副作用
制限除去薬。
ニュースやネットなどから、その存在は知っている。制限薬で設けられた異能力の限界値を破壊する、まさに制限薬と真逆の作用をする薬のことらしい。
使用するのは違法で、警察からは薬物犯罪と同じような取り締まりを受けることとなる。
今、手にしている薬が本当にそういう類の代物なのかは分からない。ただ、歩く岩石と化した金髪男の姿を見て、その薬のことを連想しないほうが難しかった。
しかしこのことについて、深く考えるほどの時間は残されていない。もう既に八瀬は満身創痍なのだ。
手にしたカプセルには、青と赤の突起が一つずつついている。水島はまず青の突起を押してみた。
するとカプセルの先端からシャーペンの芯よりも細い針が、飛び出てきた。
ということは残された赤い突起は、液体を注入するためのものだろう。水島はそう推測した。
彼は袖をまくったほうの腕に、針を突き立てる。
だが、肌に刺し込むにはまだ迷いがあった。
この液体を体内に流し込んだ瞬間、犯罪者となってしまう。その事実が水島の覚悟を鈍らせていた。さらに、無能力者がこの薬を接種したとして果たして効果があるのかという疑問が付きまとった。
しかし、血を流して苦しんでいる八瀬を黙ってみているわけにはいかなかった。
彼女は力を振り絞り、体を起こそうとしている。その傍にゆっくりと金髪男が近寄ろうとしていた。
ほんの一瞬、錯覚なのかもしれないが、水島は彼女と目が合ったような気がした。蓄えられた涙が見えたように感じた。
瞬間、水島はほとんど無意識のうちに、針を腕に突き刺し、赤い突起を押していた。
緑の液体が体内に入っていく。全て入りきった後、彼は金髪男ならぬ岩石男に向かって突進した。
能力のリミッターが外れたのかどうかは分からない。大体、無能力者に薬の効果があるのかどうかすらも不明だ。だが水島は立ち向かった。八瀬晴夏という一人の女性を助けるために。
水島は、岩石男の腰のあたりをがっしりとホールドした。
岩石男が、水島を振り払おうと岩の拳を勢いよく放つ。見事に命中し、水島は吹っ飛んだ。石でできた記念碑のようなものに派手にぶつかる。記念碑は垂直に亀裂が入り、真っ二つに割れた。
いままで受けたことのない激しい衝撃。にもかかわらず、水島は傷一つ負っていなかった。それどころか信じられないことが彼の体におこっていた。
右腕が岩石と化していたのだ。その他にも、全身が硬い石のように硬質化されている。まるで目の前にいる岩石男のようだった。
「一体……」
どういうことだ、と疑問がわいた。が、今は目の前の敵を倒し、八瀬を助けるのが最優先だった。水島はもう一度、こちらに背を向けている岩石男にタックルを試みる。
衝突した岩石男は、前のめりになって倒れると、勢いよく地面を転がっていった。樹木に、どしんという音を立ててぶつかり、ようやく止まる。
「……お、お前……」
岩石男が苦しそうな声を上げる。予想外にダメージがあったようだ。まさかそんなにも効くとは思っていなかったので、水島は驚きの表情を浮かべた。
「ざけんな!」
言葉とともに、岩石男は跳んだ。十数メートルの跳躍をみせる。そのまま拳を握り、水島めがけて落ちていく。
水島もそれに対抗するように右拳を構えながら、空中の岩石男に向かって跳んだ。そして、岩石男が拳をふるうよりも早く、彼の腹部を拳で貫いた。
岩石男はさらに十数メートル浮上し、弧を描いて落ちていく。校舎の三階にかかる渡り廊下の壁に叩きつけられると、その衝撃で砕けたコンクリートの破片が、空中を舞った。それから地面に自由落下する。
地面に直撃し、仰向けになった岩石男は体を起こそうとした。が、全身に力が入らないのか、プルプルと震えるだけで、その試みは叶わなかった。
直後、彼の姿は、元の金髪男に戻っていった。
水島はその様子を眺める。「勝った……のか」
呆気なさすぎる、と彼は驚いた。さっきまで絶望感を与えていた男は、どこに行ったのか。信じられないほど、一瞬で勝負が決まってしまった。しかも自分の勝利という結果だ。
水島は自身の腕を見る。そこから岩石は消えていて、普通の腕に戻っていた。全身の硬質化も解かれているようだ。
一体何だったのか。もしかして自分の潜在していた能力はこの金髪男のものとよく似たものだったのだろうか。
いや、考えるのは後にしよう。何にせよ、無能力の自分でも薬の効果があって良かった。
そしてすぐさま、彼は八瀬に近づいた。
早く、病院に連れていかないと。
そう思って、微かに呻き声をあげる彼女に触れようとした時だった。
水島の体に激痛が走った。
「……ッ!」
意識が飛びそうになるほどの痛み。だが、かろうじて彼は踏みとどまった。
『副作用』という言葉が瞬時に彼の頭をよぎった。
膝から崩れ落ちそうになるのをこらえる。
突如として、目に映る世界が真っ赤に染まった。
何だ、これ。
さらに段々と明度が低下していって、静脈血のような赤黒い色に変色していく。
ぐにゃりと至る所の風景がゆがみ始める。八瀬のいる場所も歪曲していった。
水島は何回も目をこする。しかし、世界が元に戻ることはない。それどころか酷くなる一方だ。加えて体の内側から、引き裂かれるような痛みが断続的に発生した。
彼は痛みに耐える呻き声を上げ続ける。体中が沸騰するかのように熱くなっていく。大量の涙と唾液が溢れ出て、あっという間に顔中が液体まみれになった。
平衡感覚も減衰していく。同時に嘔吐衝動が襲った。
その直後、歪んでいた空間全てから、二足歩行の黒い『物体』が出現した。
生物ではない、ように水島には見えた。ただひたすら恐怖と危険を感じる『何か』だった。
逃げなければ。
まともな思考回路を遮断された水島でも、それだけは理解することができた。生物としての本能が訴えかけてきたようだった。
この時の彼の頭から八瀬の姿は完全に消え去っていた。
激痛と吐き気と狂わされた平衡感覚を抱えて、水島は赤黒い世界の中を走りだした。するとすぐに黒い物体たちが彼のあとを追うように飛んでいく。
この世界の出口を探すように、水島はひたすら走って、走って、走り続けた。顔を覆う液体が血に変わっていった。
どけだけ経っただろうか、息も上がり体力の限界が近づいていた時に、彼の頭に突然衝撃が走った。
糸が切れたように彼は地面に崩れ落ちる。そのまま、意識を失った。