01
九月六日。
「先輩ー。いますかー?」
田中は、そう叫びながら周囲を見回した。
もしかすると、近所迷惑になるのではと警戒したのだ。
改めて考えると、子供が遊びに誘っているような台詞にも思えたので、少し恥ずかしくなったのもある。
この家にはチャイムというものがない。
昭和初期に建てられたのではないかと思わせるほど、古びた木造平屋の一軒家。外壁は木の板を並べるように貼りついているが、その色は鼠色に変色し、塗装してあったのかもわからないくらいに風化していた。
軒先にある郵便受けは錆びつき、所々赤い塗料が剥げている。
何度か足を運んでいるうちに、一人暮らしにしてはかなり広い間取りであることは知っているが、こうもボロボロではワンルームのアパートを借りた方が良いような気がする。しかし、本人曰く「家賃はおそらく日本一安い」と引っ越す予定はないようだ。
家の主人からは何の反応もない。
「入りますよー」
言い終える前に、田中は引き戸に手を掛けていた。
前にも勝手に入ったことがあったので問題ないだろう。
格子状に磨りガラスの嵌った戸が悲鳴のような軋みを立て、ようやく戸口が開く。
レールぐらい張り替えればいいのにとつぶやきながら田中は、土間に上がり込んだ。そしてサンダルを脱ぎ捨てるときに、胡桃澤がいつも履いている青のスニーカーが目に入った。
やはり彼はいるようだ。
「……うん。はぁ? 何言ってんだよ……」
中から胡桃澤の声がする。
どうやら電話をしているようだ。
それで声には気づかなかったのだろう。
廊下のすぐ右にある襖を開ける。
部屋の奥にある縁側に座り、こちらを背にして手には携帯電話を持っている彼の姿があった。中に入るとさすがに気づいたらしく、ちょっと待て、とジェスチャで伝えてくる。
田中は畳に座ると、何気なく部屋を見回した。
木造建築で壁はすべて土壁なのだが、築年数を思わせるようにあちらこちらに穴が空いている。穴の向こうには編み込まれた竹が見えた。
部屋の廊下側には箪笥がひとつと、中央に座卓があり、縁側の引き戸を挟んで三段になったカラーボックスが横向きに設置されている。上にはミニコンポ、中にはCDと文庫本が溢れんばかりに収納されている。いや、実際には収納しきれずに溢れ出ている。
コンポからは小さい音量でフォークソングが流れていた。
田中は洋楽のことは詳しくないので、曲だけ聞いても誰の曲かはわからなかったが、開いたままになっていたCDケースのジャケットを見るとボブ・ディランとなっている。
コンポの液晶に映っている曲名は『ブロウ・イン・ザ・ウインドウ』だった。
直訳すれば『風に吹かれて』。
この家に初めて来たのは三ヵ月くらい前だが、何度来ても代わり映えがしない。
まさに風に吹かれるまま生きているような、周りの事など頓着しない彼らしい生き方に思えた。
ふと胡桃澤を見る。
彼はどこかで作業をしていたらしい。
作業用のつなぎ服を上の部分だけ脱ぎ、袖を腰のところで締めている。シャツ一枚になった上半身には無駄な贅肉がない。
黒々とした髪に、鋭い眼は、鴉を思わせる顔立ちだった。
傍らには草刈機があるところを見ると、彼はアルバイトか何かで草刈りをしていたのだろう。一緒に置いてあった長靴には青々とした草がへばりついていた。
「……さくら、もう電話してくるな」
そう言って、半ば強引に電話を切る。
溜息をつくと、胡桃澤は立ち上がった。
「よう、悪かったな。急に電話がはいって、お前が来たのがわからなかった」
「いや、いいっすよ。今の電話……先輩の女ですか?」
「そんなんじゃないよ。それより先輩ってのそろそろやめないか?」
彼はそう言いながら、冷蔵庫からコーラのボトルとコップとふたつ持ってくると、座卓に置く。田中はペットボトルを手に取ると自分よりも先に、胡桃澤のコップに注いだ。
「じゃあ……兄貴って呼んでいいですか?」
「やめろ」
「なんでですかぁ」
「俺はお前みたいなチンピラじゃないんだ。これでもきちんとした労働に勤しんでいる。それなりに立派な堅気の社会人だ」
「草刈りに行ってたんすか?」
「ああ、バイトでな」
「バイトですよね」
「なんだよ」
「立派な社会人は、ちゃんと正社員で仕事してると思いますけど」
胡桃澤が睨んだので、田中は縁側の方へ顔を向けた。
まだ九月に入ったばかりなので、蝉の鳴く声は衰えない。
アルバイトで草を刈ることはあっても、庭の草は気にしないらしい。ねこじゃらしが麦畑のようになっている。
その片隅に、赤い小さな実があった。
「あれって、ミニトマトっすか?」
「フルーツトマト」
ミニトマトとフルーツトマトの違いが今ひとつわからなかったが、「トマト好きなんすか?」と彼に聞くと、「いや」という意外な言葉が返ってきた。
