看病
登美さんのマンションのエントランスを出た俺は、さっき見かけた看板をあてにして、シャッターの下りた花屋の角を曲がる。
タクシーを降りたバス停の向こう側に、”クスリ”と、大書きされた目的の店に灯りがともっているのが道路のこちら側からも見えて、ほっとする。
それと同時に、さっき耳にした登美さんの叫び声が蘇る。
『ヤッテもいいから、そばに居て』ってなぁ。俺、そんな奴だと思われているのか?
腹立ち紛れに、足元の吸殻を蹴って。
青へと信号の変わった、横断歩道を渡った。
モヤモヤとした苛立ちを抱えたまま、薬屋の店内に入る。
薬屋というか……これは、ドラッグストアと言うべきかな?
グルリと店内を見渡して、奥のカウンターへと向かった。
途中の陳列棚で見かけた柚子茶の瓶ををなんとなく手に取る。確か、ホットレモネードみたいなものだったよな。
キーホルダーを握って、小さく震えていた登美さんの手を思い出す。
これで、彼女を少しは温めることができるだろうか。
カウンターの薬剤師に相談に乗ってもらって選んだのは、カフェインのせいで風邪薬が飲めない俺が時々お世話になっている漢方薬。それと一緒に、冷却シートやレトルトのお粥、さっきの柚子茶も買った。
レジ袋を片手に、戸口へと向かう途中。偶然、目に入った避妊具の箱は……恨みを込めて、睨んでおく。
登美さん。ヤらなくっても、今夜はそばに居てあげる。
ただ一言、『寂しい』って言えば良いだけだよ?
来た道を辿って、登美さんの部屋へと戻る。
さっき出てくるときに戸締まり用に拝借した彼女の鍵をシリンダーに差し込んで。何気なく引いたドアは、思わぬ力で引き戻された。
俺の手から、ドアノブがすり抜け、大きな音を響かせて閉まった鉄製のドアを、呆然と眺める。
ドアチェーンをかけられた?
そろっと注意しながらもう一度引っ張ったドアが、辛うじて手が入るくらいのところで止まる。やっぱり、ドアチェーンがかかっている。
買い出しに行っている間に、戸締りをして寝てしまった、か。そう言えば俺、行き先も告げずに出てきてしまったっけ。
隙間から買ってきた物を差し込むのも、無理そうだし。
そんなことを考えながら覗き込んだ薄暗い室内で、携帯電話のバックライトらしき明かりが灯った。
と、同時に尻ポケットで携帯が震える。
薬屋で貰ったビニール袋を下げた右手で、苦労して携帯を取り出す。
着信の画面は……登美さん。
[慎之介さんっ、たすけてっ]
通話が繋がるなり、登美さんの悲鳴のような叫び声が耳を打つ。
[玄関に、誰かいるの。怖い。戻ってきてっ]
誰か、って。俺なんだけど。
気づいてもらおうと、差し込んだ指で軽くドアを叩く。
[登美さん、俺だから。ここ、開けて]
ヒックヒックと、しゃくりあげるような声だけが聞こえる。
うわぁ。どうしよう。泣かせてしまった。
[登美さん、聞こえる?]
[し、のす、け、……ん?]
[うん。ごめん、脅かして」
ドアの隙間から、這うように近づく人影が見えた。
ドアチェーンをあけてもらうために、一度ドアから手を離した俺は、何も持っていないほうの左手を顔の前に立てて。
『ごめんなさい』のジェスチャーをして、ドアが開くのを待った。
金属の触れ合うかすかな音が聞こえて、そっとドアが開いた。
真っ赤な目をした登美さんが、見上げてくる。
そして、目が合った瞬間に。
ヘタヘタと、靴脱ぎ土間に崩れ落ちた。
そんな彼女と目の高さを合わせようと、俺もしゃがみ込む。
「本当に、ごめん」
「なんでぇ?」
ボロボロと涙を流しながら、登美さんが出会った頃のような幼いしゃべり方で尋ねてくる。
「うん?」
「鍵ぃ……」
「登美さん、かなりつらそうだったから。出て行く時に鍵をかけるために、さっき使った鍵をそのまま拝借した」
あ、俺。無断拝借……。
登美さんの言葉に動揺したというのは。
言い訳にもならない。
『さっきの鍵?』とか呟いた登美さんは、少しの間考えこんで。
なるほど、というように両手を軽く叩き合わせた。
それはそうとして。
部屋の奥の方からシュンシュンと、湯気の立つような音がかすかに聞こえている。
「登美さん。ガス、使ってない?」
「あー、ヤカン」
おいおい、危ないなぁ。
『ガスをつけたら、離れない』は、鉄則だろ?
