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墜ちる

 ”見合い”からの帰り道、電車がゆれた弾みでドア横の手すりに思いっきり背中をぶつけた。

 肩甲骨と背骨の間が、じわじわと痛む。


 帰ってから、怪我の具合を見ようと鏡に背中を映す。

 ぶつけた所は、軽くあざになっていただけだけど。

 久しぶりに目にした自分の背中に、一瞬息が止まる。


 忘れてたわけじゃない。

 でも、忘れていたかった、背中の傷痕。


 シャツを羽織りなおして、洗面所から出たところで携帯がメールの着信を告げた。


 さっきアドレスを登録したばかりの稲本さんからのメールは、『今日は楽しかった。次に会える日を楽しみにしている』と。

 そんな内容に、うれしくなった。

 

 俺も、楽しかった。もう一度、会いたい。

 けれど。

 きれいな彼女と、醜い俺。

 フランケンの俺が、彼女に近づいても本当に良いのだろうか。


 返信の画面を立ち上げただけで、削除した俺は。

 冷蔵庫を開けて、卵とトマトを取り出した。



 翌日、出勤した俺はロッカールームで水田に捕まった。

「なぁ、丹羽?」

「ああ、おはよう」

「昨日の見合い、どうだった?」

 ジャケットを脱いで白衣を羽織りながら水田を見ると、好奇心、以上の何かでニヤニヤと笑っていた。 

「どうって?」

「付き合うのか?」

 『おまえに関係ない』と言いかけて、言葉を飲み込む。

 近いうちに水田部長からもきっと、見合いの首尾は尋ねられる。稲本さんとの話が流れれば、”次の話”が持ってこられるだろう。

 それならいっそのこと、当たり障り無いようにこいつに言っておけば……水田部長にも話は届く、か。

「とりあえず、『もう一度会おうか』ってことにはなった」

「そうかぁ。良かったなぁ」

「うん。だから、水田部長には……」

「オッケー。言っとく言っとく」

 機嫌よくロッカーの戸をを閉めた水田が、右手でOKマークを作ってみせる。


 水田がロッカールームを出て行くのを見送りながら、通勤鞄から携帯を取り出す。

 昨日、稲本さんから届いたメールの返信画面を呼び出して。


 返信が遅くなったことを詫びて、次の約束の提案をする。


 三週間後なら……梅雨は明けているだろうか。



 俺の期待も空しく。

 約束の日は、土砂降りだった。


 初めて会った日のスカーフの色とよく似た青い傘の稲本さんが、足元を気にしながら歩いている。

 悪いこと、したかな。

 もっとスマートにことを運べたらいいのに。

 恋愛経験の薄い自分を呪いながら、雨の中を歩く。


 目的地に到着して。

 店の入り口で、傘を閉じている俺の顔を稲本さんが覗き込んできた。

「あのぉ」

「はい?」

「丹羽さぁん、コーヒー、ダメですよねぇ?」

「でも、稲本さん、コーヒーお好きでしょう?」

 彼女を案内したのは、隠れ家的な喫茶店。

 店に漂うコーヒーの香りが、飲めない俺にも幸せに感じられるような店で、マスターが一人で切り盛りをしてる。

 この店の唯一の難点は、交通の便が悪いこと。

 車通勤をしているせいか、どうもこの店を取り巻く一方通行や行き止まりの小道はタクシーの運転手には悪い気がして、来る時は必ず駅から徒歩か自宅から自転車になる。

 この雨の中、稲本さんに歩かせるのはどうかとも思ったけど。

 それでも、幸せそうにコーヒーを飲む彼女の表情がもう一度見たかった。


 『どうして、コーヒー好きと分かったか』と不思議がる彼女に、『表情を見てたら』なんて言ったら絶対に赤面してしまう自分を十分知っているから、伊達に理論武装を続けていたわけでないスキルを駆使して答える。

