表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/14

バレンタイン

「お泊り?」

 登美さんはそう言って、肩から流れ落ちた髪を軽く指先で背に流す。

「うん」

 その指に触れたい、髪を撫でたい。

 それ以上に。

 彼女の唇に……もう一度。



 先週のデートで近づいた登美さんとの距離に、俺は結局、捕まってしまった。

 この一週間、寝ても醒めても登美さんのことを考えている。

 まさに、恋は盲目。 

 俺は、自分の背中の傷のことも、見えなくなっていた。



 そして、迸る恋情の勢いに背中を押された俺はこの日、彼女にひとつの提案をした。

「バレンタインの直前に三連休があるだろ? そのあたりで俺の部屋に」

「うーん」

 どうしよっかなぁ、なんてつぶやいた彼女が俺の顔をじっと見つめる。


 その目に引き込まれそうになった俺に、彼女の顔が近づいて……くる。

「じゃぁ、少し早めのバレンタインに、『私を ア・ゲ・ル』」

 いつもより若干ハスキーな声に、耳元でそう囁かれて。

 一気に頭に血が上った。

 まずい。

 顔が真っ赤になっている。

 

 クスクスと笑い声が聞こえた。

 年甲斐も無く赤くなった顔を、登美さんに見られた。笑われた。

 『終わった』と、思いながら登美さんを恐る恐る見る。


 登美さんの笑顔には、嫌悪やあざけりの色はなかった。

 いたずらに成功した時のような楽しげな光だけがその目に踊っている。


 その表情に、俺の肩の力がすとんと抜ける。

 なんだ。先週と同じように、俺の反応を楽しんでいるだけじゃないか。


「登美さん、俺で遊んで楽しい?」

 笑い続ける登美さんに軽くヘッドロックを仕掛ける。

 頭蓋骨の感触がコート越しの腕に伝わる。

 女性の頭って、なんて華奢なのだろう。 

 俺の手なら、片手でつかめそう。バレーボールより、絶対に小さい。

「痛ぁい。離してぇ」

 登美さんがコーヒーカップを包み込むしぐさのように。この頭を、俺の両手で包み込んでみたい。

 だから。

「ダメ。言葉が戻ってるから、離さない」

「それ、今はぁ関係ないぃ」

 理由なんてなんでもいい。

 ジタバタと腕の中でもがく登美さんから、手を離したくない。



 格闘技のギブアップみたいにバンバンとコートの腕を叩かれて、しぶしぶ手を放した。

 登美さんは、上気した頬を膨らませて、俺を睨んでくる。

「もう」

「こっちが『もう』だよ」

「でも、チョコレートより、良いんじゃないの?」

 みだれた髪を手ぐしで整えた彼女が、ニッと笑う。

「……それは、そうだけど」

 頷いた俺を見上げる登美さんの指先がきれいに紅の塗られた唇をたどる。

 いつものように長く整えられた爪に視線が導かれて……唇の柔らかさが蘇る。

 体に熱が……篭る。



 なんとか暴走しそうな熱を抑えこんで、首を回す。

 ポキっといい音がして、ついため息がこぼれ落ちる。

「慎之介さん、疲れてる?」

「今ので、一気に疲れた」

 ”滾る青年期”を知らずに過ごしてきたからなぁ。

 登美さんの言動に躍らされて。この歳になって初めて経験する、男としての我慢にどっと疲れる。


「肩でも揉んであげようか?」

「登美さんが?」

「うん」

 両手で肩を揉むようなジェスチャーをしている登美さんの手をとって、じっくりと眺める。


 うーん。

 この爪で肩揉まれたら……怖い。


 『頸動脈に刺さりそうだから』と、遠慮した俺に登美さんは、

「刺・さ・り・ま・せ・んっ」

 一文字ずつ強調するように言う。

「いや、分からないって」

「どんな凶器よ。私の爪って」

 爪って、肉食獣にとっては大事な武器だよ?



