キリとの電話
キリから電話があったのが、その日の夜。夕食を終えて、皿を洗っているときのことだった。
濡れた手のまま携帯を持った俺の目の隅で、小さく声をかけて登美さんが立ち上がったのが見えた。松葉杖をつきながら、タオルを取ってきて俺に差し出してくれる。
空いたほうの手で『ありがとう』のジェスチャーをして、軽く手を拭いた。
〔今日、ピヨが訊いた靴のことだけど〕
〔ああ、悪い。忙しいのに〕
〔いいって。でさ、色つきのナースシューズだったらどうだろ?〕
〔ナースシューズ?〕
って、医療職の女性とかが履いてるサンダルみたいなの、だよな?
キリにはちょっと待ってもらって。
「登美さん」
「はぁい?」
「ナースシューズに、色つきのがあるらしいんだけど。それだったら、通勤とか通院に履けそう?」
「色つきって……何色?」
そりゃ、そうだ。
まぁ、普通に考えて、”ショッキングピンク”や”蛍光グリーン”は無いだろうけど。
〔キリ。何色があるかまで分かる?〕
〔ちょっと、待ってくれ〕
今度は俺が待たされて。
〔淡色だと、水色とピンク。濃い色だったら黒ってさ〕
〔おまえ、誰に訊いてるわけ?〕
〔うん? 嫁さん。ある意味、同業者だからさ〕
へぇ。
ナイショ、の存在でもないのか。
それからも互いに待って待たせてを繰り返しながら、店の場所とかも教えてもらって。
翌朝、通院の前に俺が買いに行ってくることにした。
黒いナースシューズを履いた登美さんを、買い物ついでに取ってきた車に乗せて病院へと連れて行く。
「かわいい車ね」
「通勤の足、には軽自動車で十分」
「旅行もするんでしょ?」
「うーん。でもまあ、本当に時々しか行かないし」
そういえば。まだ一度も登美さんと遠出をしたことなかったな。
信号待ちの間に、助手席に座った登美さんを横目で眺める。
怪我には、温泉で湯治。ってのは、セオリーなんだろうけど。
温泉、に行く勇気が……でない。
待ち時間のわりに、拍子抜けするほど簡単に終わった診察の後。
登美さんの代わりに会計を済ませて、保険証を受け取った俺の背中を、軽く叩いたやつがいた。
「キリ、か」
「具合、どう?」
「うん。悪くはない、みたい」
「杖は、使えてるか?」
「コツはつかめた、らしいよ」
それは良かった、と微笑んだキリを、サンダルの礼に昼ご飯に誘うと『済ませた』と、あっさりした返事が返ってきた。
「早いなぁ」
「午後診もあるからな。交代で、さっさと終わらせるんだよ。外に出なくっても、職員用の食堂が裏にあるし」
「じゃあ、すぐに仕事に戻るんだ」
「いや。二十……分くらいは、休憩があるかな。自販機のコーヒーくらいなら付き合うよ」
待ち合い室の時計を見上げたキリはそう言ってから、俺の顔を見て言い直した。
「自販機のジュースだったな」
「よく、覚えてるな」
「そりゃな。かつての名コンビ」
そんな話をしつつ、合間に椅子で待っている登美さんのリクエストも訊いて。
当然のようにブラックコーヒーを希望した登美さんと、キリの分のコーヒーと。それから、自分の分のジンジャーエールを買った。さすがに手が足りないので、キリには自分の分を持たせて、登美さんのもとへと戻る。
「そういえばさ。キリ、嫁さんもリハビリの仕事?」
「いや、アイツは薬剤師」
熱そうに紙コップに口をつけながらのキリの言葉に、登美さんが反応した。
「昨日、薬を渡してくれた人……」
「うん。そう」
アタリ、と嬉しそうに笑うキリ。
「登美さん、どうして分かったの?」
「だって、名札の名前が一緒で。周り、区別するのが大変だろうな、って思って……」
よく見てるもんだ。俺は全然気づかなかった。
人がまばらな待ち合い室に、患者を呼ぶ声が響く。
その声に反応して、キリの視線がチラリと流れたのが、正面で見ていた俺には分かった。
