近づく距離
正月を市内の実家で過ごした俺は、三日の午前中に自宅に戻った。
明日は、仕事始め。
登美さんからの連絡は……まだない。
年末のメールの文面に、大丈夫だろうと思ったけど。
実は本気で怒らせていたら、どうしよう。
『油断するなよ』って、テラの言葉が蘇って。
一人、部屋の中で頭を抱えてしまう。
始まったばかりの恋なのに。
油断、してたのかなぁ。
そんな俺の元に、待ち焦がれた電話があったのは、その日の夜になってからだった。
〔もしもし? 登美さん? あけましておめでとう〕
自分でも『焦りすぎ』って、笑ってしまいたくなるほど急いだ挨拶に
〔おめ、でとぉう〕
少し篭ったような登美さんの声が返ってくる。
新年早々、風邪でもひいたのか?
〔どうした? あんまり、めでたくなさそうな声だけど?〕
〔慎之介さんの、ばかぁ〕
〔おいおい〕
なんで、いきなり『馬鹿』?
〔登美さん、新年早々、穏やかじゃないけど〕
〔慎之介さんがぁ、名前の由来訊いてみろなんてぇ、そそのかすからぁ〕
〔あ、訊いたんだ。どうだった?〕
〔訊かなきゃ、よかったぁ〕
涙声になった登美さん。
登美さんの名前は、結婚前のご両親が一緒に見に行った映画のラストシーンに感銘を受けたお父さんが、『困難の山に”登って”、”美しい”虹をつかめ』ってつけたらしい。
そこまでは、キレイな話、なんだけど。
登美さんにとっては叔母に当たる人が、『とみこさん』で。この人が赤ちゃんのうちに戦争で亡くなっていた。
だから、彼女の名前は『登美子』ではなく、『登美』になったと。
そうか。
そんな由来があったのか。
〔登美さん〕
〔はいぃ〕
〔いい名前、だよね〕
返事は無いけど、受話器の向こうで、彼女が頷いた気がした。
年明け、最初のデートは成人の日だった。
「『久しぶり』って、言っちゃう?」
「『会いたかった』の方が、いいなぁ」
お。語尾が、一ヶ月で直ったじゃないか。
俺の言葉が、彼女の奥深くに届いている証のような気がして、うれしくなる。
浮かれて差し出した俺の手を、当たり前のように取る登美さん。
彼女とのこの距離が当たり前になって、ドキドキしない日が来るといいなぁ。
その日は、あの隠れ家的な喫茶店に立ち寄った。
雪が降りそうな寒空の下を歩いたらさすがに体が冷えて、ジュースの気分にはなれなかった俺が注文したのは、ホットレモネード。
登美さんは、いつものブラックコーヒー。
耐熱ガラスのカップに口をつけて。その熱さにため息がこぼれる。
そんな俺を眺めた登美さんは、『寒いなら、ココアは?』って、なんでもないことのように尋ねてきた。
「あれもカフェイン入っているから」
「へぇ」
軽く相槌を打って、自分のカップに口をつける登美さん。
自分の”体質”を、こんなにあっさりと受け入れてくれる人と居られる幸せをかみ締めていると、登美さんが、不審そうな顔で首をかしげる。
「あれぇ?」
「うん?」
「慎之介さん、チョコレートももしかして……」
「あぁー」
思い出す、中学生の頃の”バレンタイン頭痛”。
「味は、好きなんだけどさ。数は食べられない」
「今まで、どれだけ頭痛を起こしてきたのやら」
そう言った登美さんが、フン、と鼻を鳴らす。
「今まで?」
「そ、バレンタインとかぁ。貰わなかったとか言わないでしょ?」
「うーん。貰ったのはそのまま友達に流していたから、それほどでも」
「余計に、ムカつくっ」
「ふうん。登美さん、ムカついてくれるんだ」
やきもち、焼いてくれてる?
