08
車は予定通り市内に入る。
拳銃を持っていたことについて、胡桃澤は何も言わなかった。
内心、田中は胡桃澤が驚くのではないかと思ったのだが、その反応は予想だもしないあっけらかんとしたものだった。チンピラはみんな銃を持っているという認識なのか、はたまた誘拐には拳銃があって当然と思っているのかは知らないが、なんとなく落ち着かない様子の田中だった。
銀行から出てきたときには、周囲に異変はなかったようだった。平日の午後二時半過ぎといえば、窓口の閉店前だ。よほど急ぎの用があるときか、ATMの利用客くらいしか客はいない。目撃されたとすれば、比較的利用客が多いATMのコーナーではあるが、胡桃澤たちが待機していた北側とは反対の南側に位置している。目撃されたというリスクは少ない。
車内は静かだった。
とはいえど、まだ猫柳を拉致してから五分程度しか経っていない。
田中は拳銃を彼女に向けたまま、時折、後方からの追跡がないか確認していた。
「ねえ、何でこんなことしてるの?」
相当肝が据わっているのか、早くもこの環境に慣れたのかはわからないが、猫柳が田中に聞いてきた。車内の側面に寄りかかるようにして上体を起こしており、バッグを抱きかかえるようにして腕を組んでいる。
「あんたの持ち物に興味があるんすよ」
「持ち物? 私には興味ないんだ。じゃあ下ろしてよ」
「駄目だ。そのデータにどれだけの価値があるか、あんたもわかってるだろ。そう簡単に開放するわけにはいかないんすよ。大人しく黙ってな」
「ふうん」
彼女は顎を突き出すようにしてそう言った。
どこか馬鹿にしているような素振りに、田中は不快感を覚えたが、目的の為にも堪えることにした。化粧っ気がないのは写真で見たままだったが、目鼻立ちははっきりしており、なかなかの美人ではある。スカートから伸びる足も綺麗だ。
田中が視線を落としている隙に、彼女はバッグの中へ手を伸ばしていた。
「おっと、動くなっての!」
拳銃を彼女の目の前に戻すと、銃身の先に四角いケースがあった。
音楽用のCDケースだ。
ジャケットは、ギターを携えた男の半身というデザイン。
猫柳の口元に笑みが浮かぶ。
「データってこれのことかしら?」
「はあ? これ……音楽CDじゃんか」
「そうね。エリック・クラプトンの『スローハンド』だよ」
彼女はそう言って、にっこりと笑った。
田中が動揺していると、運転をしていた胡桃澤が突然笑い出す。
「いい趣味だ」
「ちょ……先輩。こいつ、俺達のことからかってんすよ!」
「『スローハンド』はクラプトンが一九七七年に出したアルバムだ。俺はあまり詳しくはないが、そんな俺でも知ってる名曲がある」
猫柳が「あら、そっちのお兄さんはセンスがあるのね」と、暗に田中を卑下したような口調で言った。少し頭にきたが、二人が何を言いたいのかわからなかった。
田中は運転席側に顔を寄せる。
「あの……先輩。どうなってんすか。こいつ、もしかしてデータなんか持ってないのかもしれませんよ」
「心配するな。彼女が持ってるCDは本物だ」
「えっ、でも……音楽の……」
「そのアルバムの一番初めに収録されている曲名は『コカイン』だ」
そのとき田中にも猫柳が言っている意味が理解できた。
中身を偽装しているのだ。
「つまり、中身は本物ってことっすか?」
「ご名答」
胡桃澤と猫柳が同時に言った。
しかし田中は、偽装したデータに不審を抱いていた。
情報が間違っていたのだろうかという不安も拭えずにいた。
彼女もたしかにいい女だが、どうもいけ好かない。
体制を立て直し、こちらに優位性を持たせようと、田中は猫柳の首をつかんで彼女の額に拳銃を突きつける。彼女の頭がスモークを張ったガラス押し付けられた。
「そのデータ、こっちに渡してもらえますかね。言うことを聞かなければ、あんたの脳みそも粉々っすよ」
首にかかっている手に、少し力を入れる。
彼女は一瞬眉間に皺をよせるが、突然、田中の襟を掴むと自分の顔の目の前まで引き寄せて言った。
彼女の息が顔に触れる。