 その日、二人で向かったのは焼き鳥屋だった。

 カウンター席に並んで座って、単品を数種類頼んで。一緒に頼んだお酒で、軽く乾杯をして。


 ロックグラスに口をつけた登美さんが、ホーっとため息をついてテーブルにグラスを戻す。

「登美さん、結構、何でもいける口だよね」

「そう、かな?」

「この前はビールで、今日は焼酎をロックでって」

「だって。ここ、”幻の焼酎”があるんだもん」


 そう言って、彼女がメニューに書かれた銘柄を指さす。

 詳しいなぁ。おしゃれだけじゃなくって、いろいろなことにアンテナを張り巡らせているんだなぁ。

 そんなことを思いながら、きれいに染められた彼女の爪を眺める。


 そして、もう一口飲んだ彼女は、何かを思い出すような表情でボンヤリとしていた。

 時々、こんな風に物思いに耽る彼女は、何を思っているのだろう。

「そんなにおいしい?」

 登美さんの心を呼び戻すためにかけた俺の声に、ハッとしたように視線に力が戻る。

「一口、飲んでみるぅ?」

「いいの?」

 差し出されたグラスを受け取り、口に含む。

 登美さん。あなたは何を想って、これを飲んだ?


 芳醇な香りと、喉を焼く辛味が通り過ぎる。

「どう?」

「なるほど」

 男が好きな酒、だなこれは。一体、誰に教わった?

「でしょ?」

 何が、『でしょ?』なんだか。

 得意気に微笑む彼女がモゾモゾと座り直すのを、横目に見る。

 

 彼女の今までに、男経験が無かったとは思わない。思えない。 

 過去の男の影が、チラリと姿を現したようなこの夜。

 俺は、痛いほどの嫉妬を覚えた。



 恋情に炙られ、嫉妬に焦げて。

 ”一月が、行く”


 そして、”逃げる、二月”を、ジリジリと過ごして迎えた、約束の日。


 待ち合わせの駅前で、白いコートに身を包んだ登美さんは、寒そうに首をすくめていた。

「また、寒そうな格好して」

「いいでしょ。慎之介さんが寒いわけじゃない」

「見てるこっちが寒い」

 それ以上に、惜しげも無く晒された彼女の足を、男の視線から隠したい。

 ささやかな所有権を主張するように、手袋をはめていない彼女の手を自分のコートのポケットへと導いた。

 そんな俺を見上げるようにした登美さんは。

「歩きにくい」

 の一言で、ポケットから手を抜いた。


 一人ぼっちになった手をポケットから出すか、迷っていると。

「こっちの方が……」

 と、その腕に抱きついてきた。

 コート越しに、彼女の胸が当たるのを意識する。

 

 だから、登美さん。

 俺で遊んで楽しいの? って。


 煽られているのを自覚しながら彼女を見下ろす。

 この前のような、イタズラっけのある顔をしているのだろうと思った彼女は、また何かを思い出すような表情で俺を見上げてきた。

「登美さん」

「はぁい?」

 返事をした瞬間には、きれいにその表情を消し去った登美さんに、俺は我に返った。

 何を訊こうとした? いま。

 それは、訊いていい事か? 訊くべきことか?

「……いや、いいや」

「なによう」

「いいって。気にしないで」

「気になるのっ」

「それで、暖かい?」

「うん」   

 とっさにすり替えた質問に、登美さんは嬉しそうに頷いた。

 ま、いいか。

 俺も暖かい。

 

 というか……。

 熱いくらいだし。



 駅から二十分ほど歩いた所にあるビストロで、夕食。

 二月はバレンタインフェアとかで、特別メニューのコース料理が供されている。

 ゆっくりと食事をしながらの会話が、どことなく途切れ気味なのは。

 これから、のことに対する照れ、だと思っていた。


 デザートのチョコレートアイスが出てくる頃までは。


 チョコアイスなんて、絶対に”今夜は”食べるわけにはいかないし、食後のコーヒーもありえないから。 

 テーブルに行儀悪く頬杖をつきながら、彼女が食べるのを見守っていた。

 ソロリとアイスを掬ったスプーンを口に運んだ彼女が、目をつぶって冷たさに震えた。

 にしては……様子が?


 そう思いながら眺めていると、一口ごとに奥歯を噛みしめるように何かをこらえている。

 顔色も……よくない? 

