九年、ドイツの化学者アルバート・ニーマンによって合成された化学兵器。

 第一次世界大戦中に、ドイツ軍がカナダ軍に対して実践で初めて使用された。人体を構成するタンパク質やDNAに大きく作用し、皮膚組織を変性させ、DNAを傷つけることで毒性を発する。つまりガスに触れるだけで皮膚はただれ、発ガン性も高くなり、肺疾患で死亡するケースもある悪魔のような兵器だ。

 その機密情報を持ち出したという猫柳は、スモークで見通しが悪い窓の外をじっと見つめていた。

 ミカウバーとマルコムという二人組に誘拐された三人は、ただ車に揺られていた。

 誘拐されてから二十分くらいだろうか。

 周囲の風景から、どんどん人里を離れて山奥に入っていくのがわかる。

 拘束はされているものの、目隠しなどはされていない。どこに連れて行かれるかは知られても問題ないのだろうか。

 運転席と助手席に座っている二人の誘拐犯は後ろとの接触を好まないのか、小さなカーテンを閉めたままだ。ときおり言葉を交わしているようだが、大したことは話していないようだった。

 三人の沈黙を破ったのは胡桃澤だった。

「さっきの話だが……そのCDに入っているデータは、本当に化学兵器のデータなのか? いまいちピンとこないんだが。君は一体何者なんだ?」

 猫柳は彼の顔をちらりと見るが、質問に答える気はなさそうだった。

 すぐにまた窓の方を向く。

 その反応が気に入らなかったのか、田中が割って入った。

「そうっすよ。俺の情報によれば、あんたはドラッグの取引情報を持っていたはずなんすよね。それが化学兵器なんて物騒なもんだったなんて。あんたが何者なのかってのも気になるんすけど、前の二人も何者なんすか? 仲間じゃないんすか?」

 今度は、鬱陶しいとばかりのしかめっ面で睨みつけてきた。

 だが、今度は窓の外へ視線を戻さず、こちらに顔を向ける。

 状況が状況だけに観念したようにも見えた。

「私はこう見えても化学者なんだよ。それも政府公認のね。あの二人組はどうか知らないけど、おそらく秘密裏に私とこのデータを使って、マスタードガスを手に入れようとしているってとこじゃないかしら」

「政府公認って……政府がなんでそんな化学兵器を作ってるんすか。怪しいすね」

「そんなこと私が知るわけないでしょ。給料が良いだけでプライベートでも関係者が尾行したりしてて、完全に監視状態だったし、研究は私がやってたマスタードガスだけじゃなかったわよ。他にも生物兵器で有名な炭疽菌とかペストも研究していたみたいだし、公にはできないような危険な研究もいろいろしてたみたい。まあ、私はマスタードガスの研究だけだったけど」

「じゃあ、お嬢さん。その危険な研究データを、何故あんたは外部に持ち出した? それも銀行の貸金庫なんかに」

「その『お嬢さん』ってのやめない?」

「じゃあ、猫柳さんって呼ぼうか」

「ああ、そっか。私のこと色々と調べてるから、名前くらい知ってるってわけね。なんかフェアじゃないなぁ。私はこの件の核心にいるはずなのに、まわりの状況はまったく把握できていない。あんた達が誰かも知らないし、あの二人組の正体もわからない。できれば知ってること話してくれないかな? それなら私も知ってることは教えてあげるよ。そもそもこの状況からして、あの二人から逃げないと私たちはいずれ殺されちゃうかもしれないしね」

