13
学校の先生に言われたのを思い出す。
嘘つきは泥棒の始まりだと。
子供ながらに、嘘をつくだけで警察に捕まるものなのかと疑問にも思ったが、実際に先生に怒られ警察に電話したと告げられると泣き叫んだ覚えがある。だが、今思えば先生が警察に電話したという話も嘘なのだ。
人は嘘をつく。
欺く。
そして騙す。
意識的にでも無意識にでも。
それが良い嘘でも、悪い嘘でも。
高校の時には友達と思っていた連中に騙された。それが原因で女の子をひとり死なせてしまった。騙した彼らは言う。
騙されるのが悪いと。
そんな冗談で騙されるなんて、と。
冗談?
冗談でも騙されれば人は死ぬことがある。
まるで世界が嘘だけで塗り潰されている気がした。
目の前の光景も、自分の中まで。
真っ赤に。
いつの間にか、猫柳が自分の腕の中からいなくなったのに気づいた。
右手に持ったマカロフ銃も項垂れている。
黒コートの男は相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、目の前に立っていた。
彼は少し首を傾ける。
「ご苦労だったな、胡桃澤」
彼が指す声の方へ、浜田は振り返る。
そして目を見張った。
そこには四人の姿があった。
胡桃澤、猫柳、そしてミカウバーとマルコムだ。
撃たれて座り込んでいた胡桃澤は、何もなかったように腕組みをして立っている。ミカウバーとマルコムも同様だった。胡桃澤の作業服は腹の部分が赤黒く染まり、彼の右手も赤く汚れていた。
胡桃澤は黒コートの男に言った。
「これで満足か。佐倉」
面白くなさそうな顔をしながら胡桃澤は言った。
彼の呼んだ佐倉という言葉が妙に引っかかる。
「えっ、佐倉って……」
浜田は正面に向き直る。
黒コートの男は懐から警察手帳を取り出すと、浜田の目の前に突き出した。
そこには確かに佐倉という名前と共に、警部補という肩書が表記されている。
このとき浜田は「あっ」と、思い出すように声を上げた。
さくら。
いつだったか、胡桃澤が〝さくら〟という人物と電話していたことを思い出す。彼は勝手に女の名前だと勘違いしていたのだ。〝さくら〟は名前ではなく、苗字。それはこの警部補のものだったと気が付いた。
「こいつが腐れ縁の佐倉だ。偉そうに警部補なんてやってるがな」
紹介しているつもりだろうか。
胡桃澤が言ったことについては、すでに浜田の中で帰結していた。
おそらく彼も、これ以上説明する気はないだろう。
「先輩……なんで立っていられるんですか? たしかに急所は外してましたが……そんなにすぐ動けるはずがないっすよ……それに、なんでその二人まで」
その二人というのはミカウバーとマルコムのことだ。
彼らは胡桃澤の隣で、壁にもたれかかりながら腕を組んでいる。
「お前が拳銃を持っているのは知っていた。だから昨日の夜、バッグに入っていた拳銃から実弾を取り出して、すべてペイント弾にすり替えておいた」
「ペイント弾……でも、ちゃんと血の匂いがした!」
「それは本物の血だからよ」
猫柳がにやりと微笑み、撃たれたはずの左手で自分の黒髪を剥ぎ取る。
浜田の口が、金魚のように開閉する。
彼女の黒いウィッグの下からは、栗色をしたウェーブのかかった艶やかな髪が現れる。化粧をしていないだけで、女はこうも違うのかと実感したところだ。
「お前……真奈美か? じゃあ、今日ずっと一緒にいたのも……お前なのか? なんで? お前は猫柳三琴と仙石が病院で会っていたって……」
「私の本名が猫柳三琴なのよ。もちろん白衣の天使というのは本当よ。あなたが病院に来たときは名札を隠していたけど、病院の職員で登録されているのも猫柳って名前よ。あなたに渡したカルテの内容は当然改ざんしたものだけど、全部が嘘ってわけじゃないわ。まあ、職員だからできることだけどね。そういうわけでペイント弾の中に輸血用の血を混ぜて、彼に渡したのも私なのよ」