 そっと彼女の額に手を当てると、燃えるように熱かった。

「熱、あるじゃないか」

「……」

「いつから、しんどかったの?」

「……ついさっき」

 食べるのを諦めたように、スプーンを皿に置いた彼女が、コーヒーカップに手を伸ばした。

 未だかつて見たことのないほど不味そうに彼女がコーヒーを飲む。


 そんな登美さんから目を逸らすように見た俺の皿の上では、アイスが茶色い水溜りを作って解けていた。



 店を出て。来た時と同じように俺の腕にしがみついた登美さんの体重が、グッと俺の腕にかかる。

 自力で歩くこともしんどいらしい。


 これは、お流れだな。


 そう思って、自宅とは逆方向の駅への道を辿りながら、流しのタクシーを拾った。

 戸惑ったような声を上げる彼女を押し込めるようにタクシーに乗り込む。

「送って行くから、今日は帰りな」

「えぇー」

「『えぇー』じゃない」

 言い争う俺達に運転手が焦れたように行き先を尋ねる。

 その声に負けたように登美さんが、住所を告げた。


 駅3つ分ほど離れた目的地につく頃には、彼女は俺の肩に寄りかかるようにして寝息を立てていた。その息使いが、なんともしんどそうで、かわいそうになってくる。

 支払いをしていると、目を覚ましたらしい登美さんがボンヤリと窓の外を眺めている。

「登美さん、降りれる?」

「無理ぃ]

 甘えたような声にすがりつかれる。


 彼女の荷物を手に一足先に降りる。そして、車内に差し伸べた俺の手に掴まるようにして、彼女が道路に足を下ろす。

 彼女が立ち上がった瞬間、その足がズルリと滑る。

 慌てて抱き込んだ彼女は、俺の胸元で熱い吐息をこぼした。


 自宅までの道順を尋ねて、ゆっくりと横断歩道を渡る。

 そこが彼女にとっては限界だったらしい。

「このまま、ここで座り込んでお地蔵さんになりたい……」

 そんなことを呟いて、登美さんは立ち止まってしまった。

 何をバカなことを言っているのやら。

 

 登美さんの大ぶりなショルダーバッグを肩にかけ直す。夕方の待ち合わせの時には、そのコンパクトさに驚いたけど。こうなると、助かるな。

 軽く屈んで、彼女を抱き上げる。

 間の抜けたような声を上げた登美さんと、至近距離で目が合う。

「こんなところでお地蔵さんになってたら、死ぬよ。今夜は寒いし」

 そう言って、彼女がさっき言っていた方向へと歩き始めると、首筋に栗色の頭が押し当てられた。

 ふわりとシャンプーの香りが漂う。


「寝ちゃ、だめだよ」

「うん」

「この角は、どっちだっけ?」

「右。で、その二軒目のマンション」

「OK」

 言われるままに角を曲がって、二軒目。エントランスを入ったところで登美さんが、

「下ろして。誰かに会ったら恥ずかしい」

 と、小さな声で言った。


 肩を抱くように支えながら、辿り着いた彼女の部屋。

 取り出したキーホルダーの鈴が小さく鳴り続けている。

 震える手では、いつまでたっても鍵が刺さりそうになくって、そっと握り取る。


 靴をぬぐだけでもふらつく登美さんを、抱えるようにしてベッドまで運んで。

 風邪薬を常備していないと聞いて薬屋へ行こうとした俺を、

「そばに居て?」

 と、不安そうな声の彼女が引き止める。


 ああ、体調が悪いと人恋しくなるよな。

 

 『大丈夫、すぐに戻るから』

 そう言おうと思った俺の腰に抱きついてきた登美さんは。

「ヤッてもいいから。一人にしないで」

 とんでもないことを口走った。


 相手は病人。

 真面目に、説教するんじゃない。


 出てこようとした”風紀委員”をため息とともに、体から追い出して、玄関に向かう。

「慎之介さんのバカーっ。役立たずっ。冷血漢っ」

 広いわけでもない部屋に登美さんの声が響く。

 更には、聞くに耐えないような際どい単語まで飛び出した


 その声を断ち切るように、俺は、重い玄関ドアを閉めた。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