12
研究室分室は静かだった。
コンプレッサーや機器の冷却ファンのかすかな音だけで、他に聞こえるのはミカウバーとマルコムの荒い息だけだった。撃った位置は腹部だ。本来なら頭を狙うのが定石なのかもしれないが、関係のない人物を殺す事に抵抗があったのかもしれない。無意識に即死しない場所を狙っていた。
猫柳の背中に銃を押し付け、胡桃澤と対峙したまま田中は動かなかった。
そして胡桃澤も彼の前から動こうとはしない。
おもむろに田中が口を開く。
「そういや先輩には話しましたね。高校時代のマナミのこと」
「ああ、お前は友達に騙されて、マナミちゃんとの裏ビデオ製作に加担したってやつだろう。そして彼女は自殺した」
「ええ、俺が爆弾を使って殺そうとした三人は、あのときマナミを追い詰めた奴なんすよ。リーダー格の柏木は懲りずに今でも女の商売やりながら、屋台でラーメン屋やってました。どうも情報屋もやってたらしいっすよ。そこに通っていたのが神田と舎弟の森田。あいつらは俺が所属している岸部興産の幹部やってたんです。俺は格下だったから、あいつらは俺の存在すら知らなかったでしょうけどね。あれから十年も経ったのに、以前にも増して腐った根性に磨きをかけてやがった……そしてあの頃と何も変わっちゃいない。柏木の屋台に集まるのはいつも決まってたので爆弾を仕掛けておいたんですよ。まあ、殺し損ねましたがね」
「それでも奴らは重症なんだろう? 復讐としては上出来だ……俺も聖人君子のようなことは言いたくないが、奴らを殺してもマナミちゃんだって喜びはしないと思うがな。もう自棄を起こすのは止めたらどうだ」
「でも先輩。俺は奴らを許せない。そして岸部興産も」
「岸部興産も……?」
「あいつらこそ、諸悪の権化だ!」
田中は声を荒げる。
掴んでいた猫柳の腕に力が入ったのか、彼女の顔が歪んだ。
彼の目は復讐の影しか宿していなかった。
ただ純粋に。
遠き日の、一人の女性に捧げる為に。
墓標に手向けるのは、謝罪の言葉ではなく、苦渋の涙でもなかった。
ひとかけらの彼女への想いと、連中の血。
抜けることのない棘。
十年という歳月。
いつもいつも。
思い出すのは彼女微笑み。
彼女を死に追いやった者への怨み。
自分ひとりだけ取り残されたような世界。
誰も傍にはいない。
彼女を覚えている者もいない。
記憶の一ページとしてでしかないのだろう。
彼らにとっては。
自殺するほどのことか?
奴らはそう思っているだろう。
彼女はどうだ?
突然、真っ黒に染められたページ。
めくってもめくってもめくっても、ずっとずっと黒かったのだろう。
飛び降りるほどに。
絶望するほどに。
「……奴らは……裏ビデオとして売り捌いていたのは、岸部興産が暴力団指定されていたときの岸部組だった。あのときの俺は何も考えずに、岸部組の事務所へ乗り込んだんすよ。盗撮されたビデオを回収するために。当然ボコボコにされて入院しました。そんときに組の奴らに言われたんすよ。〝そんなビデオなんて、今の世の中どこにでもある。アイドルみたいなもんだ。飽きられるまで放っておけば、すぐに忘れられる。記念みたいなもんだろ〟って。あいつらにとってはそうかもしれない。だけど彼女にとっては、自殺という選択をしなければならないくらいの出来事だったんだ。それを……」
言葉にできない憎悪を、必死に噛み切ろうと歯を食いしばっているように見えた。
被害者の心の中は、被害者にしかわからない。
だが、彼は違った。
彼の中にいる彼女の魂は、悲鳴を上げ続けている。
田中は続ける。
「高校を卒業して、仕事の当てもなく腐ってた俺は喧嘩ばかりしてました。でも、奇妙なことに岸部組の連中がその噂を聞きつけて、俺をスカウトしてきたんすよ。はじめは何かの罠かと思ってたんすけど、それは違いました。あいつらはマナミの事も、俺が事務所へ殴り込みに行った事も全部覚えてなかったんすよ。まるでそんな事実はなかったように、奴らの記憶からは抜け落ちていたんすよ。奴らにとって、それぐらい小事だったってことじゃないすかね。日常的なことなんでしょう。少女が一人自殺したことなど、よくあることで、至って普通で、気に留めるほどの事でもなくて。人生を狂わせた人間がいるなんて考えもしなく、思いつきもしないんでしょうね」
「……だから、今度は岸部興産を狙うつもりなのか?」
「そのために俺は十年も潜伏してたんです」
「そのためにマスタードガスを?」