そう思うと、自分でもだらしなく顔が崩れるのが分かる。
「だってぇ」
「数も多くないし、完全に義理チョコばっかりだったから、友達に食ってもらった。キリたちは俺の体質を知っているし、あいつらのほうがたくさん貰ってたし」
『ホントかなぁ』小さくつぶやいた登美さんが、コーヒーカップのふち越しに軽く睨んできた。
「じゃぁ、バレンタインは、チョコ以外がいぃい?」
ナイショ話をするように、立てた右の人差し指を口元に当てた登美さん。ビーズのようなものを貼り付けた爪の飾りが、目を奪う。
「うん。できれば。それこそマシュマロでもクッキーでも」
登美さんがくれたチョコレートなら、頭痛を起こしても本望だけど。
でも、どうせなら。
幸せに食べたいじゃないか。
そんな俺の返事に、登美さんの声が高くなる。
「高校生のホワイトデーじゃないっ」
「しー、って」
店の雰囲気を壊しかねない大声に、慌てた俺は。
さっき登美さんがしていた仕草を無意識に真似て。
彼女の唇に、人差し指で触れていた。
キョトンと目を見開いた登美さんの、口が動く。『慎之介さん?』と、音にならない声を紡ぐ。吐息と、きれいに口紅が塗られた唇が、俺の指を撫でた。
俺は手を握るようにして、そっと彼女から離れた。
握った手をテーブルの下に隠す。
唇の感触が……リフレインする。
今日は、この手では
何も触りたくない。
寝るまで、彼女の感触を忘れたくない。
飲み物がすっかり冷め切るまで長居をした喫茶店を出て、そぞろ歩く俺たちに淡雪が落ちてきた。
「寒ぅい」
「そんなに足を出してるからだろ?」
真冬だっていうのに。
登美さんは膝丈のスカートから、形のいい足を見せて歩いている。
社会人になってから人前で足を出すことの無い男の身としては、見ているだけで寒々しい。
「だってぇ」
唇を尖らせる登美さんの言葉が、いつの間にか戻ってしまっている。
それは、置いておくとして。
「冷えるよ?」
「温かい物食べるもーん」
そう言いながら、手袋をしていない両手に息を吹きかけて温めている。
ああ、そうか。手袋したら、爪のビーズが取れるのか。
おしゃれも大変だ。
「じゃぁ、鍋物の店にでも行こうか」
体の中から、温まろう。
「うんっ」
うれしそうに笑った登美さんが、俺の左手を探るようにして握ってきた。
さっき、登美さんの唇に触れた左手だけど。
今日は、何も触りたくない、なんて考えていたけど。
初めて彼女から手をつないでくれた喜びには、勝てなかった。
「慎之介さんはぁ、どんなお鍋が好き?」
鍋物の食べられる店を携帯で予約して、移動のための電車に揺られながら、登美さんが尋ねてきた。
「なんだろう。ああ、この前職場の忘年会で食べた、ちゃんこ鍋は美味しかったな」
「ちゃんこ鍋って言ったら……バブルの頃にブームがあったよね?」
「そう?」
「ほら、オヤジギャルとかの頃」
「ふーん?」
そんなブームがあったのか。
「あとは、湯豆腐とか」
「へぇ。しゃぶしゃぶとかの”お肉系”じゃないんだぁ」
「うーん。十代、二十代の頃は、『肉、肉』って言ってたけど。最近は、歳のせいか、野菜が美味いなと」
「慎之介さん、歳って……」
口元に手を当てた彼女が、声を立てて笑う。
「歳だよ? 正月に兄一家も帰ってきてたから、すき焼きをしたんだけど。昔ほどは、俺も兄も肉が食べれなくなったなって」
「お兄さんがいるの?」
そういえば。
正式な”お見合い”ではなかった俺たちは、互いに交わした釣書は履歴書のような簡単なものだったから、互いの兄弟構成も知らなかったな。
「うん。年子で。登美さんは?」
「一人っ子」
「そうか」
「いとこは、いっぱい居るけどね」
『伯父さんのところに、三人と……』とか呟きながら指折り数えている登美さん。
将来、彼女と結婚して、子供が生まれたら。その子にとって、従兄姉は俺の甥と姪だけなんだな。
そんなことを考えながら、正月に俺の名前に反応した幼稚園児の甥の顔を思い出す。
『慎叔父ちゃん、”しんのすけ”なんだ?』
『お? ああ、そうだけど?』
『すっげぇ。な、一緒にお風呂入って、”ゾウさん”やって?』
『は? ぞうさん?』
そんなやり取りを見ていた兄が、笑いながら俺と同じ名前のアニメキャラのネタらしい、”ゾウさん”を解説してくれた。
って、誰がするか! そんなこと。
それ以前に。
一緒に風呂なんか入ったら、俺の背中見て絶対に泣くぞ?
つまらないことまで思い出して、つい仏頂面になっていたらしい。
「慎之介さん?」
「うん?」
「どうしたのぉ? 怖い顔してるけどぉ」
「うーん」
答えを探して、視線が目の前の座席を彷徨う。
と、十人掛けの席のあちらこちらで不自然に目をそらした男が居た。
ん?
そのうちの一人が、そろりと視線を戻す。
その先にあるのは……登美さんのきれいな足。
何、見てるんだよ?
「登美さん」
「はぁい?」
こっちこっちと彼女の手を引いて、まばらに混んでいる車内をドア横まで移動した。
壁際に立たせた彼女の姿を隠すように、立ちはだかる。
「なぁに? 急にぃ」
「その靴だったら、もたれているほうが楽でしょ?」
「靴?」
「うん。そんな背伸びをしているような状態、しんどくない? 席が空くのを期待して、あそこに立ってたけど、空きそうにないから」
「慣れているからぁ、それほどでもないけど」
ラッシュだって、平気よ?
