02
約四ヵ月前、五月。
通称「親不孝通り」と呼ばれる歓楽街。
本当の名前は「親富孝」というらしいが、飲み屋やキャバクラという店が軒を連ねている通りなので「親不孝」と、いつの間にかそう表現されていた。
ある男が言った。
名は体を表すというが、本来の名前は忘れられ、体になぞられた名前で人に覚えられるというのもまた一興でしょうね。
人間の本質は変わらない。
そんなことをつぶやいていたのは、小さなバーでマスターをしているジョージという男だった。彫りの深い外国人のような顔立ちをした男だったので、田中は初めて会ったときに「どこの国の人すか?」と聞いたことがあった。
「ジョニー・デップに似てるっすよねぇ。他の人からもジョージって呼ばれてるし」
カウンターに座って、一人でウイスキーを飲んでいるときそう言った。
ジョージは、ドレッド・ヘアで口の周りには整えられた髭がある、印象の濃い人物だった。黒縁の眼鏡と外せばパイレーツ・オブ・カリビアンに出演していたジャック・スパロウ船長にそっくりだろう。
彼は、カウンターの中で飲物を作りながら「本名が神楽丈次っていうから、下の名前でジョージって呼ばれてるんですよ」と、ぶっきらぼうに答えたのを覚えている。
店の名は「リチャーズ」という。
名前の由来は、ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが好きだからという。実際に壁にはサイン入りのポスターが額縁に飾ってあり、何本かのエレキギターもオブジェとして鎮座している。
かかっている曲も、ストーンズの曲が多いようだ。
田中はあまり音楽を聞く習慣を持っていなかったので、洋楽に限らず音楽全般に疎い。
店内の壁は無垢材を黒く塗装され、天井だけが白くなっているからか、それほど暗いという印象はない。長細い店内は小型バスくらいの広さだろうか。入り口から見て左側に赤みの強い一枚板のカウンターがあり、奥側には二つだけボックス席がある。カウンターといっても狭いもので五人も座ればいっぱいになるくらいだ。
だが、店内が客で満員になったところは見たことがない。
ほとんどの客が、酒を一杯だけ注文して帰る。
ここはいわゆる情報屋のようなバーだった。
それ故に、田中のような一癖あるような者が訪れることも多い。
この日、田中は飲むつもりはなかった。
しかし梅雨特有の憂鬱な土砂降りに見舞われ、雨宿りを理由に立ち寄ったのだった。
客は田中しかいなかった。
いつもの如く、とくに珍しくもない。
雨が止むまでと思ったが、表はそんな気配を見せなかった。
寡黙なマスターと、ほどよいテンポの曲。
テレビはついているが、音量は小さく聞こえないので、テロップでしか内容が分からない。四月に起きた爆弾テロの続報をやっていた。
退屈に思っていたとき、店のドアが開く音がした。
ジョージは無言のまま顎で挨拶をする。
どうやら親しい客のようだ。
客は田中の後ろを通り、ひとつ席を空け、腰を下ろした。
田中は彼に目をやる。
ジョージと同じくらいの三十代半ばの男。
白のシャツに黒のジャケット、黒のジーンズ、シンプルな服装だが、なぜか靴だけは青色のスニーカーだった。彼は田中の視線に気づくと、少し笑みをうかべて会釈をしてくる。
田中も同じように会釈をするが、すぐに自分のグラスに目を落とした。
もともとあまり社交的な性格ではない。
ただ、少し酒が入ると気持ちが大きくなるので、以前はマスターに散々からんだことがある。だが素面ではなかなかそうはいかない。会釈をしてきたということは、もしかしたら話しかけられるかもしれない。そう思った彼は、二杯目のウイスキーを注文した。
「何を飲んでるの?」
話しかけてきた。
初対面にもかかわらず馴れ馴れしい口調は、こちらを年下だと思っているからだろう。だが不快になるような言い方ではなかった。
田中は聞こえなかったふりをしようかと思ったが、目が合ってしまった。
酔いはまだ足らなかったが、なんとか作り笑いをする。
「ジャック・ダニエルっす。バーボン好きなんで」
彼は、ふうんとうなずき「若いのに渋いウイスキーをチョイスするね」と言った。
ジョージが田中の前に、二杯目のグラスを置く。
すると彼は「胡桃澤さんは何にします?」と隣の男に聞いた。