 肝っ玉が据わっているとは思ったが、この状況下でよく喋る。

 田中は少しばかり、猫柳と情報交換をした方が良いと思った。

「いいっすよ。もともと俺の計画が発端だったんすから。こちらとしても、予想外のアクシデントで正直パニックですし」

「じゃあ、運命共同体ってわけで宜しくね」

 猫柳は満足げに笑みを浮かべる。

 自分が計画したこととはいえ、胡桃澤の意見を聞かなかったからか、田中は確認するように胡桃澤を見る。だが彼は苦笑いしながら、やれやれという表情をするだけだった。

 彼女は続ける。

 面白い玩具を見つけた猫のように。

「名前、教えてよ。別にいいでしょ?」

「そりゃいいけどよ……俺は田中。こっちは先輩の胡桃澤さん」

「そういや彼のこと先輩って呼んでるけど、同じ職場の人かなんかなの?」

「違うっすよ。胡桃澤さんと俺は同じ高校出身ってこと。そんなことより、あんたの話を聞くのが先だ。さっき先輩が言った質問に答えろよ」

「そうだった。なんで研究データを持ち出したかってことね。答えは簡単よ。盗み出しただけ。だから逃げてたのよ。それに危険なデータであることには変わりないから、安全な場所に保管しようと思って貸金庫に入れておいたわけ」

「じゃあ、なんで盗んだんすか?」

「それはさっきも少し言ったけど、この研究自体あまり公にできない……というより公になってはいけないことだから政府は研究機関自体を秘密にしていたの。組織上、防衛省の傘下にあったけど、化学兵器や生物兵器などでテロが起きた場合の対処として指揮系統は政府直下にあって、兵器に対しての対策を研究するという名目にしてたのね。ところが防衛省のテロ対策部隊が、これを有事の際には実践で使用できるように指揮権の譲渡をしろという案件を持ち出したわけ。無茶苦茶でしょ?」

 彼女の話が本当ならば、政府は独自の軍事研究施設を組織しており、その実態を知っている防衛省はテロ対策どころか対軍事兵器として応用できるようにしたいということらしい。いささかスケールの大きい話になったところで、胡桃澤が言った。

「そんな馬鹿な話はないだろう。いくら秘密裏にそんな兵器を研究しているからって、それを実践投入できるはずがない。マスタードガスは、その名の通りガスだ。不純物が混ざらない純粋なマスタードガスは無色無臭。戦争地帯で周りがすべて敵だったら効果的かもしれないが、今の日本でそんなものを使えるはずがない。一般人を巻き込む危険だってあるんだ。戦争でもする気なのか?」

「そうね。だから実験したいのかもしれないわ」

「実験?」

「犯罪者に対しての人体実験……とか?」

「おいおい、そんな無茶な話があるか」

「まあね。実験に関しては私の推測だけど、どちらにしても危険なことに変わりはないもの。私はこのデータをメディアに流すつもりだったんだ。そして私が所属していた研究機関そのものを潰そうと思ってね。もしも逆に、このデータがテロリストの手に渡ったりしたら、それこそ大変なことになるし」

 そこまでの事情を聞くと、彼女はたったひとりで悪に立ち向かうヒーローに見えた。

 たしかにこの研究は危険だ。

 世界でも比較的、犯罪の少ない治安の良い国である日本に、そんな物騒な兵器を放たれれば、危機管理に疎いこの国家は簡単に滅びる可能性もある。

 彼女は少しお調子者で、お高く止まっているように見えたが、そうではなかった。

 その姿勢に感銘を受けたのか、田中は「猫柳さん」と、いつのまにか彼女の名前を呼んでいた。

「なに? 質問かな、田中くん」

 彼女が彼に対する評価は変わっていないらしい。

 相変わらず下に見られているようで、田中は面白くなかった。

「いや……話を聞いていて思ったんすけど、もしかして、そのデータって単なる情報だけじゃないんでしょう? 何か他に重要なものもある気がするんすよね。だって、そういう秘密の機関をメディアに流すだけだったら、手段はいくらでもあるはずです。それに前にいる二人の男たちが政府か防衛省の連中だったとしたら、データを破壊すればいいし、猫柳さんも邪魔なら殺せばいいんだ。でも、そうはしなかった」

「なるほど、いい質問ね」

 猫柳はにやりと笑う。

「君がそこまで考えているとは思わなかったわよ。確かにその通りよ。このデータ自体には私がプロテクトしてるから、容易には中身を見ることができない。それに加えて、兵器の管理システムにアクセスするための、アドミニストレータって管理責任者権限を無効化することのできるクラック・プログラムも入っている。つまり、研究室にある兵器を自由に使うためには、このデータと私が必要になってくるってわけ。だから、奴らは私たちを拉致したんじゃないかと思ってるんだけどねぇ……それが研究続行のためなのか、実践投入するために必要なのかはわからないけど」

