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 暖冬というニュースを見たが、胡桃澤はコートとマフラーを引っ張り出した。

 茶色のコートは少し薄汚れていたが、何年もの冬を共に過ごしてきたのでその暖かさには信頼がおける。たしか仙石創にもらったものだ。

思い出せばこのマフラーも猫柳三琴にプレゼントと手渡されたものだった。赤いチェック柄は似合わないと言ったのだが、強引に首へ巻きつけられた記憶がある。

寒いのが嫌いな胡桃澤は、とにかく装備を万全にした。

 古いあばら屋では、世間で暖冬といわれても実感がない。

 外に出るのなら、尚更の覚悟が必要だった。

 ジョージからもらった、お気に入りの青いスニーカーが一足あるだけという、淋しい土間から出ると、外では不機嫌な顔をした雲模様が胡桃澤を迎える。

彼が泣かないことを祈って歩き出した。

 無理矢理にでも幸せなムードを醸し出したいのか、躍起になってクリスマス色を押し付ける商店街。

 疎ましいほどの飾りつけがしてあるツリー。

 行き交う人混みの中、手をつなぐ若い男女とすれ違う。

 ふと歩みを緩め、振り返ってしまった。

 別に嫉妬をしているわけではなかった。

 ただ、あんなにも仲良くお互いを愛し合っているように見えても、いつしか気持ちは離れ、崩れ落ちていくものなのだろうかと思ったのだ。

 脳裏に浮かぶのは、父親を愛し、子犬のようにまとわりついていた母親の笑顔。

 そして突然いなくなった父親の帰りを待つように、玄関先でずっと帰りを待ち続ける母親の後姿。

 父親の姿を見なくなったのは、胡桃澤が小学五年生の頃だっただろうか。この頃になると、自然と子供でも〝離婚〟という言葉をどこからともなく仕入れてくる。あるとき胡桃澤少年は母親に聞いた。

「お父さんとお母さんはリコンしたの?」

 オブラートに包むという言葉は、まだ仕入れていなかった。

 時間が止まったように表情の固まった母親は、突然ビデオを再生したように笑顔になり、こう言ったのだ。

「お父さんは仕事で実家の熊本にいるの。ほら。これ、お父さんが送ってくれたのよ」

 そう嬉しそうに見せたのは、赤いミニトマト。

 月に一度くらいのペースで、それは食卓に顔を出す。

 彼女は「珍しいでしょ? フルーツトマトっていう果物よ」と説明する。

 学校の授業で知っていた。

 名前はそうであれ、トマトは果物ではない。

 野菜の仲間だ。

 母親があえて果物と言ったのは、好き嫌いが多かった胡桃澤少年に食べさせようと画策してついた嘘なのか、それとも本当に果物と信じていたのかは知らないが、子供心なりに自分の母親は騙されやすい人間だと感じていた。

 純粋だったのだ。

 子供のような人だった。

 四朗という名は父親が付けた名前だったという。

 父親と母親の間には、胡桃澤少年だけしか子供がいなかったが、名前は四朗だった。

 名前の由来は、熊本出身の父親が天草四郎時貞にちなんだと聞いていたが、小学校の歴史の授業のときに漢字が違う事に気付く。胡桃澤四朗は〝朗〟だが、天草四郎は〝郎〟だった。

 やがて母親は心を病んでいった。

 彼女のいる病院へ見舞いに行こうと、母親の財布を手に買い物をしていたときだった。財布にたくさんのレシートが詰まっているのを見つける。そして、もうひとつ知ったのはレシートの品名にフルーツトマトという文字が記載されていた。

 父親が送ってくれていたというのは嘘だった。

 胡桃澤少年は黙っていることにした。

そして小学校卒業間近だった。

いつものように病室を開けると、冷たくなった母の顔が自分を見下ろしていた。

 それから母方の祖父母に引き取られるまで、少年だった胡桃澤はかつて母親がそうしていたように、いつ帰ってくるともわからない父親を玄関先で待ち続けていた。

 その小さな手に、包丁を持って……。

 息が白い。

 胡桃澤は立ち止まり、目頭を押さえる。

 頭の中に霧がかかっているように、何も考えられない。

 行き交う人の足音が遠ざかる気がした。

 歩みを進めた。

 浜田雄介の逮捕から、二ヶ月くらい経っただろうか。

 胡桃澤の生活は普段どおりに戻っていた。

 頼みもしないのに、佐倉は定期的に胡桃澤の家まで押しかけてくると、浜田雄介に関する事件の進捗を独り言のように勝手に喋り、自分で買ってきた缶ビールの大半を飲み終えると、挨拶もせずにさっさと帰るというルーチンワークを何度か繰り返していた。