「あんたも首を掻き切られたくなかったら、この手を離しな」
そのときはじめて、首筋に冷たい感触があるのに気付く。
田中はゆっくりと首にかけていた手を離し、後退する。
そして彼女が握っている物に目をやった。
刃が三日月のように反り返り、ハンドルエンドには指を通す穴が開いている単身の黒いナイフ。しばしば特殊部隊などで使用される、格闘技と併用して用いられるカランビットと呼ばれるナイフだ。
「拳銃とナイフじゃ、リーチに差があるんじゃないっすか?」
「私を殺しても、あんたらにメリットはない。生かして利用する方が得策だと思うよ? とにかく私に触れないでくれる?」
二人の間に火花が散ったような気がした。
いや、それは火花にしては赤い。
胡桃澤が叫ぶ。
「後ろのお二人さん! とりあえず大人しくしてくれるか。お客さんだ!」
赤ん坊が癇癪を起こしたような音。
パトカーのサイレンだ。
胡桃澤はアクセルを踏み込む。
同時に二人は後部座席に押し付けられた。
「ちょっと! 乱暴な運転しないでよ!」
「お嬢さんも捕まりたくなかったら黙ってろよ!」
「お嬢さんって、どう見てもあんたの方が年下でしょ!」
急ブレーキでタイヤが軋んだかと思うと、今度は急に左折する。後ろでは、急な進路変更についてこれず、パトカーが交差点で停車していた。運転手もここまでのカーチェイスは予想していいなかったようだ。同じように車内でも、遠心力で倒れてくる田中を片足で蹴り返しながら、猫柳が運転席へ罵声を続ける。
「なんなのよ……警察の厄介になるのは御免だわ」
「それより俺を足蹴にするな!」
「あんたは黙ってて」
猫柳は華麗にカランビットナイフを人差し指で回し、手の平に収めると、その切先を田中に突きつける。これでは、どちら人質なのかわからない。田中は拳銃を持っているのにもかかわらず「まて! わかった」と、両手を挙げる。
「まったく騒がしいな。ちょっと寄り道をするぞ」
胡桃澤は細い路地に入り、古ぼけた車の整備工場の敷地に入る。工場といってもこじんまりとした建屋で、屋根は折板ルーフに外壁は鋼板パネル、内部は鉄骨で組み立てられているだけのシンプルな造りだ。周囲はフェンスで囲ってあるが、それ以上に蔓延っている背の高いススキや雑草が工場の存在を消している。二枚ある大型のシャッターの片方だけが開いており、中に入ると車は停車した。
構内には誰もいない。
「ここどこ?」
「さあ……」
田中の反応に、猫柳は「あんたらホントに仲間?」と、呆れ返ったような顔をする。いちいち癇に障る女だと思いながらも「逃走経路についての計画は、先輩が担当してるんすよ」と、精一杯凄みを利かせる。
「ちょっと待っててくれ」
そう言うと胡桃澤は運転席を降り、車のボンネットの端に手をかける。
次の瞬間、まるでシールのようにボンネットの白い塗料が剥がされ、もともとのカラーである黒色のボディが露になった。同じように車の周囲も順番に剥がしていく。車内では粘着の剥がれる音が雷のように鳴っていた。時間にすればほんの一分くらいで、白と黒だったパンダカラーから、本来の漆黒カラーへと姿を変える。そのまま手を休めることなく、バックドアを開けると、胡桃澤はナンバープレートとインパクトドライバーを取り出し、前方と後方の偽装プレートを手早く取り替えた。
作業が終わると直ちに運転席に戻り、ハイエースをバックさせる。
「ずいぶん手際がいいわね」
「先輩はプロっすからね」
「余計なことを言うな」
たしかに、誰から見ても手際のよい作業だっただろう。
すべての作業は五分もかかっていない。
胡桃澤はそのまま通ってきた道を引き返す。
「えっ……先輩、戻るんですか?」
「ああ、逃走経路を推測されて検問でもやっていたらかなり厄介だ。今は逃げるよりも懐に入ったほうが安全だと思う。一度戻って通り過ぎながら様子を見ておこう。いくら警察が優秀とはいえ、パトカーと接触したのはほんの十分前くらいだ。ボディとナンバープレートを偽装したことがバレるなんてことはないだろうよ」
