出会い
体育館にボールの音がする。
「ピヨっ」
呼ばれた声に反応して、体を宙に跳ね上げる。
会心の一撃が、コートに刺さる。
「ナイス、ピヨ」
「キリもな」
ハイタッチを交わしたキリが笑う。
二学期の半ば、俺は次期エースとしてレギュラー入りを果たした。
多くを望むつもり無く入ったバレー部では、誰もが俺を自然に”仲間”にしてくれていた。
「はい、バレンタインだよー」
練習後の部室で、どっから見ても”義理”って書いてあるようなチョコが差し出される。
「佳代子。訊くまでもないけど、『義理』だよな?」
キリが、うちの部のマネージャーに尋ねる。
「あたりまえじゃない。私のハートは、ダーリンのものよ」
二年の先輩も含めた部員みんなに一個ずつチョコを配りながらそう言った佳代子が、全日本のエースの名前を出す。
ダーリンとか言っているけど。本命は、柔道部にいるんじゃないかな、って俺は思っている。
岡目八目とはよく言ったもので、他人事の恋愛を眺めていると……いろいろ見えてくるものがある。
誰が誰に気があるか、とか。
誰と誰が付き合いだしたらしいとか。
『若いねぇ』と、すっかり縁側のご隠居気分で、俺は周りの恋愛事情を楽しませてもらっている。
俺には縁が無い恋愛ごと、だから。
これくらい、楽しませてくれても……いいよな?
「はいはい。ありがとうな」
チョコを片手でひらひらさせながら言ったマツの言葉に、佳代子の頬がふくれる。
「マツくん、気持ちがこもってない。キリくんや、テラくんなら放っておいても山盛りにもらうだろけど、他の皆はないでしょ?」
「うわぁ、ひでぇ」
「他の女子から預かってきたチョコもあるんだけど。マツくんはいらないのよね?」
って言いながら佳代子が紙袋を抱える。
「ください。もらいます」
「素直でよろしい」
そんな会話をしながら俺たち一年に三つずつ包みを配った佳代子が、練習中に使ったヤカンやコップを抱えて部室から出て行く。
「キリ、悪い。これ、食って」
「……カフェイン?」
「うん。こんなには食えない」
キリとの会話に、周りがよってくる。
「俺も、貰っていい?」
「テラは、本命を貰ってるんだろ?」
「キリよりは少ないって」
「誰が、そんなに貰ってるって言ったよ?」
ワイワイと俺の分を分け合う仲間を眺めながら、スポーツバッグのファスナーを閉める。
俺は傷痕が残りやすいのと同じくらい、困った体質を抱えていた。
傷に障ると信じた母にコーヒー・紅茶を止められていた俺にとって、高校生になって自販機で買った缶コーヒーが生まれて初めてのコーヒーだった。その日の昼ご飯に、購買で買ったサンドイッチと一緒に飲んで、大人になった気がしていたけど。午後の授業が始まる前に経験の無いような頭痛に襲われて、保健室の客になった
養護の先生と、いろいろと話をして。『カフェインのせいでは?』と言われた。
日本茶も苦いだけだと飲まなかったから、大量のカフェインが含まれていそうなものは今までほとんど口にしてこなかったけど。
例外が、ひとつ。
チョコレートにもカフェインが含まれていると聞いて、毎年、兄のバレンタインチョコを食っては、ひどい頭痛を起こした中学時代を思い出す。
そうか、あれもか。
納得しながら、一時間ほど保健室で休んだ俺は、これから絶対コーヒーとチョコレートは口にするまいと思った。
秘密にするほどではないことだけど、なんとなくカフェインのことは誰にも言ってなかった。
けれど、文化祭の日に廊下で出会ったキリが、『茶道部のお茶席に行こう』なんて言い出して。
「ごめん。俺、カフェインが飲めないから、パス」
「だったら、三年五組の饅頭屋はほうじ茶だったから、そっちに行こうか」
って、あっさり体の向きを変えた。
「ほうじ茶?」
「あれは、低カフェインって聞いたぞ?」
「へぇ、って。詳しいな」
「うん。祖母さんがお茶の先生してたからさ」
「ふうん?」
「俺自身も、お茶、好きだし」
そう言って、グーッと背伸びをしたキリが、そのまま俺の頭をポクポク叩く。
「好き嫌い、って叱られるようなモンじゃなくって良かったな」
「うん」
「いっぱい食べて、大きくなれよ」
