異能力
十二月三日。午後九時三十分――
ざーざーと激しく降っていた雨が止んだ。
相田清人は暗闇の中を進み、ある廃墟ビルの前で足を止める。
「ここだな」と彼はビルを見上げて言った。
『ああ、そこで合ってる。気をつけろよ』
耳につけたインカムから男の声が聞こえてくる。相田にとっては聞きなれた声だった。何度も共に死線をくぐり抜けてきた仲間の声だ。
「誰に言ってる」
相田は軽い口調で言葉を返し、サイレンサー付きの拳銃を取り出した。スライドを引いてコッキング状態にすると、ビルの入り口に近づく。
「突入する」
『慎重に』
短いやりとりをして相田はビルの中に足を踏み入れた。光は月明りのみだ。
歩みを進めていき、やがて階段にたどり着いた。
だが上の階に上がるのは、この階を探索してからだ。
相田は階段を無視して左の部屋に入る。机と椅子が幾つか散乱していて、コンクリートの破片が床に散らばっている。
銃口を地面に向け、じりじりと足を動かしながら部屋を見回す。
後ろから物音がした。
素早く振り向き、拳銃を水平に構える。ゆっくりと部屋の入り口を抜けると、動く影を視界に捉えた。
にゃーという鳴き声。音の主はその身軽な体を活かして、即座にその場を立ち去った。
猫か。
相田はふっと息を吐いた。そして月明かりに照らされた地面を見て違和感に気づく。
「――な訳ないよな!」
振り向きざまに二発の弾丸を撃ち込む。すると『何か』が彼の腹に勢いよくぶつかった。
数歩後退り、バランスを崩す。倒れるのを何とか踏みとどまると、前方に銃を向けた。
「見えたか?」
『ああ、やはり赤外線には引っかかるみたいだ。しかし全体的にぼやけていた。着実にレベルアップしている。じきにこのカメラでも捉えられなくなるぞ』
「すぐにケリをつけるしかないな」
相田は、インカムにつけられたカメラの位置を調整し、階段を駆け上がっていった。
『それにしても、キヨ』インカムから軽い声。ちなみにキヨは相田のあだ名だ。
「何だ?」
『見事に二発外していたけど、腕がなまったか』
相田は微かに笑みを浮かべる。「試し撃ちだ。次は当てるさ」
『期待してるよ』
なまったのかもな、と相田は心の中で言った。最近、こういう任務少なかったし。
集中だ。集中――。
相田は一層険しい顔になり、眼光を鋭くした。
すぐ目の前にドアが現れる。片手で銃を構え、もう片方の手でドアをゆっくりと開けた。
即座に部屋に入り、視線を右から左に移していく。
「反応は?」
『いいや』
ここは外れか。そう思いながら壁際に並んでいるロッカーを見つけた。
「あのロッカーはどうだ?」
『特に何も……いや、今一瞬微かだが反応が――』
「わかった。調べる」
相田はロッカーに近づいた。銃を構え、勢いよく扉を開ける。
『キヨ、隣だ!』
その言葉と同時に右隣のロッカーが開き、相田の頬に透明な物体が直撃した。
殴られた……!
そう認識すると咄嗟に相田は、自身の左拳を攻撃された方に高速で突き出す。
だが拳は空を切る。
『後ろだ!』
インカムからの言葉の直後、相田の首が絞められる。
ヘッドロックだ、と相田は瞬間的に後ろに肘打ちを放つ。手ごたえを感じ、首が楽になった。
銃口を暗闇に向け、引き金を引く。弾丸は窓ガラスに当たった。破片が飛び散る。
『当てるんじゃなかったのか』
「うるさい。敵は?」
『だめだ。見失っ――』
「もういい。能力を使う」
『はあ、最初からそうしろよなー』
相田は瞬きを一回した。すると目の前の地面に白く光る足跡が出現した。それはさっき割れた窓ガラスに向かっていた。
「下だ。奴は飛び降りた」
『マジか。追え。絶対逃がすな』
「逃がすか」
相田は走り、躊躇いなく二階から飛び降りた。受け身をとって地面への衝撃を和らげる。それから光る足跡を目で辿る。標的は前方十数メートル先にいた。足跡が順調に増えていくところを見ると、相田の前を真っすぐ逃亡中らしい。
相田は座ったまま銃を向け、照準を定める。
「反応は?」
『待て。よし、点滅しているが姿が見えた。もう時間がないぞ。完全な透明になってきやがった』
「サポートしてくれ。このまま撃って当たるか?」
『まるでFPSやってる気分だな』
相田は弾丸の行方を仲間の声に委ねた。
『もっと右だ。あと十センチ』
声の通りに狙いを調整する。
『よし。そこだ』
「ここだな」
相田はそう返すと、銃口を左斜め上に四センチ移動させ、引き金を引いた。
弾丸は見事遠くの標的に当たり、その場に灰色のパーカーを着た男の姿が突然現れた。
男が地面に倒れる様子を見てから、相田は立ち上がった。
『信頼してないのな』
「あのままだと当たらなかっただろ」
相田は早足で標的のもとに向かった。
灰色のパーカーが動く。相田は倒れた男に銃口を向ける。
「俺は死ぬのか」と男は相田を見ながら言った。
「安心しろ。麻酔弾だ」
「そうか……」
「まさか、俺の前を真っすぐ逃げるとはな」
「はっ、俺は透明人間だからな。いけると思った」
「いけなかったわけだが。判断ミスだな」
「くそ、もう一回やり直したい」
「何をだ? 人生?」
相田は銃で後頭部を掻く。
「まあお前にはこれから治療を受けてもらうことになるから。その前にきつい取り調べがあるけど」
「治療? なんの……治療……だ……」
「今は寝てろ」
はあ~、と相田は深く息をはいた。そして一回瞬きをする。彼の視界から光る足跡が消え、暗闇が戻った。
「これやると疲れるんだよな」
彼は自分の肩を揉んだ。
『キヨ、報告』とインカムからの声。
「ああ忘れてた。えっと午後九時三十六分四十六秒、任務完了。標的を無力化し、無事確保。救護班は必要ない。あとは回収班に任せる。これから本部に戻る」
『了解した。直ちに回収班を送る。任務ご苦労』
「はいはい」
相田は銃を懐にしまい、その場を立ち去った。