車は逃走経路をそのまま遡り、パトカーが停車していた国道の交差点へ戻ってくる。
田中は息を飲んだ。
胡桃澤の言うとおり、見つかる心配はないと思っているが、それでも落ち着かない。
さすがに交差点の真ん中に姿はなかったが、路肩に止められたパトカーが見えた。一人が助手席から無線を使っているのがわかる。他に警察車両などは見えなかった。そのまま銀行の方へ戻ると、ワゴン型のパトカーとすれ違った。サイレンは鳴らしていなかったが、この周囲を警戒しているのかもしれない。
しばらくすると、さきほどパトカーに見つかった地点で、またワゴン型のパトカーと数人の警察官が荷物を運んでいる様子が見えた。もしかするとこれから検問をするつもりなのかもしれない。しかし、三人の乗る車は何知らぬ顔でその横を通り過ぎる。
さらに猫柳を拉致した銀行まで戻ったが、ここにも警察の影もなかった。
計画はうまくいったのだ。
ここまできて、ようやく田中の顔に笑みが浮かんだ。
「うまくいったみたいですね。でも、さすが先輩っすね。まさか車の塗装をああいう方法で偽装しちまうなんて考えもみなかったっすよ」
「お嬢さんを拉致するときに、誰かに見られて通報される可能性を考えたんだ。あの銀行の駐車場だと周りからは死角になっていたから、目撃される心配はないと思ったんだが、パトカーが追いかけてきたことを考えると、誰かに見られていたのかもしれないな。危ないところだった」
「本当にね。あそこで捕まってたら、私たち三人とも終わりだったわよ」
「そりゃそうっすよね。あんたはそんな物騒なデータ持ってんすから。いい加減そのデータを渡してもらえませんかね。それがないと俺の計画は台無しなんすよ。脅しじゃなくて本当に風穴開けてもいいんすか?」
「さっきから黙って聞いてたけど、ずいぶん威勢がいいのね。でも私を殺さない方がいいってさっき忠告したわよね?」
「そりゃ、あんたを人質にして、バックについてる組織から金を巻き上げるつもりっすからね。できれば生きたままにしておきたいんすけど、最悪の場合このデータだけでも手に入れば問題ないっすよ」
話を聞いていた胡桃澤が、バックミラー越しに二人を見た。
「おいおい、そのお嬢さんを殺したんじゃ俺の報酬がなくなるんだろ。それに俺はそこまで悪党じゃないんだ。人殺ししてまで金を手に入れたいとは思ってない」
「あ、先輩。大丈夫っすよ。ただの世間話ですから」
「私の生死を世間話で片付けてほしくないけどね」
減らず口を叩く猫柳は、カランビットナイフを持つ手を緩めない。
田中も拳銃を構えたまま、銃口を彼女に向けていた。
やがて車は市内を抜け、一車線しかない道路を進んでいた。
追っ手が来ていないかを確認するためだった。
この通りは車の往来も少ないので、尾行でもされていればすぐにわかる。
田中は後方を注視していたが、その視線の先に違和感を覚える。さきほどから、ずっと同じ車が追ってきている気がしたのだ。
車は黒のセダン型。フロントガラスからどのような人物か見えるかと目を凝らすが、ハイエースに貼っているスモークと、光の加減でどのような人物が運転しているのかはわからない。
だが、乗車しているのは一人だけに見えた。
「先輩……後ろのセダン、尾行じゃないすか?」
その言葉に、胡桃澤はバックミラーを確認する。
田中は猫柳が妙な動きをしないように、見張りながら胡桃澤の様子を見ていた。幸い猫柳のほうも後方の車が気になったのか、少し首を傾けている。
「そうかもしれんな。ちょっと脇道に入ってみよう」
不審な動きと悟られないよう、ゆっくりと余裕を持ってウインカーを出し、十分にスピードを落してから右折した。ちょうど対向車もいなかったので、そのまま脇道に逸れる。その道の先は、舗装はされているが農道のようでセンターラインも引かれていない。人家はまばらにあるが、その他は田畑が占領している。
黒のセダンは車間距離を取っていためか、スピードを落すこともなくそのまま直進していく。どうやら取り越し苦労だったようだ。
