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怪我

 一歩進んで二歩下がるような仕事と、一歩ずつ近づくような登美さんとの距離と。その二つを、パイ生地のように積み重ねて、時が過ぎる。


 あれ以来、登美さんは、時々胃のあたりを押さえていたり、顔色が悪い日があったりはするものの、『退職が近い先輩の仕事を一つ、引き継ぐ事ができた』とか嬉しそうに報告してくれたりすることもあって。

 その背伸びの方向は正しいな、って、答え合わせをするように彼女を抱きしめる。

 

 そして、そんな俺の腕の中。

 ほっとしたような顔で、素に戻る登美さんが無性に愛おしくて。

 この笑顔を、もっともっと。誰よりも近くで支えてやりたいと、心から願う。


 でも、その思いの裏側に、『このまま一生、背中のことは隠し通せないだろうか』なんて、ずるい事を考えている俺もいる。

 隠しごとをしたまま、なんて。絶対に良くないと判っているのに。



 だから。

 梅雨が明けた頃に水田と小早川さんの婚約を聞いた時にも、『隠し事の無い奴らは、気楽だよな』と、どこか冷めた感覚で話を聞いていた気がする。

 そう。アレは……心を凍らせていた中学生時代とどこか似通った感じだった。



 そんなことを知らない登美さんは、

「ね、今度はどの映画、観ようか?」

 なんて言いながら俺を映画館や、レンタルショップへと誘う。時には、テレビで放映された映画を録画していることも。

 録画してまでテレビを観る習慣のない俺はデッキを持ってないから、映画を観るのは登美さんの部屋で、というのが暗黙の了解になっていた。

 登美さんの名前の由来になった、あの古い映画をきっかけにした映画鑑賞のデートは、過去の名作も最新作もごちゃまぜだったけど。

 観ている間中、笑って鼻をすすってと忙しい登美さんの気配を感じながら、様々な人生を駆け抜ける二時間をすごした後の現実へと立ち返る瞬間。

 生まれ変わるような錯覚に、いつも酩酊に似た快感を覚える。

 

 これを知らずに、今まで過ごしてきたなんて。

 もったいない人生だ。



 そんなデートをしているうちに、俺にとっては嫌な思い出につながる夏が来る。

 俺の職場には、いわゆる”お盆休み”はないけれど、研究の進捗状況を計算しながら有給を消化するので、登美さんのお盆休みに俺も休暇を合わせた。おかげで、直前の半月ほどは、残業が続いた。


 そうやって手に入れた、お盆休みの二日目。

 その日に観たのは、登美さんがテレビから録画していた映画だった。最近、ミュージカルにもなっているとか。

 見始めて三十分も経たないうちに、俺はこの映画を選んだ登美さんを恨んだ。

 火傷を負った醜い顔を厭って仮面で覆い、人目を避けるように隠れ住む主人公の姿に、治ったはずの背中の傷が疼く。

 とはいっても。登美さんに八つ当たりするのは筋違いで、隠している俺が悪いんだけど。

 なんとなく、右肩のあたりを擦りながら、二時間を過ごした。



 翌日は映画館へ行く予定になっていたので、二人並んで駅への道を辿る。上映時間の関係で、”東のターミナル”の駅前のシネコンに向かうことにしていた。

 

 『この前”東のターミナル”で、亮と出会ったな』と思ったせいだろうか。

 その日の朝から俺は。

 喉に小骨が刺さったような嫌な感覚を覚えていた。



 そんな俺の横で、登美さんはサンダルのヒール音を響かせながら歩いている。

「そのサンダル、結構足音がするね」

「サンダルじゃなくって、ミュール」

「何が違うわけ?」

「ストラップで留まってないの」

 登美さんの足元を、一歩後ろから眺める。

 踏み出すたび、着地のたびに踵から離れたミュールが、アスファルトとぶつかり合ってカスタネットのように鳴る。

「歩きにくくない?」

「うーん。慣れ、かな」

「本当に? また、無理してない?」

「うん」

 目算で……いつものハイヒールよりは低め、かな?


 地下のホームへと向かう階段では、一段と音が響く。なるほど、トンネルで音が反響する、あの理屈か。

 と思っていたら、目の端で栗色の頭がストンと沈んだ。

 登美さん?