「ええ。岸辺興産はビル一棟全部に部署があるんで、一人残らず殺すつもりです。ひとりでも救いようのある奴がいれば、やり方も考えたでしょう。でも、あそこにいる人間は一人残らず人間の屑でした。実際に麻薬も扱ってましたよ。銃も、武器も、詐欺も、そして売春斡旋もね。人の弱みにつけこんで、それを貪るだけの糞ですよ。爆弾なんて生ぬるい。悪魔の兵器で苦しみながら死ねばいい。皮膚をただれさせて悶えながら地獄に落ちればいいんすよ」
「地獄に落ちる……か」
胡桃澤は、爆弾テロの現場に残された『熟れ過ぎた果実は、転がり落ちる』というメッセージを思い出していた。
十年という年月を経て、果実は熟したのだろう。
そして熟れ過ぎた復讐という果実は落ちる。
落ちた実は、腐臭のかわりに悪魔のガスを放つのだ。
そして皆、地獄の底へと転がり落ちる。
まるで転がる石のように。
加速して。
落ちるまで止まる事はない。
胡桃澤は髪を掻き上げた。
「なんで俺を仲間にしようと思ったんだ? 他に仲間はいなかったのか?」
「いませんでした。誰も信用できなかった。それはそうでしょう、俺の周りには常に復讐する人間しかいなかったんすから。昼間はそいつらと一緒に笑っていても、夜にはどうやって奴らを皆殺しにしようかと考えていたんすから。だから仲間が必要ならば、別に外部の人間をと考えていたんです。そんなとき、偶然にも強盗のプロと出会えたことは、俺にとって幸運でしたよ。その後に、マスタードガスに関する重要人物が、銀行の貸金庫に機密データを隠したって知ったとき、真っ先に浮かんだのは先輩でした」
「それで、俺を騙して化学兵器を手に入れようとしたってわけか」
「騙したことは謝ります」
「いや、別にいい。謝らなくていい。お前のことが知りたいだけだ。とくに怒ってもいない。だが、爆破事件を起こし、マスタードガスを手に入れる目的が私怨目的ではなく、組織絡みの無差別テロなんかだったら、お前への対応も変わってくる。例えお前と刺し違えても止めるべきだろう。でも、すべてお前が仕組んだ単独犯で、テロ組織の仕業でないのなら俺も少しは気が楽だ。お前を説得するだけでいいんだからな」
胡桃澤の妙な言い回しに少しばかり違和感を感じたが、彼が変な正義感を持っているのは田中も知っていた。理由のある復讐なら許容できるという意味にも聞こえたが、最後には説得するとも言った。今回の件を田中のために、穏便に処理する方法を考えているのかもしれない。胡桃澤と一緒にいれば彼のことが良くわかる。
彼は人を傷つける事を嫌う。
犯罪者向きではないな、と田中は思った。
「ええ、俺の単独犯です。犯行声明は組織テロに見せかけるためのブラフっすよ」
「『熟れ過ぎた果実は、転がり落ちる』」
胡桃澤は犯行声明に書かれてあったというメッセージを、記憶の底から呼び戻し声にしてみた。
それを聞き、田中は自嘲する。
「俺が高校の頃にポエム部にいたって話したことあるでしょう。幽霊部員みたいなもんでしたけど、あれがきっかけで勉強が嫌いな俺も詩だけは好きだったわけです。あの頃は俺も荒れてて、心の拠り所が欲しかったのかもしれません。何気なく取った卒業生の詩集を読んでいて、どこかそのときの俺を詠ったような詩でした。今でも覚えてますよ」
田中は低い声で言った。
熟れ過ぎた果実は、転がり落ちる。
終わらない坂道を転がるように。
深く深く落ちて行く。
辿り着いた暗闇で。
ただ目を閉じる、昏々と。
「このいちばん初めの一行をメッセージに使ったんです」
満足げに言う彼に、胡桃澤は思った。
大した詩ではないのだが、それは彼の心の礎になっているのだろう。先人の残したものが駄作であれ、酷評であれ、それに感情を揺さぶられる者もいるのだ。
彼自身はこの詩に何を抱いたのだろうか。
こんなときにとは思ったが、胡桃澤は聞かずにはいられなかった。
「こんなことをお前に言うのは気が引けるが、いささか幼稚な詩だと俺は思う。高校生が書いたにしては落ち着いた感じはあるかもしれないが、十年も昔に読んだ詩にそこまで思い入れがあるというのは驚きだ。どんな風に解釈したんだ?」
彼の質問は、田中にとっては予想だにしなかったことだった。
胡桃澤がその詩を否定したからではない。
どんな解釈をしたか、という質問だ。
「そうっすね……たぶん、ストレートな意味で解釈してます。果実は熟れ過ぎる前に刈り取るのがベストですよね。〝果実〟を〝犯罪〟に置き換えて考えれば。でも、どんなにうまく刈り取られることから逃れても、いつか必ず落ちるんです。俺は神様を信じているわけじゃないっすけど、因果応報ってやつですね。悪いことをすれば、いつか必ず罰が与えられるって」
「神様を信じる気は、無いわけか」
「確信しましたから」
「確信……?」
「神様は、いませんでしたよ。どこにも」