そう言って胡桃澤を指さした。
「じゃあ、仙石と病院で会ったっていうのは……」
「もちろん、それはでっち上げだよ。だって私の体はひとつしかないのよ? 病院の受付にいながら猫柳として仙石と会うなんて芸当できるわけないじゃない」
彼女は悪びれる様子もなくそう言った。
浜田は混乱し、必死に考えをまとめようとしてた。
猫柳と仙石が病院で会っているという連絡を真奈美から聞いたとき、浜田は急いで駆けつけたが二人と接触することができなかった。それは猫柳と真奈美が同一人物だったために、真奈美の証言があれば成立することだったということである。さらに彼女は真奈美という源氏名で猫柳の誘拐情報を流し、そして猫柳三琴としてわざわざ捕まるという一人二役を演じていたわけだ。
「なるほど……自分を誘拐するという筋書きを作るために、無関係の仙石を丸め込んで、奴から情報を得たふりをしていただけなんすね。俺にそう思い込ませるために、わざわざカスティーロに仙石を呼び出した」
「んー。まあそうだけど。別に丸め込んだわけじゃないよ。無関係でもないし」
猫柳はちらっと壁際に視線を移す。
するとミカウバーがアメリカン風に両手を少し上げ「やれやれ」と言いながら、頭に被っていたフルフェイス・マスクを外す。
「そうだね。丸め込まれたってわけじゃない。初めからそのつもりだったから」
マスクの下の素顔を見て、またも仰天する。
あの銀行員の顔だ。
「お前は、仙石創……」
「そう。僕の役割はけっこうハードだったよ。今日なんて、それらしく事を運ぶためにも監視カメラを胡桃澤がハッキングしたふりをして、僕の姿を君に見せるっていうもんだからさ。銀行でいつも通り仕事して、途中からは腹痛と偽って早退したんだよ。まあ、有給も溜まってたから別にいいんだけどね。それからすぐにアサルトスーツとマスクを用意して車に飛び乗って、君たちの車を追いかけたわけだ。ちょうど君のハイエースに偽装していた塗装を剥いでいる頃に、僕は先回りして待ち伏せていたんだ」
たしかに胡桃澤が持っていたパソコンには仙石の姿が映っていた。それにあの映像はリアルタイムで撮影されているというのも、店内に入る猫柳の姿を確認したことで信じられるものだと思っていた。
要するに胡桃澤は、わざと仙石の姿をカメラで確認させたのだ。
「じゃあ、あのパトカーは警部補さんが用意したんすか? 用意周到っすね」
嘲笑うように浜田は佐倉を見るが、彼には話が見えないような顔をしている。
すると胡桃澤が「そいつは違う」と口を挟む。
「あれは運が良かったのか悪かったのか……真実味を増すには良い演出だったとは思うが、あのパトカーは何も知らずに追ってきたんだ」
「どういうことすか……」
「今日は九月二十一日だろ。全国交通安全週間だ。つまり、ただスピード違反で追跡されたわけであって、警察が用意したもんじゃない」
浜田は頭痛がしてきた。
一体全体どうなっているというのだ。
しかし、ここに化学兵器があるという情報は間違いなかった。
「マスタードガスは……? ここに化学兵器があるって情報は、俺が岸部興産のネットワークから見つけたものだったんだ。それは間違いないはずなのに。でも、ここにはないってこと……?」
語尾が弱弱しくなった。
この部屋に入った時には、武装した警官に気圧されて室内のことよりも、自分の身に今何が起こっているかを理解するのに必死だった。そのために注意深く部屋を見てはいなかったのだが、改めてこの場を見回してみると、およそそんな施設でないことがわかる。
壁は垂木がむき出しになり、ベニヤ板が顔を覗かしている。
まるで急ごしらえの張りぼてだ。
床には小さなゴミが散らかり、色褪せたリノリウムが散乱している。
さらには隅の方に、立て掛けられた木材やペンキ、丸鋸やインパクトドライバー、それに脚立などの大工道具も見えた。
そういえば、先ほどまでいた部屋はいやに新しい感じがした。