「聞いたことも無い銘柄を注文されていたから」

「それで、ですかぁ?」

「はい。詳しいってことは、好きということでしょう?」

 好きな競技なら、選手のことは趣味まで知っているやつもいるし、お茶好きは、『ほうじ茶が低カフェイン』なんてことも知っている。

 そう答えながらドアを押し開けた俺の頭上で、カウベルが低い音を立てた。


 稲本さんが通りやすいようにとドアを押さえて振り向くと、彼女は立ち止まっていた。

 ふわっと軽く口を開いて、ドアにつけられたカウベルを眺めている。

「どうしました?」

「あ、いいえぇ。なんでもぉ」

 我に返ったように、にこっと笑う稲本さん。

 そんな俺たちに、マスターの声がかかる。そのまま稲本さんを先に、案内された奥まった席まで足を運んだ。


 傘をさしていても濡れたらしい腕の辺りを、軽くハンカチでふいている彼女を眺める。

 さっきの表情はなんだったのだろう。

 カウベルが珍しかったのだろうか。

 そんなことを考えていると、マスターがメニューとお冷を持ってきた。

「ひどい雨ですね」

「ほんとぉに。そろそろぉ梅雨明けぇしてもぉ、いい頃ですよねぇ」

「タオル、お持ちしましょうか?」

「いいえぇ。大丈ぉ夫ですぅ」

 マスターと世間話をしながら、軽く微笑んでいる彼女。


 ”in vivo”だな。

 『外部からコントロールされていない生体反応』を意味する単語が、彼女の表情を見ていると浮かんでくる。

 

 ”生命力”を感じさせる彼女といれば、

 いつか俺も

 人間になれるのだろうか。



「お待たせしました」

 マスターの低い声に、稲本さんが顔を向ける。

 彼女に少し笑いかけたマスターが彼女の前にコーヒーカップを、俺の前にオレンジジュースを置いた。

 軽く一礼して立ち去る姿を見送って。

「丹羽さん、常連なんですかぁ?」

 今日もブラックのままのコーヒーカップに手を伸ばしながら稲本さんが、尋ねてくる。その爪を染める、虹のような色が目を惹きつける。

「うーん。それなりに、ですかね。どうしてです?」

 ストローを包む包装を破りながら答える。

「だってぇ。何も言わないのにぃ、マスターがぁ私の前にコーヒーを置いたからぁ」

「あぁ。あの人は、プロ、ですからね。誰がどの注文を言ったかまで覚えてるようですよ。ファミリーレストランとかでよくある『ハンバーグのお客様は?』っていうの、しないですよ」

「へぇ?」

 唇を小さく尖らせたのは……なんだろう。驚きの顔、かな?

 

 そして、カップに口をつけた彼女が次に見せたのは、あの、幸せそうな笑顔だった。



 互いの仕事の話なんかをして、時が過ぎる。

 企業秘密に触れられそうになって、一瞬、ヒヤリとした俺に

「ええぇ、ケチぃ」

 彼女が、ふくれっつらをする。

 かわいい、といえばかわいいけど。

 ちょっと、危なっかしい。


 理論武装をした”風紀委員”が、胸の奥でムクムク頭をもたげてくる。


「稲本さん」

「はい」

「どこの会社員も守るべきこと、だと思いますが?」

「はぁ」

「稲本さんだって、自社の秘密を俺にしゃべったりしないでしょう?」

「秘密なんてぇ、触れることないですぅ」

「本当に?」

「えぇ。だってぇ」

 小さい声で、『だって、私、経理だし……』とつぶやいているのが聞こえる。

 経理、って。一番情報集まらないか?