安堵の溜息をついたのは田中だった。
「どんな奴が乗っていたか見えたか?」
「いえ、よく見えなかったっす。たぶん乗っているのは一人だと思うんすけどね」
「しばらく様子を見るか」
胡桃澤は農道を突っ切ると、今度は舗装もされていない砂利道を走らせる。少しすると両サイドが竹林になっている場所を見つけ、そこに停車した。この位置からだと畑越しに国道を行き来する車も見える。ちょうど国道とは並行に伸びている道だ。車体の左側は、うまい具合に竹林が少なく、こちらからは見通せる。
胡桃澤は双眼鏡を助手席側に向けて、国道の方を見ていた。
そして、ちらりと田中のほうを向くと「組織の連中かもな」とつぶやく。
猫柳は「そうかもしれない」と、厳しい表情になった。
「もしそうだったら、あんたらもただじゃ済まないと思うよ。警察に捕まった方が命の危険はなかったかもしれない」
「へえ、脅しですかい。日本にいるロシアン・マフィアは、ほとんど経済マフィアで武闘派は少ないっすよね。デスクワークだけのぬるいマフィア相手なら、ドンパチで負ける気はないっすよ」
「……ロシアン・マフィア?」
「隠しても無駄っすよ」
「いや、あんた何か勘違いしてない? ロシアン・マフィアとか言ってるけど、私はマフィアじゃないよ」
「え?」
車内の空気が止まった。
そのときだった。
強い衝撃。
地震のように車体が激しく揺れる。
フロントガラスにひびが入っていた。
同時に運転席と助手席のエアバックが開く。
「くそっ」
さらに二度目の衝撃。
胡桃澤はエアバックに圧迫されながら、「くそっ」と二度目の悪態をつく。
フロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れ、やがてはこなごなになった。その向こうに、黒いセダンが見える。
こちらの動きを読まれて、Uターンしてきたのだ。
胡桃澤は双眼鏡を放りだすとサイドブレーキを下ろし、後退するために後ろを向いた。田中も同じように後ろを向くが、すぐに絶句する。
後ろにはワゴン車が押し寄せていた。
そして三度目の衝撃。
この衝撃で、田中と猫柳は座席のシートに押し付けられた。
気がつくとハイエースのエンジンは止まっている。
エアバッグから逃れようと、ドアの取っ手に手をかける胡桃澤は、前方のセダンから武装した男が降りてくるのを見た。手には拳銃が握られており、その銃口はこちらに向いている。
男は目の部分だけが空いているフルフェイス・マスクを被り、服装は自衛隊のような迷彩服ではなく、黒一色に身を包んでいる。軍隊というよりかは、警察の特殊部隊のような服装をしていた。
頭をぶつけた田中は他に怪我をしたところがないかを確認したが、とくに出血もなく大したことはないようだった。そして猫柳を見た。
彼女は右肩をぶつけたらしく、左手でそれを抑えている。
だが、それでも右手にはカランビット・ナイフは握られたままだった。
そして彼が胡桃澤の安否を確認しようとしたとき、黒ずくめの男が目に入る。目の前にいるというのに、胡桃澤は微動だにしない。よく見ると頭に拳銃を突きつけられていた。咄嗟に自分が持っている拳銃を突きつけようかと考えたが、ふと思いを留める。後ろのトラックにも仲間が乗っているに違いないと思ったのだ。もし、ここで争ったとしても、こちらの武器は拳銃一丁だけだ。黒ずくめの男たちが何人いるのか、どんな人間なのかを把握しないまま反撃するのは無謀に思えた。
とりあえず銃は腰のベルトに差し込んでおく。
黒ずくめの男と田中の目が合う。
胡桃澤に向けられていた銃口は、田中に標的を合わせていた。
そのまま撃たれるのではないかと思ったが、男は「両手を上げろ」と短く言ったので大人しくその通りにする。声の感じからして四十代くらいだろうか。銃口はこちらに向いているので、胡桃澤が反撃でもしてくれないだろうかと思っていたが、彼の左手には刃渡り二十センチほどのサバイバル・ナイフが握られており、胡桃澤には銃口の代わりに切先が向けられていた。