 小さなカーテンの向こう側にいる二人を、猫柳は睨みつけるようにしている。

 そして、つながれた腕に頭を乗せるようにしながら、小さく「こいつら何者なんだろ」とつぶやいた。

 気が付くと、すでに辺りは暗くなっていた。

 前方はカーテンで仕切られ、周りの窓はすべてに深いスモークが貼られているので、日が暮れているのがよくわからなかったのだ。

 話に夢中で車の行き先のことについては注意していなかった田中は、胡桃澤を見て「今どの辺を走ってるんすかね」と聞いてみる。

「一度、高速に乗ったのはわかったが、どこに向かってるのか見当がつかないな。さっき彼女が言ってた研究所ってとこに向かってるのかもな……どうなんだ?」

「うん……でも、この道だと分室かもしれないわ」

「分室って?」

「化学兵器とか、生物兵器のサンプルが保管されている別の施設よ。まさか町中にある研究所に実物を持ってくるわけにはいかないでしょ。だから、研究所ではデータだけを扱って、分室の方で実物を保管しておくの。今の時代なんでもネットでできるのよ。簡単な配合とか実験なら、ネット経由でマジックハンドみたいな機械を使ってやるのよ。昔みたいに、わざわざ防護服を着て実験したりはしないわ」

「なるほどな。じゃあ、廃村なんかに人知れず建ってたりするわけか?」

「そう。周囲に人家がなくて、国有地になっている土地を使っているから、悪戯好きな子供が来ることもない。たとえ来たとしても、セキュリティは万全だし、万が一電力供給がストップしたとしても、ソーラーパネルと自家発電で一ヵ月以上は単体で機能するような設計がされてるわ」

「なんだか……すげぇ時代になったもんすね」

 田中は素直に感心した。

 目まぐるしく時代は変わっているんだな、などと思っていたときだった。

 急に車の揺れが激しくなり、周りの木の枝が車体に触れる音がする。

 どうやら山道に入ったようだ。

 砂利道で車が小刻みに揺れる。

 座席の真ん中にいる田中は、上体を起こしても暗くなった表の様子はいまいちわからなかったが、道は山の中へ深く伸びているようだ。車体に当たっているのはススキか何かなのだろうが、ずいぶんと背が高い。滅多に車が通らないのだろう。

 窓に頭をつけるようにして外を見ながら猫柳が言った。

「やっぱりそうだ。私も一度しか来たことないけど、この先には分室があるはずよ。この左右が山に囲まれている感じ……たぶん間違いないわ」

 到着すれば、またあの二人と接触することになる。

 ずいぶんと落ち着いて行動していたのが印象的だった。

 そんなことを考えながら、田中はふとあることを思い出した。

「あの……もしかしてなんすけど、奴らは警察の人間じゃないっすか? 俺がいる組に、自衛隊崩れの兄貴分がいるんすけど、その兄貴が一度だけ自衛隊の訓練で、特殊部隊と合同訓練したことあったらしいんすよ。その写真を見せてもらったんですが、服装が奴らの装備と似てるんですけどね……たしかRATSって特殊部隊だったような」

「それは俺も聞いたことがある。RATSは対暴動戦術部隊の略称で、埼玉県警に所属している特殊部隊だ。だが、たった二人でこんな作戦をするかな……ほとんど単独行動しているように見える」

「でも、ヤクザみたいな荒っぽさもないし」

「そりゃそうだが」

「それよりも田中くんは、ヤクザやってたんだね。ずいぶんと貫禄ないけど」

「余計なお世話っすよ。とにかく、猫柳さんの話だともう少ししたら分室に着くんでしょう? そこで奴ら二人が何者かを確かめて、隙をついて逃げればいいっすよ。政府か防衛省か警察か。ドラマや映画じゃないんすから、国家組織ならそう簡単に人質を殺すはずはないんじゃないすか? 仮にもここは日本ですし」

「まあ、そうかもしれないが、目的のためなら何でもやりそうだぞ。現に民衆には秘密で化学兵器だの生物兵器だのを作っている連中だ。そのうちひょっこりと核ミサイルも作ってみました、なんて言い出すかもしれん。いくら治安が良い国とはいえ、裏ではどんなことになってるかわかったもんじゃない」