「何が秘密に当たるかは、情報の処理しだいですよ」

 世間話のつもりで情報漏えいって。危ないなぁ。


 稲本さんとは年齢は違っていても、社会人としての年数は変わりないのだけど。

 なんとなく。

 彼女の危うさに気づいた自分が、少しだけ大人な気がした。


「丹羽さんはぁ、お休みの日はぁ何をしているんですかぁ?」

「休みの日ですか?」

「はいぃ」

「そうですね……」

 何といって、何もしてない。に近い。

 いや、あるか

「サイクリングをしたり、連休が取れたら少し遠出をすることもありますね」

「遠出ってぇ、自転車でぇ?」

「いえ、さすがに車を使いますよ」

「運転がぁできるんですねぇ」

「車でないと通勤できないんです」

「はぁ」

「市街地に研究所って……ね?」

「あぁ、危ないかもぉ?」

「はい」

 そこまで危険な実験はしていないけど。それでも万が一、を考えて俺が務める研究所は市の北部、郊外に建てられている。

 そんな独立施設だから、研究員ではない水田が総務所属で配置されているわけで。その余波のようなものが、稲本さんとの出会いを作った、か。

 不思議な縁だ、と思いながらストローに口をつける。

 絞りたてのオレンジの甘酸っぱい香りが咽喉を落ちて行った。



 店を出た時には、すっかり雨が上がっていた。

 行き止まりの道に迷い込んだ車を誘導するような小さなハプニングを挟んで、駅までの道のりを並んで歩く。

 行きしなには雨音に邪魔されて聞こえていなかったコツコツとアスファルトを叩くヒールの音に、一歩足を遅らせて彼女の足元を見る。


 すごいなぁ。よくこれで歩ける。

 目算で五センチは超えていそうなヒール高に驚いて、足が止まる。

「丹羽さぁん?」

「はい?」

「どうかしましたかぁ?」

 くるりと器用に振り返った彼女が、首を傾げる。

「稲本さん、身長どのくらいなんです?」

「えぇー、そんなことぉ訊かないでくださぁいよぉ」

「だめ、でしたか?」

「だめ、ですぅ」

 プーっとふくれて見せた彼女が、クスっと笑う。

「丹羽さんよりもぉ、低いのはぁ確かですぅ」

「それはそうでしょうね」

 今まで会った男でも、俺より高かったのは……高校の二年後輩にひとり居たくらいか。

 キリに『大魔神』なんて呼ばれていた後輩を思い出す。

 俺と同様に”人付き合いが怖い”って顔に書いてあるようなやつだと言ったのは、テラだったっけ。


 懐かしい顔を思い出しながら、並び直した彼女を見下ろす。


 スッキリと伸びた背筋を、揺らすことなく足を運ぶ。

 きれいな女性は、歩く姿もきれいなんだ。

 そういえば、座る姿勢もきれいだったよな。

 喫茶店で向い合って座った彼女の姿、時間が経っても一度も崩れなかったっけ。


 動を感じさせる表情と、静を感じさせる姿勢と。

 彼女から眼が離せなくなる。


  

 そんな感じで、何度か休日を過ごす。

 過ごしながら、何度も迷った。 

 こうして何度も会ってくれる彼女になら、正式に”お付き合い”を申し込んでもいいのだろうか、と。

 稲本さんが時々何か言いたそうな顔で俺を見ているのに気づくたびに、言葉にしようとしては赤面しそうになって。

 何も言えないまま、日がすぎる。



「あのぉ」

 そんなある日、待ち合わせで顔を合わせるなり稲本さんが言いにくそうに声をかけてきた。

「はい?」

「丹羽さぁん、今夜はぁ時間ありますかぁ?」

「ええ、まあ」

「だったらぁ、夕食をぉご一緒しませんかぁ?」

 思いもよらぬ言葉に、一瞬、思考が固まる。


「稲本さん」

「はぁい?」

「食事を一緒にするのは、早くないですか?」

「はぁ?」

 今度は、稲本さんが固まる。


 何度か瞬きを繰り返した稲本さん。

「言ってる意味がぁ、解らないんですけどぉ?」

「まだ付き合っていない段階では……」

「付き合ってないってぇ?」

「え?」

「あれぇ?」

 互いに顔を見合わせる。

 稲本さんの頬に血が上るのを見て、俺の顔も熱くなる。

 きっと、今の俺の顔は、真っ赤になっている。


 けど、これは……チャンス、か?