彼の言葉は、どこか哲学めいた響きで放たれた。
コンクリートに氷を叩きつけたような、冷たく、己が身も砕くような。
神様がいないから、自分で悪人を裁くとでもいうのだろうか。
それが彼の、辿り着いた解釈なのだろうか。
「もうやめろ」
胡桃澤は無意識にそう言った。
他に言葉が見つからなかったのも事実だ。
ただ、彼にはこれ以上進んでほしくないと、そう思ったのだ。
その先で彼に何が待ち受けているかはわかっている。
そして彼は彼で、自分の末路が見えている。
ただ目を閉じ、昏々と。
詩の如く。
「先輩、ここでお別れです」
田中は左腕で猫柳の首を抑え、拳銃を胡桃澤に向けた。
そしてゆっくりと胡桃澤を中心に、円を描くようにして作業台の方へと移動する。猫柳に指示してクラプトンのCDを取らせた。
彼らに合わせるように、胡桃澤はステンレスのドアの前まで移動する。
化学兵器設備への扉だ。
「今、自首すれば爆弾事件だけの罪で済むはずだ」
田中は動きを止めた。
銃口は胡桃澤に向けられたままだ。
「本当のテロリストになっちまう気か? そのドアを抜ければ、お前はもう大量殺戮者と同じだ。復讐なんて美化された自己満足に過ぎない。そのためなら……悪人ならどんなに殺しても正義だと思っているのか」
「先輩!」
「マスタードガスをぶちまけて、自分も死ねばそれで終わりか?」
「やめてください!」
「いいから、もうやめろ」
「通してください!」
田中の手の中で、マカロフ銃が唸った。
重い銃声。
猫柳が短い悲鳴を上げた気がした。
胡桃澤は前のめりになり、崩れ落ちた。
腹を抑えながら、彼は田中を見上げる。
何か言おうとするが、そのまま口を噤む。
ただ首を垂れ、小さく首を振った。
銃口から立ち昇る煙を、田中はしばらく見つめていた。
「すみません。先輩……」
彼は猫柳をコンソールに押し付けると、「ドアを開錠しろ」と頭に銃を突きつけた。彼女はコンソールのボタンと、隣にある端末のキーボードでパスワードを入力する。
短いビープ音が鳴り、両開きのステンレスドアの上部で、赤い回転灯が光った。そのすぐ側で胡桃澤が赤く照らされている。
彼は何も語ろうとはしなかった。
だが、その目は田中に訴えかけているように見えた。
目を背ける。
再び猫柳の襟首を掴むと、ステンレスのドアを開けさせる。
中は短い廊下のようになっており、左右にはドーナツ型の円盤がいくつも埋め込まれている。防塵のエアシャワーなのだろう。その先には同じようなドアがあった。
その先に化学兵器の研究サンプルがあるはずだ。
ドアの中に入る前、また胡桃澤を見た。
彼はもうこちらを見ていない。
項垂れているようだが、傷は深くないはずだった。
「先輩、作業が終わったら救急車を呼びます。俺は付き添えないですけど。急所は外れてると思うので、出血多量で死ぬことはないと思います」
この期に及んで何を言っているのだろうと、自分でも思った。
撃っておいて、死ぬことはないなどと気休めにもならない。
ましてや彼は、自分の事を思って止めようとした人だ。
そう思うと、田中は胸の奥で爪を立てられているかのような痛みを錯覚する。
胡桃澤は何も言わなかった。
目が合う前に、目を背ける。
前を向いた。
エアシャワーは作動しない。
そのまま奥のドアへと向かう。
「開けろ」
猫柳に指示する。
マスタードガスを手に入れるのだ。
皆殺しにしてやる。
彼女を追い詰めた奴ら、全員。
悪魔の兵器で。
猫柳が両扉を開け放った。
中は暗闇だった。
一瞬、あの詩が脳裏に浮かぶ。
辿り着いた暗闇で。
奥の方で、何かが光った。計器かモニターの発光に似ていた。何かをモニタリングしているような画面。それは先ほどまでいたあの部屋だ。
気配を感じた。
誰かいる。
次の瞬間だった。
眩いばかりの光に目がくらむ。
田中は咄嗟に目を閉じた。
そして次に目を開けたとき、彼は愕然とした。
左右を取り囲むようにして防弾シールドを構えた警官が数十人。
前方にも小型銃を構えた特殊部隊が数人。
その真ん中に、黒いコートを纏った男がいた。
黒い髪を撫でつけ、眠そうな怠惰の表情をしているが、銀縁の眼鏡の奥には鋭い眼光がある。年は四十代だろうか。この中でリーダー格であることが、彼から発せられるプレッシャーでわかる。
その出で立ちは、さながら死神のようだった。
煙草をくわえたまま彼はゆっくりと歩みを進めると、田中の二メートル前で止まった。
ポケットに手を突っ込んだまま、じっと見据える。
田中は動けなかった。
そして死神が言う。
「ここまでだ。田中四朗……いや、爆弾テロ実行犯、浜田雄介」