04
九月十四日。
田中が胡桃澤のところへ強盗の話を持ち込んでから、一週間が経とうとしているときだった。田中はできる限り情報を集めるという約束をしてから、胡桃澤には一度も連絡をしてくることはなかった。
胡桃澤は、たまに一緒に仕事をしている阿野のトラックに乗っていた。
彼は大工で、現場で何度か顔を合わせているうちに仲良くなり、たまには飲みに行くような仲になっていた。
今日も久しぶりに飲みに行こうという話になり、とりあえず荷物を下すために胡桃澤の家へ向かっていたところだ。
「いやー。しかし胡桃澤ちゃん、今回は助かったよ」
「何がですか?」
「今回の仕事を紹介してくれたことだよ。最近なんだか不景気だろ。消費税は上がるし、介護保険を払う年になるし、テロは起こるし、嫁は怒るし」
「なんで奥さんが怒るんですか」
「だから最近仕事が少なくなってきてるからさ。嫁もカリカリしてんのよ。娘も来年から保育園に入れようと思ってるんだけど、そこがけっこう高くてなぁ。市営とかの保育園だったら親の収入によって保育料が安いところもあるし、そこにしろって言ったんだけど教育方針がいまいちだとかなんとか」
「市営でもちゃんと教育はしてくれるんでしょう?」
「そりゃそうだが、嫁は英才教育を受けさせたいらしい。民営で三歳から英語とかやらせる保育園があるから、そこに行かせたいとさ。どうかしてる」
信号が赤になり、トラックは停車した。
気の荒い馬のようなエンジン音だけが車内に響く。
阿野は窓を開けると、煙草に火をつけて深い溜息と一緒に煙を吐き出した。窓の向こう側に見える下校途中の小学生を見ていた。
「子供の成長は早いですからね。奥さんも後悔しないよう、今のうちにいろいろと勉強させておきたいと思っているのでしょう」
胡桃澤は独身なので、子供のいる環境がどのようなものか想像できなかった。とりあえずは当たり障りのない返答をした。
「まぁな。俺もそれ自体は悪い事だとは思ってねーよ。人間ってやつは子供のころから他人をランク付けしたりして、自分よりも強い奴と弱い奴を見極めてんだ。本能的にそうやってんだから残酷なもんだよな。いわゆる社会の縮図はこの頃からできてんだ。俺も娘が虐めっ子になったり、虐められたりなんてことがない環境が必要だと思ってる。でも、結局は親の甲斐性で子供の人生も変わっていくのかと思うと、なんだか切ないな」
切ない。
だが、それは事実だろう。
子供は親を選べない。
生まれてきたことを祝福しない親に対して、ときに子供は刃を向く。
自分の存在意義を問うために。
信号が青になると、煙草をくわえながら阿野はギアを操作し、アクセルを踏む。
小学生たちは見えなくなる。
胡桃澤が黙っていると「そういえば」と阿野がつぶやいた。
「今日の現場、けっこう駄賃がいいよな。お前どっからこんな仕事を聞きつけてきたんだ?」
「行きつけにしている飲み屋のマスターからの紹介です。急ぎの仕事ってことなんで、あと一週間くらいで仕上げれば、追加で報酬も出すって言ってるらしいです」
「マジか?」
「ええ。早く仕上げれば入園費用の足しになるんじゃないですか?」
「おおー、だよなぁ。さすがお前、顔が広いよな。ようし、今日は俺が奢ってやるよ」
少しは機嫌が治ったのか、阿野は笑顔を見せた。
国道を折れて、しばらくすると何軒か民家があり、その中に胡桃澤の家もあった。ちょっとした集落にはなっているが、周りはほとんどが田畑で埋め尽くされている。
胡桃澤宅の軒先が見えると、そこに派手な格好をした男が見えた。
阿野はハンドルを握ったまま、乗り出すようにして言う。
「おい……お前の家の前にヤクザがいるぞ」
田中の事だ。
胡桃澤が不在にしているので、困ったような顔で建屋を眺めているようだ。
「いや、ただのチンピラですよ」
「お前……ホント顔が広いよな……」
「阿野さん、すみませんが飲みはまたでもいいですか?」
「ああ、そりゃいいけどよ……お前は大丈夫なのか? あいつに金でも借りてるのか? ああいう奴に頭を下げると、ろくなことないぞ!」
「いえ、どちらかと言えば頭を下げられましたね」
阿野は変な顔をした。
胡桃澤が助手席から降りると、田中が「先輩!」と人懐っこい笑顔を見せる。阿野は二人のやり取りを訝しげに見ながら、荷台に積んでいた荷物を下すと胡桃澤に手渡した。
茶髪にピアス、和柄の虎が刺繍されたシャツに、ジーンズは桜の刺繍という姿の青年を前に彼は軽く会釈をする。
田中も会釈をするが、その顔は無表情だった。
どこか敵視しているような眼だ。
「じゃあな、胡桃澤……くん」
「ええ、じゃあまた」
足早に車に乗り込むと、あっという間に阿野のトラックは見えなくなった。
