思わぬ縁
どこか後ろめたい”隠し事”を抱えた付き合いも、春を迎えた。
お花見に行きたいな、って話から、登美さんが弁当を作る、と言い出して。
一瞬、俺は腰が引けた。
「玉子焼きにビーズが入ってたりしない?」
「失礼ねぇ」
「悪いけど……ちょっとパス」
「ひどいっ」
「だって。どう考えてもマニキュアが、口に入りそうで怖い」
「入るわけ、無いじゃない」
「うーん。でも、生理的に、ゴメン」
実は、登美さんと付き合いだして……一ヶ月ほど経った頃。
仕事の関係で役所に出向いた俺は、そこで対応してくれた女性のマニキュアが、はがれているのを目にした。
はがれたマニキュアはどこへ行ったのか、と思うと、登美さんの爪の飾りも、何かの拍子で取れることがあるのかな、なんて考えてしまって。どうにも彼女のあの爪で炊事をしてもらうことに、ためらいがあった。
だから、登美さんと迎えた初めての朝、『ご飯の支度をする』という彼女を押しとどめて、喫茶店へ向かうことにしたのだけど。
そんな俺の顔をうかがうように、登美さんが覗き込んでくる。
「慎之介さん?」
「うん?」
「ネイル、嫌い?」
「好きではない、よ。結婚するなら、いつかは言わないと、とは思ってたけど」
「そう」
ため息をつくようにして、自分の爪を眺める登美さん。
今日の爪は、桜の花が描かれていた。
「それに。見ていて、確かにキレイだけど。爪が傷むんじゃないの?」
「……」
また、身を削ってない?
「ありのまま、でいいんだよ?」
「でも……」
「急がなくってもいいから。マニキュアを落とす決心ができたら、手料理を食べさせて?」
ここら辺で、”風紀委員のお説教”は終わり、かな。
次に会うとき、登美さんはきっと
マニキュアをしてきてない。
その予想は、大きく外れて。
次も、その次も。彼女の爪は、鮮やかに彩られていた。
お花見は……本当に花を見るだけで、近所の店で食事をして、と、代わり映えのしないデートだった。
そして、世間はゴールデンウィークに突入した。
今年はカレンダーの関係で、登美さんの会社は九連休とか。俺のほうは研究の区切りが悪く、前半は休日出勤まであって、その代休を含めた後半の五連休だけだった。
「丹羽」
「うん?」
「連休は、彼女とどこか行くのか?」
「うーん。近場でデート、かな?」
「五連休だぞ?」
「おまえは、連休が何日でも関係ないだろ? むしろ、仕事してたら彼女とは会えるんだし」
「へへへ」
昼時の休憩室で、うれしそうに水田が笑う。
水田のアプローチがやっと功を奏して、『小早川さんと付き合い始めた』と聞いたのは、去年の秋ごろ、だったか。
「で、水田は、どこか行くのか?」
そう尋ねた俺から視線を外した水田は、給食弁当の塩鮭をほぐす。
俺が筍の土佐煮を口に放り込んで飲み込むまでの間、鮭を突き回していた水田が、辺りをはばかるような声で言う。
「一度、麻里の実家に挨拶に行こうかなって」
「決まったのか?」
「いや、本決まり、では無いけどさ。誠意、かな?」
「そうかぁ」
「丹羽は? 見合いの彼女と、そんな話にはならないわけ?」
結婚前提、だろ? と言われて、苦笑いでごまかす。
俺は、登美さんを結婚相手として意識している。
ちらり、と、マニキュアの一件のときにも匂わせた。
けれど、そもそも。
俺自身が、隠し事を打ち明けられていない状態で。
彼女にプロポーズをすることは許されるのだろうか。
連休中のデートは、通称”東のターミナル”と呼ばれている、楠姫城市役所前の駅で待ち合わせの約束だった。
待ち合わせの十分前に改札について。
次の電車で、登美さんが降りてきた。
って、あれ?
「登美さん、どうした?」
怪我をした小動物のように、体にぎゅーっと力が篭っている。
顔色も心なしか悪い気がする。
電車で何か……まさか、痴漢?
黙ったまま立ち尽くしている登美さんを、観察するように眺めて。
そうか。手、だ。
体、と言うより、手に力が篭っている。それも、異様なほど。
それに気づいた俺は、両手で登美さんの右手を包み込む。
「何も無いわけ、ないだろ? こんなに肩にも手にも力をこめて」
登美さんが手を引っ込めようとするのを右手で阻止しながら、左手で手の甲をなでる。
嫌々、と頭を振る登美さん。
「ほら、力抜いてみな?」
怖くない、怖くない。隠しているものを出してみなよ?