では何故、庭に植えているというのだろうか。
もっとも雑草に覆われた庭を見る限り、家庭菜園が趣味だとは思えない。
「フルーツトマトって名前でも、普通のトマトでしょう? 野菜の仲間の」
「『目に見えるもの、耳で聞こえたものが真実とは限らない』」
「……誰の言葉すか?」
「俺」
会話が途切れる。
自棄にも聞こえる蝉の鳴き声を耳に、野菜なのかフルーツなのか定かではない赤い実を見つめていた。
しばらくすると、胡桃澤が自分で二杯目のコーラを注ぎながら「で?」と言った。
「何か相談があるって言ってただろ?」
「ええ、そうなんすよ」
田中は、胡坐をかいていた足を正座しなおすと、口をへの字に曲げ、胡桃澤を睨みつけるようにして真剣な目をする。
しかし、彼はどちらかというと童顔だからか、茶髪にアロハシャツという出で立ちをしても、俗にいうチンピラというイメージはない。ヤクザの手下であるチンピラを虎と表現するならば、彼はさながら子猫といったところか。彼の性格を知っている胡桃澤にとってはスコティッシュ・フォールドに見える。
その彼が凄みを見せて話す内容は、何か深い事情がありそうだった。
胡桃澤はコーラの炭酸を舌で楽しみながら、田中が口を開くのを待っていた。
「実は……俺が管理してた組の大事なデータを盗まれちまって」
「盗まれた?」
「ええ、あまりでかい声では言えないんですが、薬関係のデータなんすよ」
今のご時世、ドラッグよりも不動産転売などの経済ヤクザの方が流行っているように思えるが、彼の所属している組ではまだそんなものを流しているということだ。
「たしかに大きい声じゃ言えないな……世間的にも、お前的にも」
「そうなんすよ……で、そのデータを取り戻さないと、俺、もしかすると殺されるかもしれないんです」
田中の頬を汗がつたう。
胡桃澤は二杯目のコーラを飲み干すと、煙草を取り出した。
フィルターをくわえ、火をつけようとすると、それよりも先に田中が火を差し出した。いつもならそれでも自分で火をつけるのだが、今は黙って火を借りることにした。
煙の向こう側で、田中が不安そうな目を向けている。
「すんません。先輩は堅気の人間なのに、こんな厄介な相談して……」
「他に相談できる奴はいないのか?」
「俺は組の中でも一番下っ端なんすよ……頭も悪いし、ガタイも良くないから遣い走りくらいしかやったことなくて、兄弟分もいないし。それでも、優しくしてくれてた兄貴とかもいるんすけど。でも、今回の失態はハンパなくヤバくて、みんな知らんぷりっすよ」
今にも泣きそうな顔をする。
胡桃澤には田中が何を言いたいのかが予測できた。
「ようするに、俺にデータの奪還を手伝ってほしいと?」
「お願いします」
「無茶言うな」
「そこをなんとか」
「さっきも言った通り、俺はただの堅気だ」
「でも、先輩ならできると思うんすよ」
田中は頭を下げる。
その茶色に染まった頭は、一向に浮上してこない。
時が止まったようにそのままだ。
田中がわざわざそんな相談事を持ってきたのには、それなりの理由と目論見があってのことだと胡桃澤は感づいていた。
相変わらず蝉が煩い。
この時期に鳴くのはツクツクボウシだ。
いつ鳴き止むのか耳を凝らしてみる。
胡桃澤は座卓の上に肩肘をつき、頭を乗せたまま、田中の頭を眺めていた。
ボブ・ディランの曲をかけていたのを忘れていた。
音量を小さくしていたので、今になるまで気づかなかった。
胡桃澤の好きな『ミスター・タンブリンマン』が流れている。
「……どんなデータなんだ? 記憶媒体は?」
胡桃澤がそう言うと、田中は頭の位置をそのままに顔だけ上げる。その表情は一条の光が舞い降りたと表現できるような歓喜の表情だ。
田中は胡桃澤のこの言葉を了承と受け取り、説明を始める。
「データはCDになってるんすよ。つまりはコピーされたものなんすけど、それが出回ったら取引相手や末端価格まで全部わかるんで、警察だけじゃなく他の組織にもバレるとまずいんですよ」
「それは確かに大変だ。で、データは誰が持ってる?」
「いや、銀行っす」
「銀行?」
「はい」
「あの……お金預ける銀行?」
「はい。俺が集めた情報だと、銀行の貸金庫に預けているようで」
田中は正座していた足が痺れてきたのを我慢していた。
小柄な体が、もそもそと動く。
「……銀行ねぇ」
胡桃澤は田中を見据えたまま話の内容を咀嚼するように、くわえていた煙草のフィルターを甘噛みする。コンポの方へと目をやると、ディスプレイに五曲目のタイトルが表示されているところだった。
田中も同じようにそちらを見る。
この曲は田中も憶えていた。
はじめて二人が出会ったときにも同じ曲が流れていた。