「仮にも刑事が、捜査情報をべらべら喋っていいのか」

 胡桃澤が一度だけそう言ったことがある。

 彼は缶ビール越しに「俺は酒を飲むと記憶が混濁するんだ」と、わけのわからない言い訳をした。

 浜田は素直に罪を認めていた。

 さらには彼が集めていた岸部興産の情報により、下部組織の犯罪や、武器、ドラッグのネットワークなどの摘発が次々と新聞やニュースで騒がれることとなり、警察の捜査に協力的だったという。

 直接的にではないにしろ、社会的には連中を抹殺したようなものだ。

 平和的な方法で彼の復讐は成功したといえる。

 今日は佐倉の計らいで、胡桃澤は浜田がいる拘置所へ接見できるようになっていた。

 少し気が引ける思いもあったが、会いに行ってみようと思った。

 待合室で手渡された面会受付票に、面会相手の名前を書き、続いて用件と面会者、続柄の欄を確認しながら書く。

 手続きを済ませると、奥の部屋まで案内された。

「こちらでお待ちください」

 そう言われて通されたのは、刑事ドラマなどで見るのと同じ部屋だった。

 小さな部屋はアクリル製の間仕切りで分断され、住む者の違いを明らかにされているように見えた。アクリル板の真ん中には円を描くように小さな穴が空いている。

 その正面にあった椅子に腰掛けた。

 パイプ椅子の軋む音が、冷たいコンクリートの壁に響いた。

 コートもマフラーも外さないで、そのまま座る。

 そんなに長い時間滞在することにはならないだろう。

 ポケットに手を突っ込んだまま、じっと待った。

 アクリル板の向こうで扉が開く。

 伏目がちに、浜田雄介が現れた。

 少し痩せた気がする。

 茶髪にも少し黒と白が混ざっているのがわかった。

 きれいに髭を剃られた彼の顔を見るのは初めてだった。

 それに気付いたのか、彼は胡桃澤の前に座りながら、右手で顎のあたりを撫で回していた。手錠につながれていると思ったのだが、特に他にも拘束はなく、服装も白のポロシャツに黒のジーンズとラフだった。

「お久しぶりです。先輩」

 浜田は少し微笑んだ。

 つられて胡桃澤も笑みを返す。

 卒業した高校が同じなのだから、先輩と呼ばれても特に間違ってはいないのだが、なんとなく気恥ずかしいものがあった。

「ああ……元気か?」

「元気っすよ」

 途端に会話が途切れる。

 佐倉に言われるまま来ただけで、何も考えていなかった。

 調子はどうかと聞くのもおかしいだろう。

 拘置所の中が快適だという話は聞いた事がない。

 思い出話といっても、彼と知り合ってからわずか半年足らずの短いものだ。

 それも嘘で固めた半年間だった。

 胡桃澤は視線を落した。

「恨んでるか? 俺たちのこと」

「いえ、そんなことはないっすよ。俺は先輩に救われたと思ってます。だって、もし先輩と出会ってなくて、また爆弾を使って岸部興産を吹っ飛ばしてたりしたら、俺の自己満足だけで奴らに罪を償わせることもできなかったんすからね。これでよかったと思ってますよ。ホントです」

「そうか」

 彼の口調から、お世辞は感じなかった。

 胡桃澤は顔を上げると、どこか吹っ切れたような彼の顔があった。

 犯罪の容疑があったとはいえ、彼を騙し、嘘をついて行動をし、彼をまんまと罠にはめたのだ。許しを請うつもりはないのだが、それでもここに来たのは彼なりの贖罪なのかもしれない。

 だが今は、内心ほっとしている自分がいた。

 浜田は突然思い出したかのように口を開く。

「あの、ひとつ先輩に聞きたい事があったんです。それで佐倉警部補にお願いして先輩をここに来てもらえるよう説得してもらったんです」

「そういうことか。あいつが接見の手回しなんて、らしくないと思っていたんだ。だが佐倉は説得どころか頭も下げなかったぞ。どちらかと言えば命令口調だったな」

「まあ、あの人プライド高そうっすからねぇ」

 浜田も同調する。

「で、聞きたい事って?」

「はい。別に今回の件とは何も関係がないことなんですけど、どうしても先輩たち四人の関係が気になってて……仲が良いとか、そういうのじゃないくて、もっと深いところでつながっているような……」