「いったぁ」

 最後の数段を踏み外したらしく、登美さんが階段から落ちた。とっさに伸ばした手も間に合わず、ホームの床に横たわっている。

 慌てて駆け寄った俺に、登美さんが綺麗な顔を顰める。

「大丈夫?」

「足、痛い」

「立てそう?」

 俺の手につかまるようにして立ち上がった彼女の足元に、高校生くらいの女の子が脱げたミュールを拾ってきてくれた。


「ごめんね。ありがとう」

「いえ、大丈夫ですか?」

 そんな会話を女の子と交わした登美さんが、そろりと足を地面につける。

 その途端に思いっきり握られた俺の右手。

「登美さん?」

「……」

 俯いた彼女の肩も背中も。全身に力が篭っている。そして、支える俺の腕にかかる、彼女の体重。

「歩けなさそう?」

 確認した俺の声に、頭が小さくうなずいた。


 この駅は確か……エレベーターがついていたよな。抱えて、階段を上がるのはさすがにきついし、危ないけど。エレベーターでなら改札まで……。

 いや、登美さんが、恥ずかしいか? 熱を出したときも、人目を気にしてたし。


 手近なベンチまでとりあえず運んだ登美さんに、駅員と相談してくることを告げて、階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 軽く切れる息に、年齢を感じる。


 詰め所の駅員は、二つ返事で車椅子を用意してくれた。ホームからタクシー乗り場までなら、貸してくれるという。その上で一番近くにある総合病院も教えてくれた。


  

 診察の結果は、足首の骨折だった。

 靭帯かアキレス腱かと、内心でひやひやしていた俺は、少しだけホッとしながらギブスを巻いてもらっている登美さんを眺める。

 本当に、一瞬先は闇だな。こんなことになるなんて、今朝、起きた時には思いもしなかった。 

 怪我そのものは、レントゲンで見ても素人目にはよく分からない程度の小さなヒビみたいな骨折だったのが幸い、か。

 怪我に”奪われるモノ”が無くって、本当によかった。



 『映画に行けなかった』と、残念そうに呟く登美さんをなだめていると、処置室のドアがノックと共に開いた。

「あれ? ピヨ、だ」

 松葉杖を手に入ってきた男性職員が、素っ頓狂な声を上げる。

「……キリ?」

「松葉杖の練習って、ピヨだったか」

「俺じゃなくって、彼女のほうな。お前、ここで働いてたの?」

「ああ、うん。新卒で入職したから、十……四年?」

 ケーシータイプの白衣をまとったキリは、胸元に『理学療法士 桐生』と書かれた名札を付けていた。

 高校時代、お祖父さんの闘病生活を通じてリハビリの仕事に憧れていたキリは、医療系の短大に進学したっけ。卒業が早いから、社会人になってからの時間も俺より長いわけだな。


 しかし。本当に逢わない時には逢わないのに。縁ができたら、よく逢うもんだ。

「そうか。登美さんと付き合うまで、俺はこのあたりに来ることが無かったから、逢わなかったわけか」

「縁って、時々、妙なところでつながることがあるよな」

「そう、だな」

 なんとなく、亮のことを思い出して、登美さんと顔を見合わせる。

 亮。今朝、お前のことを思い出したのは、ひょっとしてコレか?