胡桃澤は手渡されたディバッグと丸鋸、インパクトドライバーを持ち上げると、田中に言った。
「お前さ、ホント柄が悪いよな」
田中はきょとんとした顔で自分のシャツを見る。
「シャツじゃなくて、態度の話だ」
「態度?」
「初対面の相手にどんだけ警戒してんだ」
「あいつ誰なんすか?」
「仕事仲間だよ。大工の」
「先輩、大工仕事もやるんですね。すげぇ」
「大工って言ってもただの補佐だよ。ただ木を削ったり石膏ボード打ち付けたりするくらいの簡単な作業だ」
「へぇ、アルバイトじゃなくて、本格的に大工になった方がいいんじゃないすか?」
そう言いながら、田中は荷物を持つのを手伝う。
玄関前からすぐ右へ曲がれば庭に出られる。どのみち機材のメンテをしないといけないのだが、とりあえずそのまま置いておくことにした。
「それで、何か進展があったのか?」
「もちろんっすよ。いろいろ情報収集したんで、聞いてもらえますか?」
今すぐにでも話したいという田中の落ち着きの無さから、とりあえず家の中に入ることにした。もう九月の半ばだというのに、家の中に入ってもまだ蒸し暑い。隙間だらけの家屋だというのに、風通しが悪いものだと胡桃澤は悪態をついた。
縁側のガラス戸を開けると、幾分かは涼しくなる。
胡桃澤は冷蔵庫から買い置きしていたコーラを取り出すと、グラスを二つ手に座卓まで持ってきた。例のごとく、田中は自分よりも先に胡桃澤のグラスにコーラを注いだ。
「お勤め、ご苦労様でした」
「いや、俺、出所してきたわけじゃないから」
一杯目のコーラを飲み干し、胡桃澤が煙草に火をつけていると、田中はワニ柄のセカンドバッグから資料を取り出す。たしかに怖いお兄さんの持ち物らしい雰囲気はする。そのバッグを胡桃澤が見える位置に置いているところから、もしかすると新しく買ったバッグについて話題を促しているように思えた。
そういえば、今まで彼がセカンドバッグを持っているところを見たことがない。
「いいバッグだな。買ったのか?」
やはり聞いてほしかったらしい。田中の顔を見るとにやけている。
まるで子供だ。
「どうすか? 俺、こういうの初めて買ったんすけど、なかなかいいでしょ? クロコダイル。なんか高級っぽいし」
「たぶんだけど……これはクロコダイルじゃないな。たぶんアリゲーターだ」
おそらく漫画ならば、彼の頭の上にはクエスチョン・マークが浮いている顔だ。
両者の違いがわからなかったらしい。
「ワニじゃないんすか?」
「いや、同じワニ科だ。ちょっと柄が違う程度だ」
値段を聞こうとしてやめた。
胡桃澤がそう言い留まったのは、どう見ても合成繊維で出来た品に見えたからだ。合成繊維ならクロコダイルだろうとアリゲーターだろうと価値は変わらない。だが、もうひとつ気になったのは、一瞬バッグの奥に見えたものだった。
見間違えでなければ拳銃だ。
田中はバッグから出した書類をまとめているため、胡桃澤に見られたことに気付いていないようだ。
「じゃあ先輩。これを見てください」
とりあえずは田中の話を聞くことにした。
これから強盗しようと考えているのだから、彼にとってそれくらいの準備があっても良いと考えたのかもしれない。しかし危険には変わりない。
彼から渡された資料を見る。
A4サイズにパソコンで印字された三枚の紙。
「まず、奪った奴は『猫柳みこと』って女です」
「ふうん……猫柳みこと」
「なんか落語家みたいな名前っすね」
「まあ、可愛らしい名前ではあるな」
「写真もありますよ」
そう言って田中は写真を見せながら「化粧っ気ないけど美人っすね」と感想を述べた。
「この子の身元は?」
「詳しい個人情報は取れなかったんすけど、病院のカルテから生年月日とか住所、電話番号とかはわかったんすよね。でも先輩、この子って年じゃないですよ。今年で三十五なんですから」
「それより病院のカルテって……お前が盗み出したのか?」
資料は確かにカルテらしいコピーだった。
猫柳本人が最近、風邪で診察を受けたときのものだった。
「俺が盗むわけにはいかないんで、看護婦にやらせました」
「どうやって?」
「その看護婦、真奈美っていうんですけど、病院に勤めながらキャバクラで働いてたんすよ。だから病院にばらされたくなかったら猫柳のカルテを探せって脅したんです。ここら辺に大きい病院といえば私立病院くらいだし、たとえ犯罪者だって人間ですから病院くらいは行きますからね」
「お前、悪い奴だな」
「強盗犯より凶悪ではないと思うんすけど」
胡桃澤は口をへの字に曲げながら、資料に目を落とす。
もう噂だと言っても通用しないようだ。
「でも、住所とかがわかってるんだったら。この女の家に直接言って脅した方が早くないか? 見たところアパートみたいだし」
「それが俺も行ってみたんすけど、その住所はでたらめでした」