「おまえもな」
俺より十センチは低い頭を撫で返してやる。
そんなやり取りを覚えていてくれたらしいキリと、深く突っ込まずに冗談に紛らわせる周囲と。
中一のバレンタインで凍りついた俺の心は、高一のバレンタインで溶け始めた。
”仲間”から一歩進んだ、”友達づきあい”をするようになって。
佳代子のような”仲間”の女子とは少しずつ話もするようになった。
それから、俺は少しずつ人と触れ合うことを思い出しながら、高校、大学と過ごした。
俺は目標どおりバイオの勉強をするために、他県にあるそこそこ名の通った大学へ進学した。そんな大学にも、入学からしばらくした頃、バブルの波がやってきた。
高校時代もクラスで一番背が高かった俺は、いわゆる”三高”のうち二つをクリアしているとか、女性に興味を持たれやすい顔立ちだとかで、合コンの”エサ”に連れて行かれることも出てきた。
そんな席でも、俺は相変わらずご隠居のように、他人ごとの恋愛を眺めていた。そして、時々思い出したように女の子に話しかけられては動揺して、血管が切れそうなくらい頭に血が上ってしまう。
そんな俺をネタに、座が盛り上がる。
それでも、時々。年に一回くらい、次に繋がる子がいたけど。
コーヒーが飲めないと言うと、『お子様、ねぇ』って、呆れられた。
さらに、気の利いた会話もできずに、しどろもどろになって赤面するから、『お話すらできない、ガリ勉くん』って、あざ笑われたこともあって、誰とも長続きはしなかった。
そんな中、一人だけ、卒業間近に大人の関係になれた子が居た。
『俺も恋愛ができるかもしれない』と、ほのかに抱いた期待は……あっけなく潰えた。
四回目、の夜。俺の背中を目にした彼女の顔が、嫌悪に歪んだ。それっきり、一度も目を合わせずに、翌朝、別れ話をされた。
やっぱり、無理、だ。
俺は、人間にはなれないんだ。
再生医療に希望を抱く気も失せた俺は、大学院の修士課程を終了した後、製薬メーカーの研究員として就職をした。
三十歳を過ぎた頃、不景気の波が俺の会社にも近づいてきて、研究所の統合が行われた。
通っていた大学のある県からの異動先が、実家のある蔵塚市の北部だったのは、幸い、なのか?
十年以上も一人暮らしをしていて、いまさら実家に戻るのも……と、部屋を借りて住む。
どこに住んでも、俺の人生に変化なんて起きない。
だって、俺は人間じゃないんだから。
変化なんて起きないと思っていた俺が、面倒くさい人間関係に巻き込まれたのが……三十三歳の半ば。
コネ就職か何か知らないが、開発の水田部長の息子が俺の同期に居た。同じ研究所で総務的な事務仕事を担当していた水田は、俺が異動した翌年に九州の研究所から異動してきた小早川さんという女性に懸想していたらしいけど。何をきっかけにしたのか、その小早川さんが俺に興味を持った。
『横取りすんな』と牽制してくる水田と、モーションをかけてくる小早川さん。二人の間に挟まれて疲れているところに、水田部長が見合い話を持ってきたのが、三十五歳の誕生日の翌週だった。
『いい年だし、そろそろ身を固めたらどうだ?』と言うのは、表向きの理由だろう。
”いい年”の息子の恋愛成就に親が一肌脱ぐのか、と呆れながら、どうせつぶれる話だし、と軽い気持ちで受けた。
水田部長の友人の部下らしい女性との見合いは、梅雨のさなかにセッティングされた。
『互いに上司が一緒では、やりにくかろう』と二人で会うように言われて、ターミナル駅近くにあるホテルの喫茶ルームで会うことになった。
時間より少し早めに着いてしまった俺は、案内された席で、昨日までの雨に洗われたような中庭を眺めていた。
「こんにちはぁ」
鈴を転がしたような声に振り返る。
きちんとスーツを着た女性が、首をかしげるように俺を見ていた。さっきまで眺めていた紫陽花の花の色に似た青いスカーフが、とても印象的だった。
目が合った瞬間に、にっこり微笑んだ彼女に釣られて、思わず口元がほころんでしまった。
そんな自分に軽く動揺しながら、彼女に席を勧める。
「お休みの日に、申し訳ありません。こんなところまで来ていただいて」