 浜田はそこまで言って言葉を切り、後ろに座っている警官の方をちらりと見た。

 意図的に、胡桃澤がわかるようにそうした気がした。

 そして続ける。

「もしかして、十年前の現金輸送車襲撃事件の首謀者って四人なのかなって」

 彼の行動がようやく理解できた。

 佐倉が何故、胡桃澤に浜田を会わせようとしたかも。

 彼は爆弾テロの件も、岸部興産の件にしても警察には協力的だった。それを良いことに浜田を使って十年前の事件の容疑者も捕まえてやろうという魂胆なのだろう。

 浜田の口元はわずかに笑っていた。

 胡桃澤は溜息をつくと、小声で話し出した。

「これは俺が聞いた噂の話だ」

「ええ、その噂話を聞かせてください」

「当時、容疑者として挙がっていたのは胡桃澤四朗という男だった。彼はDTセキュリティという警備会社が管理する現金輸送車を襲い、五千万という大金を盗んだと言われている。そのとき手引きをしたという理由で、一緒に容疑者として浮上した三人がいた。銀行員として働いていた仙石創、バーテンダーの神楽丈二、病院勤務の看護師だった猫柳三琴の三人だ」

「でも、証拠はなかったんでしょう?」

「そう。だから四人ともすぐに釈放された。現場では催眠ガスと発煙筒のせいで、搭乗員は誰も犯人の姿も見ておらず、車載金庫のロックも傷ひとつなく解錠されていて、手がかりは何一つなかった。だが警察はこのことから、どうやって車載金庫の解錠パスコードを入手したのかというところに疑問を抱き、当時DTセキュリティに出入りしていたという清掃員・胡桃澤四朗が不正に盗んだのではないかと考えていたんだ」

「そこまで目星がついていたのに、それでも決定打になる証拠はなかったんですね」

「取調官がヘボだったのもあるがな」

 ドアの向こう側から、くしゃみが聞こえた。

 どうやら悪口が聞こえたらしい。

 それが誰なのかは見当がつく。

 「それで年月が経って時効で捜査が打ち切られたって話ですね。でも、その後DTセキュリティの方からも継続操作の要望とかはなくて、とちらかといえば警察には非協力的だったということを聞きましたけど、これにも何かカラクリがあるんすか?」

「まあ、そうだな。犯人を逮捕できなかった最大の理由は、DTセキュリティが警察に対して非協力的だったことが大きい。いや、DTセキュリティが、というよりはその会社の代表取締役社長が協力する事を拒んだからだ」

「社長がですか? なんでですか?」

「そりゃ、自分に後ろめたいことがあったからだろう」

「何者なんすか? その社長って」

 胡桃澤の口元が笑っていた。

 ポケットから手を出すと、アクリル板に頭を寄せるようにして乗り出す。

 浜田も同じようにして、顔を近づけた。

 そして声を殺すようにして彼は言った。

「社長の名前は田中大門。俺の父親だ」

 アクリル板越しに胡桃澤の目をまじまじと見ながら、しばらく彼は口が開いたままになっていた。

 ようやく声が出せるようになったのか、彼も小さな声で「父親?」と確認する。

「そうだ。DTセキュリティのDTは田中大門のイニシャルから取ってる。つまり彼は創設者でもあるんだ。当時はセキュリティを専門にする企業も今ほどはなかったから、次々と支社を増やして一大企業にのし上がった。まあ十年前の事件以降、信用を失ってかなり業績は落ちているがなんとか生き延びているようだな。だが、当時社長だった田中大門は責任を追及され、役員会からも締め出されて会社を追われたらしい。あのときが六十歳くらいだったから今頃は生きているか死んでいるか……盗まれた五千万円も賠償したって話だから、金も無くひもじい余生を送っただろうよ。会社自体はセキュリティシステムの販売に方向転換して少しは経営も安定しているようだがな。そういや仙石が勤めている銀行も警備会社はDTセキュリティを使っていたな」