ふいに男が言った。
「マルコム、こちらミカウバー。ターゲットを捕獲しろ」
つぶやくような小さい声だったが、すぐに無線を使って相手と話しているのがわかった。彼の名はミカウバーというようだ。もちろんコードネームだろう。そしてもう一人がマルコム。後ろのワゴン車に乗っているのがマルコムなのだろうかと田中は想像していた。
田中の背後で、ハイエースのドアが勢いよく開く。
振り返る前に「動くな」と後頭部に冷たいものを押し付けられた。
男の声だ。
後頭部に触れたのは拳銃に違いない。
反射的に両手を上げた。
そして体のあちこちを触られる。おそらく武器を隠していないか探しているのだろう。案の定、田中の銃は見つかり、没収された。彼の目の前にいる猫柳は、様子を窺うようにして、じっと固まっている。
彼らの仲間ではないかと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
彼女は明らかに警戒している。
「マルコム、そっちの二人を頼む」
ミカウバーが今度は無線を使わずに、直に指示をした。
田中の後ろにいた彼は「了解」と承諾したことから、やはり田中の思っていたように彼がマルコムなのだろう。そのマルコムは「ゆっくり手を下ろして、腰の後ろに」と田中に指示する。こちらの男は声の感じからして、ミカウバーよりも年下のようだ。
ゆっくりと腰の後ろまで腕を下ろすと、手首をつかまれ、冷たい感触が両手首を締め付ける。
手錠だ。
鎖の触れ合う感触。
運転席の胡桃澤は、すでに拘束されたようで、後方に停車しているワゴン車へとミカウバーが連れて行くところだった。田中も後ろ向きに車から降ろされ、そのままハイエースの横腹に押し付けられていると、しばらくしてミカウバーがやってくる。
胡桃澤はすでにワゴン車に乗せられたようだ。
「てめえら……何者なんだ」
ミカウバーを睨み付けながら、田中は言った。
彼はマルコムから田中を受け取ると、彼の腕を掴みワゴン車の方へ引きずりながら言う。
「君が知る必要はない」
その言葉はいささか事務的な言い方だった。
白いワゴン車は、一見ただのステーションワゴンに見えるが、サイド・ドアを開けると運転席の後ろには約十センチ間隔でストライプ状に鉄格子があり、後部座席から移動できないようになっていた。車内の側面にも同じように鉄格子が並んでいるが、こちらはボーダー状に整列している。後部座席はまるで檻のようだ。
その中で胡桃澤は大人しく座席に身を落ち着けているが、両腕は田中と同じように手錠で拘束され、さらにその手錠はチェーンで鉄格子に括りつけられていた。手錠を前側にかけられているので、田中よりは楽な姿勢をしているように見える。
ただ若干高い位置に括られているので、少し手を上げた状態だ。
彼の表情は厳しかったが、怯えているようには見えない。
それどころか、田中の事を心配しているようだった。
田中は小さく頷く。
どこかで逃げ出すチャンスはあるはずだ。
だが、今はこの男たちが何者かを知る必要があった。猫柳の仲間ではなさそうだが、なんらかの因縁はありそうだ。
やはり例のデータ絡みだろうか。
「君は後ろ向きに手錠がかけてあるから、そのままでいいか」
どこか軽い口調だった。
ミカウバーはそう言うと、足で田中の尻を蹴り、無理やり車内へ押し込む。ちょうど胡桃澤が座っている横に顔を押し込められるかたちになった。もう少しで胡桃澤の膝枕へダイブするところだ。
「いってぇ……何てことしやがる」
「大丈夫か?」
胡桃澤が小さく言った。
見上げると彼の顔があった。
「すんません、先輩。こんなことに巻き込んじまって」
「気にしなくていい。それよりも、この連中が何者なのかという方が気にならないか? 心当たりがあるとすれば、猫柳が持っているデータだろう。だが、ヤクザならもう少し荒っぽいやり方だろうし、目立った諍いを嫌うマフィアだったら証拠を消すためにも、すぐに俺たちを殺すはずだ。だが、そうはしない。動きにも無駄がないし、訓練されたような動きも気になる。猫柳とセットで拉致する気なのか?」