「じゃあ、彼と同じのを」
そう言って胡桃澤は愉快そうに笑った。
胡桃澤という名前に聞き覚えがあった。
田中は頭の中で、彼の名前を巡らせる。
新聞や週刊誌で見た名前ではない。
そう、どこかの情報で耳にした事がある名前だ。
ということは彼も、ある意味まともな人種ではないのかもしれない。どことなく余裕に満ちた表情。度胸も据わっているのがわかる。だが、ヤクザには見えない。どこか洗練されたような、そんな感じがした。
興味が湧いた田中は話しかけることにした。
「ここにはよく来るんすか?」
「ああ、たまにね。俺もストーンズが好きだから」
胡桃澤はスピーカーを指して言う。
だが田中には何の曲かわからない。
「仕事は……何してるんすか? 公務員じゃなさそうすね」
彼は笑いながら「そういう風に見えるんだ?」と言う。
田中は慌てて繕うように「いやいや、そういう意味じゃ……」と濁した。
彼は気を悪くしたようではなかった。
むしろ愉快そうである。
「まぁ、そうだね。公務員ではない。ただのフリーターってとこかな。定職を持たない。どこにも属さない。自由人だ。君も似たようなもんだろ」
そう言われて、田中は自分の服装を見た。
今日着ているのは、風神雷神が背中にプリントされたシャツに、不死鳥が刺繍されたデニム。そういう方面の人間だという事は誰にでもわかるスタイルだ。
「そうすね……でも一応、岸部興産傘下にある会社の社員ですけど」
「岸部興産。大手だ。確か生コンクリートとかセメント扱ってる会社だよな。他にも関連会社で不動産とかも扱っているようだし。社員てことはそれなりに固定で給料をもらっているわけだ。ちゃんとした社会人だな」
岸部興産の名前を聞けば、上から目線の口調も変化すると思った田中だったが、胡桃澤の淡々とした口調は変わらなかった。その様子に田中の方が動揺した。岸部興産はれっきとした株式会社ではあるが、地元では有名な、いわゆるヤクザだった。この界隈では岸部興産と口にすれば誰もが目を合わせようとはしない。
いつもならそうなのだが、胡桃澤の反応は実に薄かった。
もしかすると、もっと大きな組の人間かもしれない。
だが、そうだとすると、わざわざ自分の事をフリーターだの自由人などと形容するだろうか。フリーターという表現は、フリーランスという揶揄なのだろうか。彼の雰囲気を見て、もしかするとフリーランスの殺し屋なのかもしれないと田中は想像する。
まずい人間に関わったかもしれないと本能的に感じた。
今にも懐から拳銃が出てきそうだ。
田中がそう思っているとき、胡桃澤が懐に手を入れるのが横目に入った。
咄嗟に腰を浮かす。
「もう帰るの?」
胡桃澤が言った言葉に、田中の尻が三センチ浮いたところで止まった。
ゆっくりと彼を見ると、手には煙草とオイルライターがあった。
「いや……ちょっとトイレに」
田中はそう言って胡桃澤の後ろを通り過ぎると、店の奥にあるトイレに向かった。中に入り、ドアを閉めると便座を持ち上げる前に溜息が落ちた。何故こんなに怯えているのか自分でもわからなかった。
彼の雰囲気がそうさせているだけなのだ。
たぶんフリーターというのも本当なのだろう。
自分でそう収集をつけるつもりだったが、田中には胡桃澤という名前が気になった。喉の奥に刺さった魚の骨のように。
とくに出すものもなく、気持ちを切り替えるようにしてトイレの水を流す。
トイレから出てカウンターを見ると、胡桃澤とジョージは何やら小声で話をしていた。聞いてよい話かどうかはわからないが、トイレの出入口は少し奥まっており、カウンターからは死角となっているので少し立ち止まってしまった。ドアをゆっくりと閉める。
「……で、さくらの奴、俺を疑っているらしい。馬鹿げてる」
「なるほどね……で、何て言い返したんですか?」
「〝お前は俺の嫁か〟って言ってやった。ねちねちと人の事嗅ぎまわりやがって」
聞く限り、どうやら恋人の話らしい。
田中は胸をなで下ろす。
次に殺す奴はどいつだ? などという会話でなくて安心したのだった。
そして今出てきましたとばかりに自然を装って彼の背後を通り過ぎ、自分のグラスが置いてある席に戻る。
「……命は助かったわけだ」
胡桃澤の背後を通った時、彼がそう言うのが聞こえ、背筋が凍る。
やはり殺し屋か?