 胡桃澤が国家に対しての悪態をついていると、車が減速していった。

 周囲はどっぷりと闇に浸かっており、窓から見ても何がどうなっているかはわからなかった。

 様子を窺っていると車が停車する。

 同時に運転席と助手席から、話題の二人が降りてきた。

 ドアを開け放ったのはマルコムだった。

 彼は無言で猫柳に降りるよう促す。

 彼女もまたマルコムを一瞥すると、無言でそれに従う。

 その次に田中が出るように指示された。

 彼は後ろで手錠をかけられているので、車の中では動きづらい。なんとかこけることなく車を降りたとき、マルコムの傍らで拳銃を構えているミカウバーの姿が目に入った。

「長い道中お疲れ様。ここが終点だよ」

 笑みを含んだような言い方だった。

 彼らのこの余裕はなんなのだろう。

 マルコムは田中と入れ違いで車内に入ると、胡桃澤の手錠に手をかける。彼は車に装備されている鉄格子に手錠を括りつけられているので、彼はそれを外していたのだ。乗り込むときの順番として胡桃澤が一番初めだったので、そうしたのだろう。彼らは二人組だ。三人を拘束するためには一人は動けないように固定させたのだ。それとも彼がこの三人の中で一番危険だと判断したのかもしれない。

 田中はそのような想像をしていた。

 胡桃澤が降りてくるまで、ちらりと周囲を見回した。

 目が慣れてきたからか、建物と周囲の輪郭はわかる。

 建物は鉄筋コンクリート造りの二階建てで、外観は白っぽい壁になっている。この箱型はどこか倉庫を思わせる薄暗い印象があった。正面には鋼鉄で作られているような頑丈な扉が一枚とシャッターがあり、雨をしのぐ屋根が一枚突き出ているだけだ。不自然なほど窓はなかった。

 周囲はすべてフェンスで囲われ、上部には有刺鉄線が張り巡らせれている。車が止まっているのは、そのフェンスの内側になる。フェンスの入り口は両開きとなっており、その片側には『火気厳禁』と『発電設備』という札が見えた。建物を振り返ってみたが、そんな設備どころか高圧線もない。おそらくカモフラージュのためだろう。

 この二人組が、わざわざ発電所へ来るはずがない。猫柳が言ったように、ここは間違いなく研究所の分室なのだろう。

 暗闇の中では、この時期にしては珍しくヒグラシが鳴いていた。

田中は子供の頃のことを思い出していた。あれは小学校の先生が教えてくれたことだっただろうか。ヒグラシなどの蝉は七年くらい土の中で幼虫として過ごし、成虫になってからは長くても二週間くらいしか寿命がないらしい。

彼らは七年もの間、暗闇の中で何を考え、何を夢見ているのだろう。

目を閉じたまま、昏々と眠り続けるのではないかと不安にならないのだろうか。

彼らの寂し気な鳴き声は、限られた時間で限られた世界しか見ることができない命の短さを嘆いているのだろうか。それを訴えかけているようにも思えた。

お前もか、と。

三人が車から降りるとマルコムが先頭に立ち、建物へと向かう。

彼の後ろに胡桃澤、猫柳、そして田中の順番だ。

最後尾にいるのはミカウバーだった。

「あんたら何者なんすか。ここで俺達に何しようってんだ」

 少し声が上擦る。

 田中は咳をして少しごまかした。

 するとミカウバーが後ろから呑気な声で答えた。

「我々はある意味、思想家だ」

「思想家ね……思想家にそんな装備は似合わないっすよ」

「たしかにそうかもね。まあ、世間は我々のことをそうは呼ばないだろう」

「なんかの宗教っすか?」

「いや。そこまでは信仰深い方じゃない」

「じゃあ、なんなの?」

「そう……一般的にはこう呼ばれる。〝テロリスト〟ってね」

 田中は建物の正面を向いていたので、ミカウバーの表情は見えなかったが、彼はかすかに笑った気がした。彼らは政府の秘密機関でも、防衛省の回し者でも、警察の特殊部隊でもなかった。

 テロリストだったのだ。

 田中はようやく合点がいった。


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