 登美さんの身長に合わせて松葉杖の高さを調節しようとしたキリが、俺を呼ぶ。

 ミュールでは帰り道が危ないから、売店でスリッパを買ってこいと言われて、大人しく教えられた売店へと向かった。


 おしゃれな登美さんにはどうかと思いながらも、クリーム色のスリッパを買って。

 処置室へと戻ると、開けっ放しのドアからキリの声が聞こえる。

「煙たい事を言うことがあるかもしれないけど、悪い奴ではないから。アイツをよろしく」

 おい。確かに、”風紀委員”の”説教好き”だけどさ。

 登美さんにわざわざ言うなよ。


「誰が、煙たいって?」

 敢えて、ノックもせずに部屋へと入ると、登美さんが素足のままで松葉杖に体重を預けて立っていた。

 そんな彼女の足元に屈んで、買ってきたスリッパを置く、

「何、勝手なことを言ってるんだ、お前は」

 そう文句を言った俺に、キリは切れ長の目を細めるように笑いながら言い返してくる。

「打ちやすい所にトスを上げたつもりだけど?」

「どこが」

「ひどいなぁ。かつての名コンビなのに」

「二十年前のな」

 軽口を叩きながら、登美さんがゆっくりとスリッパを履くのを見守る。



「じゃぁ、練習がてら、待ち合い室まで行ってみようか。俺もカルテを返しに行くから、ついていくよ」

 松葉杖の使い方を教えていたキリの言葉に、処置室の中で少し練習をしていた登美さんが頷く。 


 ゆっくりと並んで歩く二人の少し後ろから、ついて歩く。

 慣れるとスピードアップするものかと思っていたのに、進むごとに登美さんの足取りが重くなるみたいに見える。

 あと少し、のところで立ち止まった登美さんが、松葉杖から離した両手を体の前に持っていったのが見えたので、少し近寄る。

「掌が痛かったら、タオルハンカチとか巻くとマシですよ」

 そんなキリの声を聞きながら彼女の肩越しに覗くと、胸の前で真っ赤になった掌をグーパーグーパーと動かしている。

 そうか。全体重が掌にかかるんだ。そう言えばさっきキリも『脇で体重を支えないで』って、言っていたっけ。

「登美さん、売店で買ってこようか?」

「一枚、は持ってるから。一枚だけ」

「オッケー」


 来た道を引き返して、売店への廊下の角を曲がりながら振り向いたとき。ゆっくりと登美さんが椅子に腰をおろすのが見えた。



 売店を出たところで、廊下の先を歩いているキリの後姿が見えた。

「キリ!」

 俺の呼んだ声に振り向いたキリが、軽く手を上げて足を止めた。

 仕事の邪魔かも、と思いながら小走りで近づいて。ひとつ相談事を。

「あのさ。明日、もう一度診察に、って言われてるんだけど」

「うん?」

「彼女普段からハイヒールしか履かなくってさ。スリッパのままってのも……」

「ああ」

「来週になれば、仕事にも行かなきゃならないからさ」

 そう言うと。キリはちょっと考えて。

「一週間では、治りそうにないな」

「だろ? 靴はサイズがあるから、俺が代わりに買って来るのもどうかと思うし。みんなどうしてるのかなって思って」

「ギブスを巻いているほうは、専用のサンダルがあるから、それを買えばいいとして……」

「そんなの、あるのか?」

「うん。結構、値段もするけど。で、通勤用か」

「スニーカーってわけにはいかないと思うんだよな」

 普段の登美さんの服装に、スニーカーは絶対、似合わない。


「心当たり、に聞いてみるよ」

 少し考えたキリも、すぐには答えが出なかったらしく、返事を保留にされた。

「悪いな。忙しいのに」

「いや。連絡先、聞いておいていいか?」

「OK」

 キリが胸ポケットから取り出したメモ帳に、互いの携帯の番号を書いて交換した。

「じゃ、お大事に」

「世話になったな」

「これが、俺の仕事だからな。気にするなよ」

 そう言って二十年前と変わらない笑顔を見せたキリと別れた俺は、登美さんの元へと向かった。



 その後、薬をもらうのも会計も、職員がわざわざ座っている登美さんのところまで来てくれたのは、キリが頼んでくれたのかもしれない。

 心の中でキリに礼を言っている俺の横で、保険証を持ってきていなかった登美さんは、会計の人に預かり金を渡す。

 それを見ていて何気なく『保険証を預かって、清算に来ようか?』と言ってから、それは拙いと自分で取り消した俺に、心底不思議そうな顔で登美さん首をかしげる。

 『悪用なんて、するの?』と。


 タクシーを呼ぶために、公衆電話にカードを差し込みながら思う。

 タクシーを待っている間にひとつ、お説教だな。



「保険証、誰にでも預けたらだめだよ?」

 登美さんの顔を覗き込むようにしながら、目で叱るように言ってみる。

「そう、かなぁ?」

「そうなの。”街金”でお金でも借りられたらどうするの? 支払いが登美さんにくるんだよ?」

「慎之介さんは、そんなことしない」

「その信用はどこから来てるの」 


 相変わらず。危なっかしいなぁ。

 

 そっちは山の頂上じゃなくって、崖だよ。虹から遠くなってしまう。

 と思っていたら。

「だって、私は、慎之介さんを結婚相手として見てるもん」

「登美さん……」

 一気に、顔が赤くなったのが分かった。

 

 だから、もう。

 それは

 反  則  だ  よ  ?

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