 そう言われて、あの日の事を思い出す。

 胡桃澤には、銀行内の監視カメラをハッキングして不正操作するという芸当を見せ付けられた。

「そういえば、あのとき先輩は本当に銀行内のカメラをハッキングして操作していたんですか?」

「ああ、操作はしていたが、ハッキングはしていない。お前に信用してもらうために、それらしい説明はしたが、実のところは予め仙石からアクセスキーを教えてもらっていて、監視カメラを動かしたりするだけだったら普通にできたんだ。まあ田中大門が辞任してからも社長のアカウントは残ったままだったから、無理矢理アクセスする事も可能だったがな。しかし辞めた人間のアカウントを残しておくなんて、セキュリティ会社としては失格だよな」

「あ、そうだ。で、田中大門が先輩の父親ってマジなんですか?」

「それは正真正銘、血を分けた親子だ。忌々しい血だが仕方ない。子は親を選べないからな。まあ、ここで話を締めくくると、四人とも田中大門には恨みがあったから、奴を追い詰めようと画策したってわけだ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 浜田は両手を広げると、ストップのジェスチャーをする。

 そしてそのまま少しの間、考えをまとめているようだった。

「えっと……恨みってなんなんですか? 四人とも?」

 彼の問いに、胡桃澤は再びパイプ椅子にもたれかかる。

 浜田はまだアクリル板に張り付いたままだった。

「田中大門は昔から女好きだったらしい。俺の母親との結婚生活は、その中でも十二年続いたが、ほとんど家にも帰らなかったし、父親らしいことをしてもらった覚えもない。だが、母親は奴のことを愛していたんだろう。気が狂うほどにな。母はずっと帰りを待っていたが、俺が十二歳のときに自殺したんだ。だが、それでも父親は顔すら見せなかった。文字通りほったらかしだ」

 顔を上げ、天井を見上げた。

 建物自体が古いのか、大きく黒いしみが目についた。

 あのときの事を思い出す。

 入院していた病院のベッドの上で、首を吊っていた母親。

 滴っていた汚物がシーツを汚してた。

 胡桃澤は祖父母に育てられていた十八歳まで、田中の姓を名乗っていたが、自立をきっかけに田中の籍を抜け、母方の姓へ変えることにしたのだ。

「そうだったんすね……」

 それ以上、浜田は何も言わなかった。

 補うようにして胡桃澤は話を続けた。

「母は父親である田中大門に殺されたようなもんだ。だから俺はその復讐心から、奴の過去を洗いざらい調べまわってた。そこで知り合ったのが、あいつら三人だった。彼らもまた田中大門の被害者だった」

「被害者……」

 浜田がオウム返しをする。

 ゆっくりと胡桃澤が頷いた。

「三人は俺と異母兄弟なんだ」

「えっ?」

「母親は違うが、父親は同じ田中大門なんだ」

「いや……それはわかりますけど、四人ともほとんど同じくらいの年ですよね?」

「四人の中で俺は一番年下だ。仙石が三十八歳。神楽が三十六歳。猫柳が三十五歳。そして俺が三十四歳とほぼ同年代。まあ、これでわかるように奴はそういう男だったのさ」

「あっちこっちで女を作っていたってことっすか」

「まあ、ただの女遊びならまだいい。子供が産まれたら喜びもしたというから、はじめのうちは責任を取ろうという気はあったのかもしれない。だが、すぐに楽な道を選んで自分の都合のよい方へと逃げる癖があったのだろうな。相手の女からすれば、気を持たせるだけ持たせて、最後には捨ているという無責任な奴だ」

 父親の情報から、自分に兄弟がいると知ったときは複雑な気持ちだった。

 だが四人が初めて顔を合わせ、互いに同じ目的から父親を探していたと知った時には、思わず笑ってしまった。

 それぞれ笑えるような境遇ではなかったのだが。

 なぜか笑った。

 四人とも同じ考えを持っていたことに安堵したのか。

 それとも兄弟がいることに喜びを感じたのか。

 胡桃澤はそんなことを思い出していた。

「仙石の母親とは一応、結婚らしい契約はしたようだ。夫婦で事業をやっていたが失敗して、その債務は母親が背負ったらしい。銀行に融資を受けようと頼んでみるも、受け入れられないどころか自己破産を進められたそうだ。田中大門は蒸発して行方知れず。敢え無く会社は倒産。その後、母親を支えるために仙石は堅実に働きだしたということだ。彼が銀行員になったのは、自分と同じような境遇の人間を救いたかったのだろう」