こんなところ、ってどんなところだよ。って、自分でも突っ込むようなことを言った俺に、彼女はやわらかく首を振った。
正面の席に腰を下ろした彼女に、メニューを手渡す。
ざっと目を通した彼女が、うれしそうに目を輝かせて……ちらり、と俺を見た。
何か、を計るような視線に、俺がコーヒーを飲めないことが顔に書いてある気がして思わず頬をこする。
まぁ、いいや。
コーヒーが飲めないって、呆れられても。
ちゃんと”会った”んだから。水田部長の面子は立つだろ。
聞いたことのないモノを注文した彼女は、レモンスカッシュを頼んだ俺に顔色一つ変えなかった。
そんな彼女と改めて、自己紹介をする。
「稲本 登美ですぅ」
稲本さんは、西隣の楠姫城市の女子大を卒業して、蔵塚市内の会社勤に勤める三十二歳。
さて、見合いって、これから何を話せばいいんだろ。
「高校ってぇ、どこだったんですかぁ?」
「高校、ですか?」
思いもよらない質問に面食らった俺に、稲本さんはまじめな顔で頷いた
「柳原西、です。ご存知ですか?」
「ええ」
ああ、そうか。俺の居た理数コースは全県学区だから、稲本さんも名前くらいは聞いたことがあったのかも。
互いが注文したものが届いた。
うれしそうに稲本さんが口をつけたのは……ブラックコーヒー。
そうか。コーヒーが好きなんだ。さっき注文していた”聞いたことのないモノ”は、銘柄だろうか。
一口飲んだ彼女の口元が、幸せそうに微笑む。
あ、いいなぁ。今の……。
「どうかしましたぁ?」
「あ。失礼。ブラックで飲めるって、すごいなぁと」
稲本さんにも『子供っぽい』と言われるかな、なんて思いながら、ストローでグラスの中をくるりと混ぜる。
「丹羽さぁん、飲めないんですかぁ?」
「はい。カフェインがダメみたいで。頭が痛くなるんです」
「へぇ。そうなんですかぁ」
さらりと、頷かれて鼓動が一つ跳ねた。
気に、しないんだ……。
「レモンスカッシュってぇ、ビタミンがぁたっぷりそうですねぇ」
カフェインがどうのなんて、面白くも無いだろう話をうなずきながら聞いていた稲本さんが、俺の飲んでいるジュースを指差しながら尋ねる。その爪に光るビーズのような飾りを眺めながら、頭の中では自然にビタミンの話が浮き上がってくる。
「ビタミンCは、ジュースで摂るのは効果的ではないんですよ」
「えぇぇ? なんでですかぁ?」
「抗酸化作用って、聞いたことありますか?」
「ええぇっとぉ、なんだったけぇ」
「アンチエイジング、とか」
「あぁ、さびない体ぁ?」
「そうです」
「それがぁ、どぉ関係ぇするんですかぁ?」
「相手を酸化させないってことは、自分が代わりに酸化するんです。こうやって、ジュースにすると酸素に触れやすくなるから、酸化して変質してしまうんですよ」
「へぇぇ」
きれいな爪を口元に当てて、首をかしげるようにグラスを眺める稲本さん。
肩口から、するりと長い髪が滑り落ちる。
それを軽く後ろに流す指の動き。
真っ白なカップについた口紅を拭う仕草。
前もって見せてもらった写真でも、『きれいな人だ』と思ったけど。
目の前で”命”を伴って動いている彼女は、その何倍もきれいだった。
そんな彼女から目を離すこともできずに、俺はストローに口をつけた。
赤面するようなことも無く、順調に会話が続く。
ふと目を落とした腕時計の、針が示す時刻に驚く。
二時間!?
いつの間に?
ここが潮時、か。
「そろそろ、でましょうか」
「えぇ、もぉう?」
「あまり長居をするのも、お店にも邪魔でしょうから」
ほら、と、壁にかかった時計を指差してみせる。その手をたどるように視線を流す稲本さん。
軽く口に手を当てて驚いた顔を見せた彼女が、俺の顔を上目遣いに見る。
「なんだかぁ、帰りたくない、かもぉ」
彼女のその表情に顔に血が上るのを感じて、慌てて視線を庭へと逃す。
次、に繋げてもいい、のか?
部長の面子を立てるだけのつもりだったこの見合いに、欲が生まれる。
「じゃぁ。今度また、会って頂けますか?」
「今度ぉ?」
「はい。今度」
なんとなく、だけど。
彼女となら、恋愛ができるかもしれない
そんな希望を抱きながら、互いの連絡先を交換してその日は帰途についた。