急いで靴を脱いで、コンロの火を止めに部屋へと上がる。
手近にあった鍋つかみを使って持ち上げたヤカンは、傾けるとジュンと危なげな音を立てたけど。
空、の手応えではなし。
ホッと息をついた俺は、玄関に戻った。
玄関先で部屋の中を見るように体を捻ったまま、”お地蔵さん”になっている登美さんの後ろにしゃがみ込む。
「何、しようとしてたわけ?」
「湯たんぽと、生姜湯」
「なるほど」
おばあちゃんの知恵袋、だな。
なんて、思いながら抱え上げた登美さんは。
モコモコしていた。
普段の寒々しい服装とは違って、タートルネックにフリースを重ね着して。長いスカートから覗く足元は、暖かそうなスリッパを履いていた。
そして、化粧を落とした顔に、度の強そうな眼鏡。
化粧の力って、すごいなぁ。
別人、は言い過ぎだとしても。
まつ毛の長さから、唇の色まで。いつもの登美さんとは違う。
でも、その気を抜いたような”彼女の本当の姿”が、逆に新鮮で。
いつもよりも、なんだか壊れやすい割れ物のような気がして。
「生姜湯、か。確かに、温まるな」
そっとおろした彼女の頬を両手で包む。
燃えるような体温が、掌に伝わる。
「うん。たまに風邪をひいても、それで治るから」
さっき薬屋へ行く前にも小さい子のように、『クスリ、嫌い』とか言ってた登美さんの”素朴さ”に触れた気がする。
これがたぶん。
”in vivo”な、彼女の姿。
「さっきのお詫びに、俺が作ろうか?」
「お願い、してもいい?」
「うん。生姜と蜂蜜、だっけ?」
「ええっと。その戸棚に、マグカップと”生姜湯の素”があるから。それを使って?」
ベッドの上から指さす方向。
白い戸棚に収められた、オフホワイトのマグカップ。その横にサプリの瓶と並んで、”しょうがゆ”と書かれた箱が確かにある。
ある、けど。
「登美さん、これ空」
「あー」
空き箱を手に振り返ると、登美さんが天井を仰ぐ。
「昼間飲んじゃったっけ」
「昼間?」
「うん。ちょっと寒気……」
おい。昼から寒気がしてたなら。
待ち合わせの時には、すでに具合が悪かったんじゃないか。
「『さっきから調子が悪くって』じゃないよね? それは」
手にしたマグカップを、調理台に置いて。
ベッドサイドに膝をつくと、登美さんはバツが悪そうに顔を背けた。
「……」
「昼から調子が悪かったなら、ちゃんと言いなよ。それにもっと暖かい格好しておいで。今みたいな」
『頭寒足熱』って、言うだろ?