「仕事できそうな風格でしたね」

「もう何年か勤めれば、どこかの支店長を任されるかもしれない」

 浜田は仙石を思い出す。

厳密にはミカウバーとしての彼しか知らないわけだが、彼の話し方や身ぶりは人を惹きつけるものがあった。自信の溢れた物の言い方にしても苦労があったとは感じさせない、人の心の隙間にするりと入るような話し方だった。

「神楽の母親はロシアンパブで働いていた日系ハーフだったそうだ。こちらは一晩だけの営みで身籠ったために結婚などはしなかったらしい。彼女はシングルマザーとして神楽を育てた。数年間は交流があり、少しは金の工面もしていたようだが、あるときを境に連絡が取れなくなった。あいつも母親の苦労を目にしていたから、父親を恨む感情があったのだろう。行方の知れない父親を探すために必死だったそうだ。そういう経緯であいつは情報屋になったらしい」

「ジョージさんてクォーターなんすね。通りで日本人離れした顔だと思った」

「俺も初めてあったときは驚いた。まあ母親が違うんだから容姿が似てなくても当然だがな。だが、あいつがバーをやりながら情報屋をやっていたお蔭で、俺たちは四人集合できたってわけだ」

 年齢からいえばジョージの方が兄にあたるのだが、胡桃澤との会話では敬語を使っていた気がする。バーのマスターとしての接客からかもしれないが、元来彼はそういう性格なのだろう。

「そして猫柳だが……彼女がいちばん不憫だった。猫柳の母親は娼婦をしていたんだが、田中大門に気に入られて愛人にされていた。猫柳の母親は美人で気に入られていたらしいが彼女が生まれてしばらくすると、母親は亡くなった。今までの経緯からでもわかるように田中大門は一人で娘を育てる気はなく、文字通り捨てた。まだ六歳だったらしい。他に身寄りのない彼女は施設に入れられて育ったが、やはり父親を恨んで奴を探し続けていたということだった。しかし学も金もない彼女がひとりで生きていくのは大変だった。そのために身分や学歴を偽り、色んな仕事も経験してきたと聞いている。変装術も彼女にとっては生きていくための処世術だったのだろう」

 話が途切れる。

 猫柳と真奈美が同一人物だったとは仰天したものだ。

 真奈美と名乗って出会ったときのことを浜田は思い出していた。彼女は華やかな雰囲気で人気者ではあったが、どこか陰のある、踏み入れてはならない闇を抱えていたような気がしたのだ。

 それは名前と同じように、どこかでマナミと重ねていたのかもしれない。

 胡桃澤は一度咳払いをした。

「そして……俺もまた父親を恨み、殺そうと考えていた」

 彼の言葉に浜田は驚かなかった。

 張り詰めた弓のような、いつ射られてもおかしくない緊張をずっと持ち続けているような、そんな人間に見えた。父親への復讐を終えても、彼の中にはそういう生き方しかできないように楔が打ちつけられているようだった。

「ただ、四人が集まってお互いの話をしていると、殺そうという気はなくなった」

「四人ともそんなに恨んでたのに?」

「ああ、きっかけは小さなものだ」

 胡桃澤は「取るに足らないほど小さいな……」と独り言のように漏らした。

「田中大門は最低な糞人間だが、少なくとも俺たちがこの世に生を受けたことに対して、祝福を忘れることはなかったようだ」

「……どういう意味ですか?」

「初めて生まれた仙石の名前は〝創〟とつけ、二番目に生まれた神楽には〝丈二〟、三番目に生まれた猫柳には〝三琴〟、そして四番目に生まれた俺には〝四朗〟と名付けていたんだ。無責任に子供を産ませたのかもしれないが、奴は奴なりに四人をそれぞれ自分の子供として意識してはいたんだって、そんな小さな事さ」

「でも……たったそれだけで殺意が消えたなんて信じられません。俺は身内でもない、あまり話をしたこともない女のためでも殺意は捨てられなかった。たしかに法律では人を殺してはいけない。悪い事だと罰を下される。でも、それがわかっていてもブレーキはかからなかったっすよ。俺は止まらなかった」

「止まったじゃないか」

「まあ、結果的には」

「誰も殺さなかった。お前も俺と一緒だ。復讐に目が眩み、全部ぶち壊してしまおうと自暴自棄になっていただけに過ぎない。俺たちは金を奪い取るという手段を使って復讐はしたが、命まで取ろうとはしなかった。それは、そのとき傍にいてくれた人を失いたくないと思う気持ちがあったからだ」