研究所の分室で、しかも秘密裏に建てられたものだとすれば、もう少し年季の入った建物でもよかったはすだ。
補足するように佐倉警部補が言った。
「ここには化学兵器なんてないよ。岸部興産のネットワークから得た情報とか言ってたが、そもそもその情報だって出所は定かじゃないんだろ? そこがお前の盲点だったわけだ。そういうヤバイ情報はヤバイ連中が持っていると、当然の事のように思っていたのかもしれないが、そのヤバイ連中に情報を流しているのは、至って身近にいた奴だってことだ。そうだろ?」
佐倉警部補は、くわえていた煙草を口からつまみ出すようにすると、剥き出しになったコンクリートに落とし、靴の裏で踏んで消す。
彼の声が指した先は、残りの一人に向けられたものだった。
口数の少ないマルコム。
彼はミカウバーと同じようにフルフェイス・マスクを剥ぎ取る。
「そうですね。化学兵器のネタはブラフです」
渋い声。
眼鏡はなかったが、見慣れたドレッド・ヘア。
浜田の口から、思わず苦笑が漏れた。
「ジョージさん……あんたまで」
バー『チリャード』のマスターである神楽丈二。
彼の口数が少なかったのは他でもない。
浜田といちばん付き合いが長かったが故に、声から本人だと悟られない様にしただけだったのだ。フルフェイス・マスクをしていた為に声はくぐもっていたので、あれくらいの口数では到底本人だとは思わない。ましてや猫柳など、付き合いは深くないと言っても化粧と口調が変わっていただけで、まったくと言っていいほど気づかなかったのだ。正直なところ、マルコムがもう少しお喋りであったとしても浜田は気づかなかっただろう。
ジョージは髭を整えながら言った。
「私は創ほどハードじゃなかったんですが、それでもこの計画にはずいぶんと骨を折りましたよ。なんせ夜はバーで酒を出して、昼間はここで大工仕事もしてたんですからね。まだ筋肉痛が治らない……それに私は情報屋という顔も持っているので、あなたが大量殺戮に関する情報を集めている事はすぐにわかりました。そこで岸部興産へ流している情報の中にマスタードガスが秘密裏に開発され、サンプルが保管されている施設が存在するというブラフも流した。あとはどのようなストーリーで、あなた自身が爆弾テロ犯だという証言を引き出せるかというシュミレーションをしたんですよ。まさかこんな規模になって、しかも苦手な大工仕事までやらなければならなくなったのは失敗でしたが。それに非合法的なやり方では佐倉警部補の許可ができなかったので苦労しました……疲れましたよ。昨日は一晩中ハイエースに擬装用のシートを貼ってましたからね……」
半分は愚痴に聞こえた。
大工仕事と聞いて、再び機材の方へ目をやる。
どこかで見覚えのある道具ばかりだった。
もしやと思い、胡桃澤の方を見ると、彼は小さく頷き返した。
「大工のアルバイトってのは、ここの改装工事だったんだよ。お前にも家に機材を運ぶの手伝ってもらったことがあったよな。ここは昔、さる砕石工場の重機なんかを管理してた倉庫だったんだ。だがこんな奥まった土地だろう? 工場が破産して潰れても、誰も買い取る者もいなかったから、二束三文の金額で買い取ったのさ。そして俺たちで車道や工場周りの草刈りしたり、壁の塗装したり、室内の計器類をそれらしく揃えたりして、研究所の分室らしく仕上げたってわけだ。まあ、もともとが工場でワンフロアになってたから、部屋のパーティションは知り合いの大工に頼んで骨組みだけ作ってもらったんだが」
やはりそうだったのだ。
あの道具は胡桃澤が持っていたものだ。
彼は浜田が持ち掛けた麻薬取引データと猫柳誘拐の計画を立てながら、同時にここで一芝居うつ計画をしていたことになる。
何食わぬ顔をして。
そこまでにして巧妙に、そして大胆な計画。
予め配役を決めて、ひとつのストーリーを演じる演劇のようではないか。
この場にいる人間は劇団員であり、まるでここは舞台だ。