せめて、足元だけでも暖かくしてきたら……ここまでこじらせないだろうに。
しんどくなってきたのか、登美さんがベッドに倒れ込む。
生姜湯、よりも。
早く薬を飲ませたほうがいいな。
好き嫌いは、別として。
買ってきた漢方薬をお湯に溶く。
そのまま飲んでもいいのだけど。『漢方薬は香りも効き目のうち』と、かかりつけの薬屋で聞いたことがある。
起き上がって貰った登美さんに、マグカップを手渡す。
一口飲んで、やっぱり顔をしかめる。
「不味いぃ」
「我慢して飲みなよ」
確かに、良薬は口に苦し、を地で行くような臭いと味だけど。
少しでも楽になって欲しいから。
我慢して、飲もうな。
「慎之介さん、飲んだことあるわけ?」
「俺、市販の風邪薬飲めないから」
「へ?」
「総合感冒薬って、基本カフェインが入っているんだよ」
「ほー」
そんなことを話しながら、一口啜っては、唸り声を上げる登美さん。
よっぽど不味いらしい。
なんとか彼女が薬を飲み終えた後。新たにお湯を沸かして、湯たんぽを作る。
その間にパジャマに着替えた登美さんは、眼鏡をカラーボックスの上に置くとベッドに潜り込んだ。
掛け布団で、首もとをギュッと包み込んであげながら、
「とりあえず必要な物も、買ってきたから」
と言うと、微妙にずれた視線で俺の顔を見上げてくる登美さん。
「必要なもの?」
「うん。明日の朝ごはんとか。レトルトのお粥だけど、いい?」
「それはいいけど……」
「ヤらなくってもいいから、一晩ここに居るよ」
さっきの彼女の言葉を根に持ちすぎ、と、自分でも呆れるけど。
「いいの?」
布団から顔だけを出した登美さんは、ものすごく申し訳無さそうな顔をした。
「っていうかさ。どうして、そこで”ヤル”ことを引き合いに出すのか、俺には理解できないんだけど?」
「だってぇ。今まで”ヤレない状態”でカレシと一晩過ごすなんてありえなかったしぃ。何か”お願い”をしたときは、『御礼に』って……」
「あんまり聞きたい話じゃないけど。今までの男って、そういう奴ばっかりだったわけ?」
「うーん」
目を瞬いた登美さんは、否定をしなかった。
なんだかもう……俺まで熱が出てきそう。
登美さんの寝息の音とハモるように、エアコンが低く稼動音を立てている。『乾燥は風邪に良くない』と聞くから、少しでも加湿になるかと、ヤカンに残ったお湯をコンロに伏せてあった片手鍋にあける。
そこまでしてから、ローテーブルの横、彼女の寝顔が見える場所に腰を下ろす。そのまま仮眠を取るつもりで、毛布代わりのコートを肩から羽織った俺だけど。
どうにも睡魔が訪れる気配もないので、ローテーブルに肘をついて、眠る彼女を眺める。
「……りょ、ぉ」
「うん?」
「りょぉう。違った、の、よ?」
「登美さん?」
呼びかけても返事がないところを見ると、寝言、か。
りょう、なぁ。
”りょうすけ””りょういち””りょうた”……と、色々なパターンの”男の名前”が浮かんで。かつて登美さんと関係のあった男の名前、の気がする。
登美さん。
そんな奴、思い出すな。熱にうなされて、他の男を呼ぶなよ。
そばにいるから。隣にいるのは俺だから。
辛いなら、他の誰でもない。
俺を呼んで。
夜中に目が覚めたらしい登美さんは、うなされていたのが嘘のように『寝汗をかいた』とバスルームで着替えをしていた。
熱が上がりきったらしい彼女に、水分を補給をさせるために一緒に柚子茶を飲んで、彼女が出してくれた綿毛布に包まって、俺も寝なおす。
翌朝、大分楽になったらしい登美さんと、差し向かいで初めて朝食を共にした。
夜明けにコーヒーを飲むことのできない俺だけど、こんな風に、彼女と三食を共にする日がいつか……近いうちに来てくれるといいなぁ。
そんなことをボンヤリと考えながら、お粥の湯気で曇った眼鏡をフリースの袖口で拭いている彼女を眺める。そのまま眼鏡を脇においた登美さんは、改めて手にしたスプーンで掬ったお粥にフーフーと息を吹きかけて冷ましている。
「食欲、もどった?」
「うん。昨日よりは」
「そうか。良かった」
「薬って、効くものなのねぇ」
その言葉に、サンドイッチが変なところに入って、咽る。
紙パックのアップルジュースで何とか流し込んで。
「登美さん、さっきのは俺の仕事、全否定」
「あれ? そう?」
「そう。”効く薬”を作るために、日夜研究を重ねているのに」
「だったら、カフェインの入ってない風邪薬作ればいいのに」
お説ごもっとも、だけど。
「会社の方向性が違うからね」
「へぇ」
『俺は、この薬作りたいんです』なんて訳にはいかない。それぞれが好き勝手に研究していたら、会社が潰れる。
登美さんの会社だって、好き勝手に社員が仕事をしているわけじゃないだろ?