「俺たちと猫柳が仲間同士と思ってるんすかね? 俺たちを拘束するメリットはないって交渉しますか?」
「いや、今は様子を見て大人しくしていた方がいいんじゃないか? メリットがないとわかれば、すぐに殺される可能性もある。隙をみて猫柳に話を聞く必要があるな」
そんな話をしているとき、マルコムが猫柳を連れてきた。
両手を前に手錠で拘束されている。
彼女はふくれっ面ではあったが、暴れたりはしてなかった。
あんたたちのせいよ、というような目で二人を睨む。
自慢のカランビットは、田中の拳銃同様に没収されたのだろう。データの入っていたバッグもなくなっていた。
やはりデータも奪われたのだろうか。
彼女は抵抗することなく、自分から車に乗る。
運転席のすぐ後ろだ。ミカウバーは彼女の手錠と運転席の後ろに構えている鉄格子をチェーンで巻きつけ、胡桃澤と同じように拘束される。ちょうど「前ならえ」のポーズで両手を前に突き出した格好で座ることになった。
胡桃澤は少し上の方で拘束されているので「万歳」のポーズ。田中は二人の間で、胎児のような「くの字」で横たわるという有様だ。
ワゴンのドアが閉まる。
「ちょっと、こっちに足を向けないでくれる?」
「ふざけないでもらいたいっすね……こっちは後ろ側で手錠かけられてるんすから、起き上がるのもままならないんすけど」
そう言いながらも起き上がる努力はしているようだった。
やがて、前のめりになったような姿勢で落ち着く。
その様子を猫柳は、眉をひそめるようにして見ていた。
「あー、もう。今日は厄日だわ。誘拐犯に誘拐されたのを、誘拐犯ごとまた誘拐されるなんて聞いたことある? それも、あんたみたいな間抜けな誘拐犯に」
「聞き捨てならないっすね。先輩、こいつに何か言ってくださいよ」
「お前ら少しは大人しくしろって。俺たちは今、囚われの身だぞ」
「そうそう。大人しくしてな」
三人の会話に割って入ったのは、助手席に乗ったミカウバーだった。
相変わらずフルフェイスの目だし帽を脱ぐ様子はなさそうだ。目だけが順番に三人を見ている。運転席にはマルコムが乗り込み、車を後退させていた。前方にはミカウバーが乗っていたセダンと田中のハイエースが道を塞いでいたからだろう。
この二台は乗り捨てるようだった。
「俺たちをどうする気だ?」
威圧的な口調で胡桃澤が言った。
マルコムは答えない。
代わりにミカウバーが愉快そうに答える。
「我々は、そこにいる猫柳三琴に用があるんだ。お前たちは黙ってついてくればいい。猫柳とお前たちの関係もよくわからんしな」
さきほど猫柳が言っていた話は聞いていなかったようだ。
まさか誘拐犯ですと言える訳がない。
ミカウバーはそれっきり、後ろを向こうとはしなかった。
猫柳がぽつりと言う。
「研究所の連中かな……」
「研究所?」
胡桃澤が彼女を訝しげに見て、田中と目を見合わせる。
田中は肩を竦め、わけがわからないというようなジェスチャを返した。
二人のそんなやり取りを見て、猫柳が溜息をついた。
「そういえばデータはどうしたんすか? まだ持ってるんすか?」
「いいえ。奴らに取られたわ。助手席の……ミカウバーって奴に」
「そうか……やっぱり奴らはマフィアなんじゃないか? たぶん日本での麻薬流通に関する情報が欲しいんだろう」
胡桃澤の見解に、猫柳が「ねえ」と怪訝な顔をする。
「やっぱり、あんたたちは何か勘違いをしてるんじゃない? このデータが何なのか本当にわかってんの?」
「薬の取引データ。だからエリック・クラプトンの『コカイン』が収録されているCDにデータを偽装させてんだろう?」
確認するように胡桃澤が言った。
「違うわよ。ひねりがもう一つ足りてない」と、深い溜息をつく。
「どういうことだ?」
「コカインって名前を命名したのはドイツの学者アルバート・ニーマン。彼はマスタードガスの発見者でもある。このデータは化学兵器であるマスタードガスの機密情報よ」