キリの視線を追うように、さっきまで会計をしてたカウンターを見る。
そこで待ち合い室を見渡している女性は、確かに。昨日、椅子に座った登美さんのところまで、薬を届けてくれた薬剤師、のような気がする。
「周りは『リハビリの桐生』『薬局の桐生』って、呼び分けてるな」
何事も無かったかのような顔で、キリがさっきの話の続きに戻った。
「他部署は、それでいいだろうけどさ。リハビリ内では、どうしてるわけ?」
「『桐生くん』と『桐生先生』」
「嫁さんのほうが、”先生”なんだ」
そう突っ込んだ俺に、キリはにやっと笑って見せて。
「これが、薬局内だと『桐生先生』と『桐生さん』で、俺が”先生”」
「何、その面倒くさい状態」
「もともと薬局とリハビリは慣習的に、互いを”先生”呼びするんだよ。うちの病院。だから、結婚までは、俺たちも互いに『桐生先生』『本間先生』って呼び合ってたし」
懐かしそうな表情のキリに、いつかのように軽くかわされる覚悟で、突っ込んだことを尋ねてみる。
「じゃぁ、職場結婚?」
「うん。同期だった」
お、今日は流さないんだ。
ジンジャーエールの紙コップを口に運ぶ。唇に、炭酸の泡が弾ける感触がする。
出産退職したものの、病院から請われて再就職して、と、これまでの事情をかいつまんで話しながら、キリがコーヒーに口をつける。
そんな話を登美さんは、紙コップを口元に当てたまま、真剣に聞いていた。
怪我からの一週間。俺は登美さんの家に泊まりこんだ。
買出しを手伝い、通院の送り迎えをして。
キリの見立てどおり、盆休みの間では治りきらないらしいから、松葉杖で電車に乗る練習もした。
「ラッシュの電車なんかに乗って、本当に大丈夫なの?」
明日でお盆休みが終わる。
俺が送っていけたら一番いいのだけど。さすがに、俺が遅刻するし。
「大丈夫よぉ。ラッシュにかかからなかったら、いいだけだから。早く出るわよぉ」
「そう?」
「うん。朝、少し早く起きればいいだけだもん」
『どうせ、この足じゃまともに料理なんてできないから、朝ごはんはパンとコーヒーくらいになるし』とか言いながら、手にハンドクリームを擦り込んでいる。丹念に延ばして、爪に馴染ませて。
「無理、しちゃだめだよ?」
「うん」
それでも心配な俺の顔を覗き込んで、安心させるように微笑んだ登美さんは。
「でも、次のお休みの日には、来てね?」
ハンドクリームの蓋を閉めた手を小さく胸の前で合わせて、俺に『お願い』をした。
平日はシャカリキになって働いて、休みを確保した週末は登美さんの家で過ごして。
見事なほど、自分の家は”寝に帰る場所”となる。
そうこうするうちに、登美さんのギプスも取れた。
「快気祝いにご飯に、行こうか?」
そう誘った俺に、登美さんは
「じゃぁ、バレンタインの時のあのお店にいきたいなぁ」
人差し指の先で、自分の頬を突つきながらそう言った。
「あのお店、気に入った?」
「うーん。熱のせいで、あまり味とか覚えてないのが悔しくって」
「そうか」
「目は”おいしそう”って思うのに、食欲が無かったし。もったいなかったなぁ」
唇を尖らせたその顔は、心の底から『悔しかった』と言っているようで。
「分かった。じゃぁ。予約を入れるよ?」
取り出した携帯に、子供のように歓声を上げる登美さんの髪を軽く指で梳く。
くすぐったそうに首をすくめた彼女は、通話中ずっと俺の左手を握っていた。
カボチャのスープを掬っていると、登美さんが俺を呼ぶ。
手を止めて顔を上げると、彼女はスプーンの背で水面を撫でながら、
「私も”仕事ができる”ようになれるかなぁ」
と言って、俺のほうを見る。
心細そうな言葉とは裏腹に、その目は力強くって。
「お、やる気だねぇ」