そう思った田中は、ゆっくりと席に座り彼らの様子を探ってみると、どうやらテレビでやっている爆弾テロ事件の被害者についての話に切り替わっていたようだ。
田中が横目で彼を見ていると、二人はどちらかともなく会話を止め、ジョージはグラスを拭き始め、胡桃澤はこちらを見る。
「兄さん、名前はなんていうの?」
おもむろに彼はそう聞いた。
「あ……俺っすか?」
「うん」
「田中……です。田中四朗っていいます」
なんとなく敬語になってしまった。
彼の問いにはそう答えなくてはいけないような気がしたのだ。
「どういう字をかくの?」
「漢数字の四に、朗らかで四朗です」
「へえ、四男坊?」
「あ、はい。兄貴が三人います」
胡桃澤は何度も頷くと「田中四朗くんか」と楽しそうに言った。
日本人としては単純な名前なので、少し笑われているような気がした。不愛想なジョージも胡桃澤の前でグラスを拭きながら、口元がかすかに緩んだ気がした。おそらく彼は、甘やかされて育てられた四男坊が、世間の厳しさを受け入れられずグレてヤクザに成り下がったと想像しているのだろう。
少し馬鹿にされたような気がしたので、今度はこちらから質問してやろうと思い、田中は胡桃澤の方へ向きなおる。
「胡桃澤さん……でしたっけ? 出身はどこなんすか? 地元すか?」
「俺はM市の出身だよ。高校は大峯」
「えっ? 大峯なんすか?」
「そうだけど」
「俺も大峯高出身っすよ」
「えっ」
胡桃澤は驚いたようで、半開きになった口からは煙草の煙が漏れていた。
同じ高校出身というだけで、なんだか偶然旧友に出会った気分になった田中は、別の意味で胡桃澤に興味が湧いた。少し酔いが回ってきたからかもしれない。
「あー、そうなんすかぁ。胡桃澤さん年はいくつですか?」
「今年で三十四だよ」
「俺は二十八なんで六個先輩ですね」
「ああ、そうなんだ」
胡桃澤も二杯目のウイスキーをオーダーしていた。
彼も少し田中に興味を抱いているようすで、どこか口調も砕けたように聞こえた。
「そっかぁ、こんなとこで高校の先輩に会うなんて奇遇っすね。部活とかは何かやってたんですか? けっこう鍛えてそうだし」
「いや、何もやってないよ。高校のときは帰宅部だったな。あの頃にはすでに頑張って生きるということを放棄して生きてた気がする。両親がいなかったから、母方の祖父母の世話になってたのもあって小遣いもなかったし、バイトすることの方が多かったんじゃないかな。君は何かやってた?」
「俺は……まぁ、ちょっと……」
田中は恥ずかしそうにして言葉を濁す。
まるで入れ歯が外れかかった老人のように、口元を撫でたりする。
「胡桃澤さんは、詩とか好きすか?」
「詩? 詩集とかの詩?」
「そうです」
「いや、詩はあまり知らない。金子みすずの『大漁』くらいしか聞いたことないな。あとは中原中也くらいか。どんな詩かは覚えてないけど」
「俺……ポエム部だったすよ……」
恥ずかしがっていた理由が、ようやく胡桃澤にもわかったようだった。
理解はしていたが、笑いが漏れた。
実際に田中も顔を赤くしているが、それはウイスキーのせいではないはずだ。
田中は、カウンターの中にいるジョージを見る。声は出していないが、やはり彼も笑いをこらえているようだった。