それに見事なキャスティング。
さながら犯罪をテーマにした劇場のようだ。
そして自分が主人公だと知らないで演じたようなものである。
怒りを通り越して、感心してしまうほどに。
話を聞いていた限りでは、どうも胡桃澤が中心になって行動しているようにも聞こえた。
彼は何者なのか。
「何故、こんなことを先輩が?」
口に出して言っていた。
疑問だった。
彼が強盗のプロだというのも嘘なのだろうか。
佐倉警部補が頭をぼりぼりと掻きながら「もういいだろ?」と面倒くさそうに言う。
「だいたいお前が向こうの部屋で喋っていたことは、仕掛けてあったカメラと盗聴器で一部始終収めてあんだよ。お前は私怨から爆弾で三人殺そうとした。さらにはマスタードガスがあると知ると、今度は岸部興産まで潰そうと企んでいた。証拠は十分あるんだから警察としては、お前の疑問を払う為にだらだらとお喋りしている必要はないんだ。そんな暇があったらさっさとお前を留置場にぶち込んで、一杯やりにいきたいんだけどね」
犯罪者の烙印を押されたものには、人権を侵害しても問題ないというような物の言いようだった。彼は浜田をゴキブリでも見るような目で見る。
「待てよ、佐倉」
「ああん?」
「彼にも知る権利はあるだろう」
胡桃澤の言葉に、佐倉は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませる。
いや、呆れているようにも見えた。
「おいおいおいおい、胡桃澤先生よ。お前も偉くなったもんだな。情でも移ったか? たしかに爆弾テロはお前の仕業じゃないというのはわかった。真犯人逮捕の協力にも感謝する。今回の計画でかかった費用も警察が持つように俺が働きかけよう。だがな、お前が十年前に起こした現金輸送車襲撃事件の容疑は晴れたわけじゃねーよ」
「そいつはただの噂だ」
「俺はそう思ってねえよ」
「容疑と言ったが、警察では捜査打ち切りと発表してる。それに俺の容疑は十年前に晴れてるんだ。お前が取り調べしたんだからわかってるだろ?」
「そんなもの認められるか! 俺の中では終わっちゃいねえんだ」
二人が言い合うものの、壁際にいたジョージは「また長くなりそうですね」と溜息をついていた。仙石と猫柳もうんざりとした顔をしている。
しかし子供のような口喧嘩は止まらない。
「だいたい、いつまで俺に付きまとう気だ! 顔を合わせれば、あることないことガタガタ言いやがって。お前は俺の嫁か?」
「ふざけんな! 何がお前の嫁だ。俺はお前の生活を二十四時間監視してんだぞ。お前みたいな自堕落な生活をしている男に嫁ぐわけねーだろ」
「何が二十四時間だ。そんなに警察は暇なのか? ストーカーか? お前は」
仙石が小声で「気持ち悪いな」と言うのが聞こえた。
ついには猫柳も痺れを切らせたのか、「はい、そこまでー」と手を三回叩く。まるで学校の先生が、子供の喧嘩を止めさせるような仕草だ。
彼女にそう言われ、ようやく周りの雰囲気に気づく。
佐倉の部下である警官や特殊部隊も、彼らのやり取りをただ呆然と眺めていた。
二人も急にばつが悪くなったのか、お互いそっぽを向いて鼻を鳴らす。
その間にいる浜田も、同様にぽかんとしていた。
「あんたらが仲良いのはわかったから、そんな口喧嘩してる暇があったら、彼の疑問に思っていることを話してあげた方が場も収まると思うんだけどね」
姉御肌な彼女の言い分に、意義を唱える者は誰もいなかった。
仕方なしにか、猫柳が探偵よろしく三人の周りをゆっくりと歩きながら解説する。
「胡桃澤と佐倉は同級生なんだ。昔からの悪友なんだよ」
そう前置きをする。
浜田の視線は彼女を追っていた。
胡桃澤と佐倉の二人は、余計な話をするなとばかりに彼女を睨む。