「ほう」
「つまり……この猫柳って女も睨んだ通り、まもな人間じゃないんすよ」
「じゃあ、電話はどうだ? 携帯電話の番号だ」
「電話は本体に登録されている番号以外、着信拒否されてるようです」
「それも確認したのか?」
「もちろん。事務所と公衆電話と自分の携帯、他にも置き引きした携帯でも二回試しましたけどそれでも駄目でした」
「……どうでもいいけど、置き引きした携帯は持ち主に返したのか?」
「あ、言い方が悪かったっすね。ちょっと借りただけです」
借りたと言っても厳密にいえば一度盗んだことに変わりない。
怖いもの知らずだな、と胡桃澤が思っていると、田中が「ちょっと便所借りていいっすか」と立ち上がった。
床の軋みで彼の位置がわかる。
そしてトイレのドアが閉まる音がした。
胡桃澤は静かに田中のセカンドバッグに手をかける。奥に手を伸ばし、冷たい金属に触れるとそれを取り出した。
それは間違いなく本物の拳銃だ。
昔から日本に密輸されているトカレフかと思ったが少し形状が違う。見るのは初めてだがグリップの星マークからしてマカロフと呼ばれる銃だろう。それも中国製の粗悪品ではなくロシアから密輸されたものに違いない。中国がコピーしたマカロフは五九式拳銃と呼ばれ、グリップの星マークが盾形の中に入っていると聞いたことがある。
もちろんこの情報は昔、「リチャーズ」のジョージから興味本位で聞いたことのある知識だった。
トイレの水が流れる音を聞き、胡桃澤は素早く拳銃を元に戻す。
胡桃澤が心配していたのは拳銃の安全性だった。
中国製の拳銃は粗悪品が多く、中には中古品を新品に見せるために銀メッキに塗装した「銀ダラ」と呼ばれる物も流通しており、これらは暴発する危険があるのだ。安物のセカンドバッグを持っているところからして、田中が粗悪品を掴ませられたのではないかと思ったのだ。
脅しのつもりで撃って暴発したらたまったものではない。
そんな胡桃澤の心配を他所に、田中はさきほどと同じところに座りこみ、コーラを一口飲んだ。
「すんません、話の途中で」
「それはいいけど、住所も電話もわからないんじゃどうしようもないだろ。今度は電話会社の女に調べさせるのか?」
「いえ、そういう交友関係はないっす」
「顔写真だけじゃどうしようもないだろ」
猫柳みことなる人物の写真は、証明写真のようだ。
艶やかな黒髪が肩まで伸び、目は一重。顔の輪郭は綺麗だが化粧っ気がないからか、どこか華がない印象の女だった。
田中はまたセカンドバッグから一枚の写真を取り出すと、胡桃澤の前に出す。
今度は男の写真だった。
「直接その女に接触するのは難しいすけど、ちょっと耳よりの情報がありまして。これも真奈美にやらせたんすけど、病院から猫柳に電話させたんすよ。で、診察料を多く受け取りすぎたとか嘘言って病院に来させたんです。俺はそこで猫柳を捕まえようと思ったんすけど、入れ違いになったみたいで……そのかわり、真奈美が対応しているときに猫柳が偶然この男に会って話をしてたらしいんすよ」
「それで誰なんだ、これは?」
「斉京銀行の行員で、仙石創って奴です」
写真は望遠カメラで撮ったようなピントだった。
胡桃澤よりも少し年上であろうその男は、体格が良く、細いフレームをした眼鏡の奥には自信に満ちたような鋭い目。少し無精髭があるものの身なりはきちんとしており、責任のある立場にいるような風格がある。
田中は続けた。
「真奈美の話によれば、そのとき貸金庫の話をしていたっていうんで、おそらくこの仙石って男が貸金庫を管理しているみたいなんすよね。しかも、こいつ真奈美が働いているキャバクラにも出入りしたことがあって、連絡先も交換してたからちょっとこれを利用してみようかと思いまして」
「利用って、仙石ってやつに直接連絡して教えてもらうのか?」
「まさかぁ。そこは俺にも色々考えがあるんすけどね」
田中は自分の計画に陶酔しているのか、勿体つけてなかなか胡桃澤に詳細を話そうとはしない。痺れを切らした胡桃澤は、御託は聞き飽きたとばかりに「で、具体的にはどうするんだ?」と溜息交じりに言った。
さすがに調子に乗り過ぎたと思ったのか、田中も咳払いをする。
「今夜、真奈美の店に仙石が来るように誘わせたんすよ」
「ふうん、それで?」
「それで仙石に酒を飲ましつつ、真奈美が色気を使って話を聞きだす」
「……そんなうまくいくか?」
「大丈夫っす。先輩もこれから一緒に行ってくれませんか?」
「え? 俺も?」
「そうっすよ。まぁ、だいたいの計画は俺に任せてもらえればいいんですけど、キャバクラですからね。一人で行くと逆に目立つっていうか」
「お前、もしかして俺に奢らせようとしてない?」
田中が口元を緩めて返答をした。