根比べに負けたように、登美さんの腕から力が抜けたのが、右手に伝わる。その隙を逃さず、緩んだ拳の隙間に指を差し込んで、手を広げさせる。
「いや、見ないでっ」
最後の抵抗のように、指先を丸めようとする登美さん。
これは……。
「爪?」
半ば無理強いのように伸ばした指の先。
登美さんの爪はこの日。
深爪しそうなほど短く切りそろえられて、マニキュアが塗られていなかった。
そして、その爪は……変色していた。
それはおそらく。
マニキュアに使われた有機溶剤による、爪の変性。
「登美さん、ごめんな。つらかったよな、この爪で電車に乗るのは」
俺が背中を見せて歩くのと同じくらい苦痛だっただろうと思うと、俺のほうが泣きそうになる。
俺が泣くのは筋違いだと、ぎゅっと彼女の頭を抱え込む。
抱きしめる腕の力で……自分の涙を抑える。
そんな俺の腕の中で、登美さんの小さな声がする。
「気持ち悪い、よね?」
「いや。よくここまでがんばったな」
「がんばった?」
「キレイでいるために、身を削ったのも。俺のわがままに、付き合ってくれたのも」
「う、ん」
「ありがとう」
”彼女だけ”に背中を見せることすらできない弱い俺が、『ごめん』をいくつ重ねても、彼女には追いつけないから。
せめて、最大の謝意を篭めた『ありがとう』を。彼女の勇気に。
化粧を直しにお手洗いへ向かった彼女をしばし待って。
この日、二人で向かったのは、駅前のデパートだった。
今月末に結婚する従妹への祝いの品に迷っていた俺は、選ぶ手伝いを登美さんにお願いしていたので、生活雑貨のフロアへと上がる。
食器やタオルが並ぶフロアを二人で歩きながら、『登美さんの選ぶ物が近い将来、俺たちの新居に……』なんて考えながら、キラキラした目で商品を見比べる登美さんを眺めては、顔が緩む。
「そういえば、登美さんは大学こっちだったっけ?」
「うん。もっと西の方だけど」
配送の手続きを済ませて。
登美さんのお勧めのイタリアンの店に行こうか、なんて相談をしながら、ゆっくりとエスカレーターで一階に降りる。
出口に向かいながら繋いだ登美さんの手。
色のついていない爪を、撫でてみる。
素の登美さんに、触れたような気がした。
登美さんの道案内に従って、いくつか信号を越えたところで、細い路地にはいった。ひっそりと看板を出した店が立ち並ぶ。
そのうちの一軒から、長い髪を首の後ろで括った男が出てきた。
「あ」
かすかな声を上げて、登美さんが立ち止まる。
「トミィ、か?」
「りょう……」
その会話に、眉間にしわがよった。
『トミィ』って、登美さんが最初に呼ばれたがった名前だな。
それに、『りょう』って、名前。どこかで聞いたぞ?
『元気か?』なんて、会話を交わす二人を面白くない気分で眺めていて。
相手の男の顔が、過去の記憶を呼ぶ。
「亮、か?」
「丹羽、さん?」
呼びかけた俺に、男が目を見開くようにして、確認してくる。
やっぱりそうだ。
眼鏡をかけてはいるけど
高校の二年後輩。年末の飲み会で、芸能人になったと噂で聞いた奴。
なるほど。登美さんと同い年、な。
で、
「おまえが、『りょう』か?」
登美さんが寝言で呼んでいた奴だな。
そして多分。登美さんに、余計な虚像を作り上げさせた犯人の一人。
腹立ちのまま、パンチを一発、お見舞いする。
腹を押さえた亮が、俺にすがりつくようにして咳き込む。
しまった。マジで、入ったか。
軽く、背中を叩いてやる。
「ちょ、丹羽さん。おもっきり入ったんすけど」
「おもっきり入れたからな」
ここまでキレイに入るとは思ってなかったけど。
亮が恨めしそうに、俺の顔を見上げてくる。
「いきなり、何ですか?」
「登美さんに、余計な”色”をつけやがって」
「……訳、判りませんって」
「『トミィ』なんて呼びやがって。おまえ、登美さんの”昔の男”だな?」
「ええっと……まあ、その……」
言い淀む亮に、むかっ腹が沸いてくる。
「もう一発、殴らせろ」
「勘弁してください。今日は夕方、仕事なんですから」
「仕方ないな」
最後に一発、背中をどやしつける。
「トミィ、丹羽さんと付き合ってるのか?」
立ち直った亮が、馴れ馴れしく登美さんを呼ぶ。
「『トミィ』って呼ぶな、他人の彼女を」
「うわ、すいません」
今度は、奴の頭を叩く。
バレーボールを叩くほどの力は込めてないから、亮も笑って頭を抱えてみせる。
唖然、て感じで言葉も出ない様子だった登美さんが、俺を呼ぶ。
「りょう と、知り合い?」
「高校の部活の後輩」
「はぁ?」
「だから、キリや俺の後輩」
そう答えると、登美さんの目が丸くなった。
「りょう、バレーしてたの?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてない、と思う」
登美さんが、面白くない、って顔をする。
「こいつのバンドのボーカルも、だぞ。バレー部の『大魔神コンビ』が、文化祭で組んだユニットが元、だよな」
半年前までは、俺も知らなかったけど。
年末の飲み会が、役に立ったな。確かに、ちょっとはテレビとかを見たほうがいいのかもしれない。
他愛ないやり取りに、ゲラゲラと高校時代と変わらぬ笑い声を立てていた亮は笑いを収めると、登美さんに向かって『幸せにしてもらえ』なんて、他人事みたいに言う。
そんな亮に登美さんは、穏やかに凪いだ表情で尋ねた。
「りょう は、今。幸せ?」
亮も、静かな笑顔で答える。
「初めて、俺を本名で呼んでくれるヤツと、人生が重なった」
と。
「そうか、『りょう』じゃなかったんだ」
「うん。それは、ステージネーム」
そんな会話を交わしている二人にとっては、互いのことは過去なんだろうけど。
本名を知らない、彼氏って……。
登美さん、それ、はおかしいだろ?