「稲本さん」

 勇気を振り絞るようにして呼んだ彼女の名前。

 そっと上目遣いに見上げてくる彼女の表情に、鼓動が走る。

「改めて、俺と結婚を前提にお付き合いしてもらえますか?」

「はぁい」

 にっこりと。

 満開の笑顔で彼女は、微笑んでくれた。


 その笑顔に俺は。

 恋は”する”ものじゃないと。

 ましてや”恋ができる”なんて、おこがましい考えだと知った。


 命に直結する、”in vivo”な本能。

 恋は”落ちる”ものなんだ。



 夕食、には早すぎる時間だったので、この日もまずは喫茶店に入った。

 いつものようにブラックコーヒーに口をつけて、ふわりと綻んだ稲本さんの表情に『この店はアタリ』と、頭の中でチェックを入れる。

 彼女と知り合ってから、俺は外出のたびに喫茶店に入ることを習慣にした。

 あの隠れ家的な喫茶店同様、コーヒーの香りのいい店を見つけては、彼女を連れてくる。

 大体、俺が『いい香りだ』と思える店は、彼女にとってもアタリらしい。そのうえ、ジュースにもこだわりがある店が多く、俺にとってもありがたかった。


 それは、そうとして。

「早速ですけど。名前、で呼んでもいいですか」

「ええとぉ」 

 躊躇うような彼女の声に、勇みすぎた自分が恥ずかしくなる。

「あ、調子に乗りすぎですかね?」

「いいえぇ。そんなことぉ、ないですよぉ?」

 ゆるく頭を振った彼女が微笑んでくれた。

 けど

「じゃぁ、登美さん」

「あ」

 勇気を出して呼んでみた名前に、軽く眉をひそめた彼女はストップをかけるように、両手を胸の前で広げた。

「え?」

「できればぁ、『トミィ』ってぇ、呼んでほしいなぁ」

「トミィ?」

「はい」

 上目遣いに、俺を見ながら頷く。


 誰だ?

 彼女にそんなあだ名をつけたやつは。


 『登美さん』と、あえて呼んだ俺を彼女が軽く睨む。

 その目に、”風紀委員”が目を覚ます。

「俺には、『登美』と、呼ばせてもらえませんか?」

「どうしてぇ? 私はぁ『トミィ』ってぇ、呼んでほしいのにぃ」

「『トミィ』は、英語圏では、男性名ですよ?」

「へ?」

「トーマスの愛称ですね」

 そう言ってストローに口をつけた俺から、目をそらした登美さんは。


 キューっと。きれいに口紅を塗った唇をかみ締めた。

 グーッと、握り締めた手にも力がこめられた。


 あ、まずい。

 怒らせた。


「多分、登美さんのご両親も何か意味があって名づけたと思いますし」

 彼女の怒りを解こうと、話を少し強引にずらす。

「意味ぃ、ですかぁ?」

「ええ。名前って、親の願いとか、いろいろなものが込められてるそうですよ」

 大学の生命倫理の講義からの受け売りの話題に、登美さんは目を丸くしながらコーヒーカップを手に取る。

 よかった。彼女の眉間から力が抜けた。

「丹羽さんもぉ?」

「慎之介、です」

「慎之介ぇ、さぁん?」

「言いにくければ、呼び捨てでもいいですよ」

 音を確かめるように呼ばれた自分の名前。

 生まれた時からの付き合っている名前が、なんだか特別なもののように聞こえて、くすぐったい思いをかみ締めながらストローに口をつける。


 あ、そうそう。話の続き。

「俺の場合は、誠実な男に、ってことらしいです。ま、読んで字のごとく、ですね」

「そうなんですかぁ」

「”慎”が、慎む、ですからね」

 ”康之介(こうのすけ)”の兄は、まっすぐな男に、ってことらしい。

「へぇぇ」

 相槌を打った登美さんが、ちょっと考えるように何も無い空間を眺めて。

 俺に視線を戻すと、思い出したようにコーヒーに口をつけた。 

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