「爆弾テロがあったときに発見された、犯行声明『熟れ過ぎた果実は、転がり落ちる』っていう一節は、とある詩から引用されたものだった。それを胡桃澤と佐倉は知っていたから、母校である高校の関係者ではないかという疑惑が浮上したのよ。あの詩はコンクールとかに出品するような作品じゃなくて、部活動の一環で作った作品だったから、より一層範囲は絞られたわけね。そこで安直な佐倉警部補は、まずいちばんに胡桃澤を疑ったの」
「……何故ですか?」
「君は偽名を使っていたよね? 浜田雄介くん」
「ええ……そうです」
「その名前はどこから拝借したのかな?」
「それは、さっき言ってた詩の作者名から借りたんすよ。ずっと印象に残ってた作品だったんで、今でも暗記してるほどだし」
「それはポエマー冥利につきるというもんだねぇ」
「それがどうしたっていうんすか? 二人ともポエム部だったんすか?」
「うーん、半分当たってるけど少し違う。まず、佐倉はポエム部に所属していないよ。まあ見ての通り、頭も柄も悪いしね。でもセンスある胡桃澤は、確かにポエム部に所属していたらしいよ。とはいっても真面目に活動していたわけじゃなさそうだけど。まあ、そういう経緯があって詩と偽名がつながった……このヒントでもわからない?」
「えっ……でも、作者は田中四朗ですよ?」
「そうだよ」
「は?」
「胡桃澤の下の名前聞いてないの?」
「はぁ……知りません」
ああ、という納得の顔をして、猫柳は言った。
「彼は胡桃澤四朗。親が離婚して母方の姓を名乗る前の彼の旧姓は、田中四朗なのよ」
浜田は呆気にとられた。
田中四朗。
胡桃澤がその〝彼〟本人だったのだ。
浜田は今までさも当然のようにして、胡桃澤の前で彼の旧姓を偽名として名乗っていたことになるわけだ。今更ながら少し恥ずかしい気持ちになった。
よく思い出してみれば、彼が自分のことを呼ぶときには、いつも〝お前〟と呼び、〝田中〟とも〝四朗〟とも呼んだことはなかった。
それはそうかもしれない。
旧姓とはいえ、自分の名前をいうのに微かな抵抗があったのだろう。
だから、初めてリチャーズで会ったとき、咄嗟に偽名として口にした〝田中四朗〟という名前に、胡桃澤とジョージは妙な反応をしたのだ。
名前が平凡だから、馬鹿にされたわけではなかった。
胡桃澤の旧姓と、同姓同名だったことを妙だと感じたからだ。
「じゃあ……先輩は初めて俺に会ったときから、俺が爆弾事件に係わっていることに気づいていたんすか……?」
浜田に背を向けていた胡桃澤は、ゆっくりと振り向き「ああ」と短く答えた。
目を合わせようとはしなかった。
騙していたことに多少の罪悪感を覚えているのかもしれない。
彼がポケットから煙草を取り出すのを見て、浜田は無意識にライターを探そうと、右手が動いたのに気付く。
習慣とは怖いものだ。
笑い出しそうになるのを抑える。
彼は自分のライターで火をつけた。
「あのとき……お前と初めて会ったあの日、リチャードに出向いたのはジョージに佐倉のことを相談するためだった。爆弾テロの犯行声明に使われたメッセージは、俺が高校時代に書いた詩の一説を用いたものだということを理由に、こともあろうか佐倉は俺が犯人ではないかと疑いをかけてきた。それも、ご丁寧に俺の携帯にまで電話してきたんだ。まだ捜査本部にはリークしていないから、さっさと自首しろってな。いきなりそんな電話をしてきたもんだから、俺も喧嘩腰になっちまってな。そんなに疑うなら俺が無実だって証明してやる、なんて啖呵を切ったわけだ」
言葉を切って、彼は佐倉警部補の方を見る。
振り向いて、一瞬だけ胡桃澤を見ると、目が合った瞬間に居心地が悪くなったのか、彼の紫煙に誘われるように、佐倉も煙草を取り出す。
胡桃澤は続けた。