そう言って笑った登美さんが、ゆるくウェーブのかかった髪を、肩口から背中へと流す。
傾げた首筋を無意識に辿った視線の先で、襟の中がわずかに覗く。
電車に乗るときにマフラーをとっていたもんな。あ、鎖骨の窪み、が。
……っと。
見ない、見てない、見えてない。
心の中で、自分を叱りつけて。
窓から鈍色の空を眺めた。
夕食には豆腐チゲを食べて、ビールも飲んで。
ほろ酔い、って感じで機嫌よく店を出た登美さんが、一歩俺の前に踏み出したかと思うと、くるりと振り返った。
ふわり、と、栗色の髪が舞う。
「ね、慎之介さん」
「なに?」
「言葉、がんばって直したでしょ?」
「うーん」
完璧、ではなかったよなぁ。
「まだ、だめ?」
「勝率五割、だったら、落第じゃない?」
「うちの高校、赤点は三割だった!」
「教科の半分落としたら、アウト」
「えぇー、そっちぃ?」
「そ、『そっちぃ』」
唇を尖らせた登美さんの口調を真似ると、今度はぷーっと膨れた。
その表情に笑いをこらえながら、大学時代のアルバイトを思い出す。
学生課からの紹介で、数件の家庭教師を経験した。
いろいろな家庭があるもので、『全教科九十点以上取れたら、お正月はシンガポール旅行にいける』と、張り切っていた子や、『一教科でも、学年十位から落ちたら、お年玉がなくなる』と、泣きそうな顔をしていた子。
どちらも、それなりの成績を維持していたよなぁ。
飴と鞭な。
そういえば、『ピヨは、欠点を理論立てて指摘されたら、やる気が出るんだな』と言ったのは……一学年上のエースだった人か。
その反対に、二学年下のエースは成長をほめてやると、ぐーっと伸びたっけ。
さて。
「登美さんは」
「うん?」
「飴と鞭、どっちが効くのかな?」
「はぁ?」
「ご褒美とお仕置きだったら……」
そう言いながら見下ろした登美さんの視線がふーっと宙に遊ぶ。
何かを思い出しているようなその表情を、黙って見守る。
「慎之介さん」
俺を呼んだ彼女が『おいでおいで』と手招きをする。
招かれるまま身をかがめた俺の方に、彼女も背伸びをするように近づいてきて
チュ。
と、音がした気がする。
って。
え?
ええ?
えええ!?
「と、と、と」
あまりのことに、彼女の名前を呼ぶこともできない。
キス、だったよな?
今の。今さっきの。
「なに? ニワトリ?」
そう言って、俺の顔を覗き込んで来る彼女。
長年、ご隠居生活をしていて、自分では淡白な方だと思っていた。
なのに、一気に距離を詰めたような今日一日で、自分の意外な欲を知ってしまった。
彼女が欲しい。
in vivoな欲求が、さっきのキスで一気に膨れ上がった
その自覚があるから、自分でも分かった。
前代未聞なほど、赤面してるのが。
ゆだりそうな頭の熱に、もう……脳みそが溶けて、味噌汁になりそう。
赤くなった顔を隠そうと手で覆う。登美さんは、その腕を掴んで、駄々っ子のように揺さぶってくる。
「慎之介さーん」
なんて、甘えたような声で呼ばないで欲しい。
自分が何やったか、わかってる?
しばらく力比べをしているうちに、登美さんから小さなくしゃみが聞こえた。
これ以上、意地を張っていたら彼女に風邪を引かせてしまう。
諦めて顔から手を離す。
けど、つい。文句の一つも言いたくなる。
「なんで、俺が罰ゲーム受けるわけ?」
「罰ゲームって……ひどっ」
「ひどいのは、登美さんのほう。こんなところで煽ってどうする気? 明日は、お互いに仕事だっていうのに」
「煽ったぁ?」
小首をかしげた彼女が、俺の顔を見上げて。
イタズラに成功した子供のように笑った。
「煽られたんだ?」
獲物を見つけた猫の子のような登美さんの目に、囚えられそうになる。
滴るような色気に最後の抵抗を試みて、言葉をつなぐ。
「もう、ね。『登美さん』って呼ぶのに、舌が回らないくらい動揺した」
「ああ、そうなんだぁ。子供がニワトリ呼んでるのかと思ったぁ。『と、と、と』って」
「いくら、俺が『ピヨ』だからって」
「あ、キリさん……」
話が逸れて、彼女を取り巻いていた艶が鳴りを潜める。
命拾いしたネズミのように、そのまま彼女の気をそらそうとアダ名の由来なんかを話していて。
途中で話を遮った登美さんが、何やら考え込んでいる。
「慎之介さんと結婚したら、私……」
結婚、したら……?
苗字が変わって
「にわ とみ?」
「もっと、”にわとり”に近いじゃないっ」
「うん。ピヨじゃなくって、ピヨ子くらいになるな」
『うわぁ。考えてもみなかった』と、口元に手を当てて驚いている登美さん。
その爪に光るビーズを眺めながら俺は、
登美さんに”丹羽姓”を名乗ってもらう日が、いつか来ることを祈っていた。