ざっと片付けをして。
「登美さん、柚子茶飲む?」
「うん」
夜中に飲んだ時、『おいしぃい』と溜息をついて微笑んだ彼女の顔を思い出した俺の提案に、登美さんが嬉しそうに頷いた。
湯気の立つマグカップを熱そうに両手で持った彼女が、幼女のようにそっと口をつける。その唇は、いつもの艶やかな紅の色をしていないけど。
温もりに解けた唇を、つい。眺めてしまう。
そういえば。
この口が。
昨日の夜は、下ネタを連発していたんだよな。
「あのさ、登美さん」
呼びかけた俺の声に、登美さんが首をかしげる。
「昨日、なんていうか、その……結構、きわどいこと叫んでたじゃない?」
「きわどい?」
「うん。下ネタ的な」
「叫んだ、と思う」
「あれ、やめたほうがいいんじゃないかな?」
昨夜目にした”素朴”な彼女の素顔から考えたら、『ありえない』と思うけど。
「登美さん、子供時代にそういう話題を平気でする人が身近にいるような環境で育った?」
「……ううん。べつに」
と言いながら、登美さんの視線が遠くに彷徨う。
いったい彼女の過去に、誰がどんな影響を与えたというのだろう。
物思いに耽る彼女を眺めながら、口をつけたマグカップをテーブルに戻す。コトン、と思いもよらぬ大きな音がした。
その音に呼ばれたように、登美さんが俺を見る。
さて。そろそろ、風紀委員の出番だ。
「ああいうことを言ってると、男に軽く見られるよ?」
「軽い?」
「そ。『遊ぶのに丁度いい、軽そうな子』って」
「そうかなぁ?」
「そうなの。考えてみなよ。今までの男、登美さんのことをどれだけ大事にしてくれた?」
「大事に?」
「そう。ヤル、ヤラないに関係なく、登美さんのこと考えてくれた男、居る?」
黙りこんでしまった登美さんに、男だけの酒の席で何度か耳にした事のある会話を論拠に、言葉を重ねる。
「下ネタに躊躇しない女の子、って、男から見て近寄りやすい分、大事にもされないよ」
「……」
眼鏡越しに上目遣いで俺の顔を見ながら、柚子茶をすする登美さんが『納得いかない』って顔をしている。
ここは、ちょっと。例え話をしようか。
「登美さんさ、使っている財布とかバッグってブランド物だよね?」
「あー。うん」
「それを買った店と百円ショップ、どっちが入りやすい?」
「うーん。百円ショップ」
「で、どっちで買ったものを大事にする?」
「それは……やっぱり、ブランド物の方」
「だよね。それと一緒だよ?」
残り少なくなった柚子茶を飲みきって。
改めて見た登美さんは、爪の先でなにやら模様を描くようにマグカップの表面をなぞっていた。
「そんなに、熱が上がりそうなほど考え込まなくってもいいと思うけど」
「……うん」
「言葉遣いの一種だよ? この二ヶ月ほどで語尾がマシになったのと、変わらないって」
柚子茶を飲みきったらしい登美さんの分と、二つの空になったマグカップを手に立ち上がる。
流し台でカップを洗いながら、登美さんの動かない気配を背中で感じる。
登美さん。
”百円ショップ”から、”敷居の高い店”に、商売替えしなよ。
登美さんの大事にしているブランド品が足元にも及ばないほど、大事にすると誓うから。
その日は、お昼過ぎまで登美さんと過ごして。
翌週のデートを約束して、俺は自宅へと戻った。