「そんなことがあって情報を求めてジョージに会いに行ってみると、お前がいた。話を聞けば、俺と同じ高校の出身で、名前は田中四郎。さらに在学中にはポエム部に所属していたっていう……あのときは平然を装っていたが、内心は驚きの連続で心臓が踊ってたよ……自分の旧姓と同姓同名って可能性も考えて、すぐに冷静を取り戻そうとしたが、どう考えても爆弾テロとの関係性を否定できるような材料がないほど怪しかった。そこで俺が立ち去ったあと、ジョージが気を利かせて、俺の事を強盗のプロだとお前に印象付けた。この時点では、次の標的がお前自身の所属する岸部興産だとは知らなかったし、その復讐心から化学兵器まで使おうと考えていたなんてことは露ほども思っていなかったよ。だがもしかしたら、またお前は俺に接触してくるんじゃないかと思っていたんだ。俺に犯罪の匂いが少しでもあれば、なんらかのアクションがあると踏んでいたんだ。だからお前が猫柳を誘拐するという話に協力するというかたちを取った。まあ、その餌も俺たちが仕組んだ偽の情報だったんだがな。俺はお前が爆弾テロ犯だという確証があったが、証拠は何もなかった。それに組織的な犯行で仲間がいる可能性も否定できなかったしな。だから佐倉を説得して、すべての証拠が明らかになるような舞台を計画したってことだ」
さらにジョージが補足をする。
「浜田さんが大規模な破壊兵器や武器を探していた情報は、岸部興産経由でこっちの情報でも把握できていたんです。だからシュミレーションを組むときにマスタードガスという化学兵器が存在するというブラフを流したんですよ。あなたがこの情報に飛びつけば、必ず胡桃澤さんと接触すると踏んでいたもんで」
浜田には、いまだにジョージが自分を騙していたとは信じられない気分だったが、説明を聞く限りそれは間違いないらしい。しかも作戦は感心にも値するほどだ。
ひとつ疑問があったので彼は聞くことにした。
「ちなみに……なんでマスタードガスだったんですか? まあ、それ以外の化学兵器でも奪いに来るつもりでしたけど……」
ジョージは「ああ、そうですね」と彼の疑問に納得した様子で説明する。
「私がローリング・ストーンズのファンであることは知ってますよね? そのキース・リチャーズの祖父が、第一次世界大戦のときマスタードガスで喉を負傷したという話がありまして……理由はそれだけです。あと、ミカウバーとマルコムというコードネームは、キース・リチャーズが愛用しているギターの名前なんです」
「……なるほど」
ここまでくると、さすがに浜田も笑ってしまいそうになる。
最後に佐倉警部補が茶々を入れた。
「つまり、お前は胡桃澤たちの用意した舞台で踊らされてたわけだよ」
胡桃澤の手から、煙草の灰が落ちるのを浜田は目で追った。
視線は落ちた灰を見つめていた。
だが果実は落ちるまでに至らなかったようだ。
浜田が実らせた復讐で固められた果実は、彼らの手で刈り取られたのだ。
心だけが、深く深く落ちているような感覚がした。
不思議と怒りはなかった。
かつての同級生から、お前は騙されやすいと言われたことを思い出す。
胡桃澤にも同じ事を言われた気がした。
それでも別に不快ではなかった。
どこかで、ようやく終わったという気持ちがあったのかもしれない。
少し安堵にも似た。
虚無の心境。
佐倉の「もう気が済んだろ」という声が遠くで聞こえる。
捕まれた腕に、冷たい手錠が掛けられた。
浜田が両手をつながれた手錠を見つめていると、猫柳が彼の腕を掴み、両手の上に何かを載せた。
クラプトンのCD。
化学兵器の情報や、セキュリティーキーの入ったデータだといわれたものだ。
つかまれた腕の方を見ると、すぐ傍に彼女の顔があった。
近くで見ると、たしかにカスティーロで一緒に飲んでいた真奈美の面影がある。
彼女は微笑みながら「餞別にあげるよ」と言った。
彼ら四人の間を通り抜け、佐倉警部補と数人の刑事らしい人物に囲まれながら、彼らが急ごしらえで作った、手作りの分室を出た。
どのみち没収されることになるだろうと思ったが、彼女に渡されたCDのケースを歩きながら開けてみる。
中には正真正銘、アルバム『スローハンド』と印字されたCDがあった。