無理もないだろう。
和柄の服装したチンピラが、高校時代はポエム部に所属とは自分でも少し笑える。
「もう、二人とも笑わないでくださいよ……」
そう言って、田中はグラスを空けると、ジョージに三杯目の要求する。
「悪い悪い。ちょっと想像できなかったもんだからさ。でも、なんでポエム部なの。君だったら柔道部とか剣道部の方が似合いそうなのに」
「これにはわけがあるんすよ」
ジョージが置いたグラスに話しかけるようにして、下を向いたまま田中は話し出した。
「俺、昔っからあんまり友達がいなくて、高校に入ってもけっこう虐められることが多かったんすよ。それでも反抗してたから殴り合いとかしょっちゅうだったし、周りに加勢してくれる奴もいねぇし、毎日ボロボロで……最後には逃げてばっかでした。そうやって逃げてたとき、ポエム部の部室に隠れたときがあって、暇だったから卒業生が書いた詩集を読んでたら、俺、感動したっていうか……勉強とか嫌いだったけど、詩だけはなんかこう、すーっと心に入ってくるものとか訴えかけてるものが感じられて、すげえ好きになったんすよ」
「それでポエム部に入ったわけ?」
「そうっすね。短い言葉でも誰かの印象に残るのってすげえなと思って」
思いのほか良い話だったからか、何かオチを期待していたのかはわからないが、胡桃澤は黙りこくって頷くだけだった。
「あ……すんません。つまんない話しをしちゃって」
「いや、そんなことないよ。俺も高校の頃のこといろいろ思い出してさ。そういえばポエム部ってあったよなぁって」
そう言いながらグラスの中身を飲み干すと、胡桃澤は「彼のと一緒で」とジョージに代金を払っていた。
どうやら帰るようだった。
「胡桃澤さん、そりゃ悪いっすよ」
「いいって。高校の後輩なんだからさ。俺もたまに来るから、また一緒に飲もう」
胡桃澤は田中の背中を軽く叩くと、そのまま振り向かずに出て行った。
またジョージと二人だけになっていた。
店内はストーンズのバラード曲だけが流れる。
ボブ・ディランの曲をカバーした『ライク・ア・ローリングストーン』
直訳すると『転がる石のように』
田中はカウンターの方へ前のめりになると、胡桃澤のグラスを片付けていたジョージに小声で言った。
「ジョージさん……胡桃澤さんってどんな人なんすか?」
二人しかいないので、とくに小声にする必要はないのだが、彼の素性はどこか謎に包まれているようで気になって仕方なかった。
ジョージは田中を一瞥すると「常連さんですよ」とだけ言った。
その反応を見て、田中は悟った。
財布から一万円札を出し、カウンターに置く。
ジョージは一瞬そちらに目をやったが、再びシンクに目を落とす。
田中はさらに二枚追加する。
蛇口から流れる水の音が止まる。
三枚になった紙幣を眺める。
しかし、またシンクに視線を落とした。
「わーかったよ! ジョージさんこれでどう?」
田中はさらに二枚追加した。もうこれ以上は財布に入っていない。
ジョージは濡れた手を拭きながら田中の前に移動すると、五枚の紙幣を胸のポケットに収める。そしてサービスなのか、彼のグラスにジャック・ダニエルを注ぎながら、押し殺した声で言った。
「彼はプロの強盗なんですよ」