「やる気、っていうか。今まで、サボりすぎてたなぁって」
「そう?」
「うん。例えば、よ? 今、私が仕事を辞めたとして、キリさんの奥さんみたいに再就職してほしい、なんて会社は言ってくれないと思うのね」
お。そんなところを目指すか。
数ヶ月前には、結婚退職してリセットしたい、って言ってたのに。本当に、染まりやすいなぁ。
「まぁ、まずは、人並みを目指しなよ」
「人並み?」
「そ。”山を登る”にしてもさ、まずは近場の山から始めないと。ギプスを巻いた足で富士山に登るのは無茶でしょ?」
「そんなに無茶かなぁ?」
「無茶、っていうか、目標が大きすぎたら、潰れるよ?」
スプーンを置いてそう言った俺の頭の裏に、昔聞いた歌のワンフレーズが浮かんできた。
実家の辺りで営業していた宅配クリーニング屋の車が、客寄せに流していた”ライオンになる日を夢見る子猫”の歌を口ずさんでみる。
この曲のことを、クリーニング屋のオリジナルだと思い込んでいたんだよな。コントバラエティ出身のアイドルグループの曲だと、ニシが教えてくれるまでは。
「そんなに大それた夢かなぁ」
橙色のスープを掬いとった登美さんは、膨れっ面をしながらスプーンを口へと運んだ。
「登美さんがそこまで大きく望んだら、いつ、俺と結婚してくれるか分からないし」
歌をやめて、ワイングラスを手に取る。
冗談に紛らせても、結婚を意識した言葉を口にすると顔が赤らむのが分かる。
「やっぱり、時間がかかるかなぁ?」
「そりゃね。十年分積み重ねた評価を覆すのに、同じだけかかるとして、十年。その上まで、って考えたらさ」
「そうか」
登美さんが、ため息をついた時。
サラダとパンが運ばれてきた。
『スタートラインに戻すのに十年』とつぶやいた登美さんが、本気で結婚まで十年かけそうに思えてちょっと焦る。
「そこまで、待たせないでよ?」
「待ってくれないの?」
「待てない。一日でも早く、って内心は思ってる」
その前に、俺自身の問題も片付けないといけないけど。
でも、お盆休みの一週間。
今までに無い濃さで登美さんと過ごしてみて、『ナイショのままでもいけるかも……』と、都合のいい妄想を消すことができなくなっている。
いっそ、このまま。
背中の傷は、墓場まで
隠しとおせないだろうか。
隠し通すのか、話すのか。
登美さんの顔を見るたびにウジウジと悩んでいる俺を横目に、彼女はスキルアップを目指すと、勉強を始めた。
自腹を切ってパソコン講座へ通うようになった彼女の部屋は、いつ訪ねてもローテーブルの上にテキストが広げてある。俺が風呂から上がったら、難しい顔でペンを握っていることもある。
できる限りの背伸びをして、虹を掴もうとしている彼女に、
俺はふさわしいのか?
そう思うたびに、背中の傷痕が疼く。
その痛みが、俺の惰弱な心を責める。
隠し通そうとしているお前なんかに、ふさわしい訳がない、と。
クリスマス前の三連休を前に、マツから電話がかかってきた。
『今年こそは、キリと呑みに行こう』という誘いに乗って、夏に教えてもらったキリの携帯に電話をする。
〔もしもし? ピヨ?〕
〔久しぶり。今、時間大丈夫か?〕
〔ああ。久しぶりだな〕
登美さんの怪我の具合とか、軽い世間話を挟んで本題に入る。
〔うーん。暮れ、なぁ〕
キリが唸る。
〔忙しいか?〕
〔今年は、大晦日から嫁さんの実家行くつもりでさ〕
〔泊りがけで?〕
〔ああ。アイツ、正月の二日に出勤が当たってて、元旦は早めにこっちに戻る予定をしてるから〕
〔正月にも仕事か〕
〔それが、医療現場、ってやつ〕
そうか。世間が盆休みでも、病院は開いてたもんな。
登美さん。こんなの目指すのは……無茶だよ。
結局、年が明けてから、の再会を約束してその日は電話を切った。