こっそりため息をついている俺に、気づいたのか。
「丹羽さん、そろそろ失礼します」
そう告げた亮が俺に頭を下げて、立ち去る。
それを二人で見送っていると、曲がり角で振り返った亮が、左の握りこぶしを上げた。
そして。三本指を立てて、次に一本。
なんだ、あれは?
「Aクイック?」
いや、違うか?
二十年近く昔になるバレー部の作戦サインを思い出そうと、手を握ったり開いたりしてみるけど。
どうも、思い出せない。
そんな俺の手に、登美さんの手が乗る。
「いいじゃない。何でも。それよりご飯に行こう、ね?」
何かをごまかされた気がしたけど。
まっすぐに俺の目を見つめる登美さんに免じて。
見なかったことにしてやるよ。
な、亮。
そのまま、数軒先にあるイタリアンの店に入って。
注文したピザを取り分けてくれている登美さんに、
「そう言えば、登美さんは亮の本名を知らなかったんだ?」
と、さっき気になったことを尋ねてみた。
「うん。『りょう』だと思い込んでいた。他のメンバーも、本人も否定しなかったし」
「で、あいつは『トミィ』って?」
「私が『登美なんて、お婆ちゃんみたいな名前』って言ったら、『じゃあ、トミィって呼んでやるよ』って」
俺の前にとり皿を置いて。自分の分を取るために手を伸ばしながら、肩をすくめて見せる。
「なんだか、変な関係」
「そう?」
「本名を教えない恋人って、どう考えてもおかしいよ? そのクセにあいつ、『本名を呼んでくれるやつに”やっと”出会えた』って、ひどすぎるじゃないか」
あ、言っていて余計に腹が立ってきた。
もう一発、殴っておくべきだったか。
腹立ち紛れにピザに噛み付いた俺を、登美さんは笑いを含んだ声でたしなめる。
「私も、やっと”素のままの私”を見せられる人に出会えて、幸せよ?」
俺と出会えて、幸せだと、言ってくれるのか?
胸に迫るものをピザと一緒に飲み下す。
取り分けたピザを見つめるようにして、登美さんが話し続ける。
「もしも、りょう と付き合いを続けていたとして、私がありのままの自分を見せられる日は永遠に来なかったと思う」
「……」
「装って、装って、装い疲れて。遅かれ早かれ、いつかはダメになってたんじゃないかな」
「そうか」
「たぶん、だけどね。りょう も『亮に戻してくれる相手』って言ってたじゃない? 私といるときは、ずっとステージ上の『りょう』だったんだろうね」
「変な恋人同士だな」
「十代、だったから。背伸びをしてた、かも」
十代、な。
ピザをかじる登美さんを眺めながら、考える。
登美さんは市外の出身だから、高校時代の付き合いは無いとしても。
亮が、最初の男、と考えるのが妥当な線だろう。
「あいつとの恋愛が、登美さんの人生を左右したのかもって思うと腹が立つ」
「そう?」
指についたチーズを舐めとった登美さんが、首をかしげる。
「うん。最初が変な恋愛だったから、その後まで妙な男に引っかかってきたんじゃない?」
「うーん?」
「納得いかない?」
「りょう がどうこうじゃなくって、私が背伸びの方向を間違えてたんじゃないかな、って気がする」
そう言って、登美さんは、残ったピザを口に入れた。
背伸び、な。
高いヒールを履いて颯爽と歩く彼女も、室内ではモコモコしたスリッパでペタリぺタリと歩いている。
心の内側で履いている見えないハイヒールも、俺の前ではスリッパに履き替えればいい。
『装い疲れた』なんて、俺には言わないで。