 あの分室での出来事を思い出す。

 浜田が爆弾テロ犯だということを証明するため、誘導するための寸劇だったことは彼らの説明で理解した。だが、浜田が猫柳を人質にしてマスタードガスがある奥の部屋へと進もうとしたとき、何故あれほど必死に胡桃澤が止めようとしたのか気になっていた。

 彼の役目はあの場ですでに終わっていた。

 奥の部屋へ進ませて、さっさと警察に逮捕させればよかったのだが、彼は執拗に止めようと説得していたように感じたのだ。

 鬼気迫るように。

「俺たちの父親が、こんな特徴的でわかりやすい名前をつけていなかったら、探すのにも時間がかかっていただろうとジョージは言っていた。この名前じゃなければ、もしかしたら出会う事も叶わなかったかもしれない。だが、出会えてよかった。出会えた事によって救われたと思う」

 胡桃澤は人差し指を立てる。

 あのときミカウバー扮する仙石が、話をするときに似ていた。

「『人は悲しみを分かち合う友がいれば、悲しみは和らげられる』」

ウィリアム・シェイクスピア。

彼の言葉だと浜田はすぐにわかった。

胡桃澤たちは復讐をやめることはしなかったが、殺すことは考えなかった。

傍らには分かち合える人がいたから。

痛みを知る人と出会えたから。

「……田中大門は、現金輸送車襲撃犯の正体が、自分の子供たちとわかったんですね」

 彼は頷いた。

 あまり公になっていない情報ではなかったが、浜田は胡桃澤の素性を調べるときに奇妙な情報を得ていた。現金を襲撃され、その穴埋めをするために田中大門本人が五千万という大金を用意したらしい。

 すべての財産を投げ打って、その後、彼がどうなったのかは誰も知らなかった。

 胡桃澤が言うように、みすぼらしい余生を送ったのだろう。

 おそらく彼は、人生の最後に自分が積み重ねた罪を受け止めたのだ。

 最後に、転がり落ちたのだ。

終わらない坂道を転がるように。

 深く深く落ちていったのだ。

 胡桃澤が腰を浮かした。

 パイプ椅子がコンクリートに擦れる音がやけに大きく聞こえた。

「俺が書いた詩の表題を知っているか?」

 浜田は彼を見上げながら、首を横に振った。

 心に留めた詩にもかかわらず、表題の記憶がなかった。

 詩に対しての表題の意味が理解できなかったから記憶に薄かったのか、もしかすると表題は書かれていなかったような気もする。

 彼はおもむろに口を開く。

「『嘘の果実』。あれは父親と母親のことを詩にしたんだ」

 やはり聞いても理解できなかった。

 おそらく彼の中で、彼だけが知る表題、彼だけが知る理由があるのだろう。

 そのまま背を向けると、胡桃澤は右手を少し上げてドアから出て行った。

 彼らしい。

 浜田は小さく笑った。

 今度、彼が来たときに表題の意味を聞こう。

 そう思った。

 薄暗い接見室から外へ向かう途中で、胡桃澤は佐倉の姿を目にした。

 相変わらず黒いコートを纏い、頭から足の先まで真っ黒なコーディネイトは地獄の番人のようだった。彼は薄笑いを浮かべながら近づいてくる。

 さきほど聞こえたくしゃみは、やはり彼なのだろう。

 胡桃澤は無視して拘置所を出た。

 雪が舞っていた。

 花弁のような牡丹雪。

 草木も動物も冬眠だ。

 後ろを振り返り、薄暗い建物を見た。

 浜田もしばらくの間、穴倉で冬眠だなと思った。

 辿り着くのは刑務所に違いない。

 しばらくは、ただ目を瞑るように、昏々と日々を過ごす事になるだろう。

 やがて芽が吹き出すまで。

 佐倉が追いついてきた。

 待っているつもりはなかったのだが、彼にはそう見えたのかもしれない。

 胡桃澤は踵を返す。

「おい、面会受付票に空欄があったぞ」

 佐倉は歩みを揃えるようにして並んできた。

 彼の吐く息が白い。

「もう用は済んだ。適当に書いておいてくれ」

「ふん、まあどうでもいいが……〝続柄又は関係〟だ。舎弟って書いとくか?」

 佐倉は面白そうに笑った。

 彼は、かつての同級生の顔を覗き込む。

 胡桃澤は目を細めた。

 歩みを止めた彼は、「いや」と言って空を仰いだ。

「弟と」


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