リセット
連休中は登美さんの部屋に二泊、して。
初めて、彼女の手料理もご馳走になった。
「慎之介さん、朝は和食のほうがいい?」
「大変じゃない?」
「でも、コーヒー飲めないんだったら……」
「じゃぁ……いいかな?」
そんな気遣いを見せてくれた登美さんと一緒にスーパーへと向かったのは、亮との思わぬ再会の日。昼ごはんを済ませた後でだった。
『味噌がきれている』だの、『だし節も買わなきゃ』だのと呟く登美さんと一緒に買い物をして。
翌朝、ご愛嬌レベルの手際の悪さに、”料理はできるけど、してない”って彼女の日常が伺える。
そういえば、いつだったか生姜湯を作るのに覗いた、食器棚の中。マグカップと並んでサプリメントの瓶が二つ並んでいたっけ。普段は、一体何を食べているのやら。
ああ、そうか。
花見の時に『お弁当を作ろうか?』って言ったのは、登美さんにとって一種の”背伸び”だったのかもしれないな。
こうやって一緒にご飯を食べることが、サプリメントに頼らない生活をする助けになるなら……。
この背伸びの方向は、きっと間違っていない。
そんなことを考えながら、緩く髪を括った登美さんの台所に立つ後ろ姿を眺める。
「慎之介さん」
「うん?」
「戸棚から、お茶碗とお箸、出してくれる?」
「OK」
軽く返事をして、戸棚に向かう。
薄い緑色をしたお茶碗が一客と、青いラインの入ったお茶碗が二客。
「登美さん」
「はぁい」
「お茶碗、登美さんのは緑だよね?」
「え?」
「お粥、これで食べていたでしょ?」
レトルトのお粥だったけど。
風邪を引いたあの日、透明感のある緑色が、登美さんに似合いの綺麗なお茶碗だと思った記憶が蘇る。
「どうしよっかなぁ?」
焼き魚を皿に取り出していた登美さんが、こっちを振り向く。
「登美さん、登美さん。魚、落ちるよ」
「わわわ……」
慌てたように、傾いだお皿を両手で支える登美さん。
「今日は、私も青を使うから、青を二つ、出して」
「いいの? それで」
「お揃い、もいいかなぁって」
手にした皿を、調理台に置いた登美さんがそう言って微笑む。
「慎之介さん、また。赤くなってる」
「だから。登美さん。俺で遊ばないでって」
「慎之介さん用に、お茶碗、買う?」
「うーん」
高い買い物、ではないけど。
「いいや。べつに」
「そう?」
「うん。だって、結婚したら、無駄にならない?」
そう言うと、登美さんも俺に負けないくらい赤くなった。
その日は、午前中に買い物に出かけた。
『クリーニング屋に行かなきゃ』と言う登美さんに付き合って、駅の向こう側まで足を伸ばして。
衣替えシーズンの割引セール中だとかで混んでいるクリーニング屋に彼女が入っている間、向かいのレンタルショップで時間を潰す。
あ、亮たちだ。
なんとなく眺めたCDの”あ行”の棚で後輩たちのバンドの名前を見かけて、一枚のアルバムを手にとってみる。
亮はジャケット写真の中央近くで、もう一人の後輩の肩にもたれかかり、昨日はかけていた眼鏡を外して長い髪も解いていた。
メイクでもしているのか、その顔は女と見まごう美貌で。登美さんと並んでいたら……さぞかし美男美女のカップルだっただろう。
そう思った俺の脳裏を、昨日の登美さんの言葉がよぎる。『背伸びの方向を間違えていた』って。
なるほど。亮と釣り合おうとして、必死に装っていたのか。確かに……疲れそうだ。
コレを一緒に聴いたりしたら、登美さんを疲れさせることになりそうで、そのまま棚に戻す
そして。一度、CDの背中を撫でて、小さく呟く。
「ま、そのうち。気が向いたら、な」
先輩の誼で、聴いてやるよ。
そのまま、映画の棚の方へとフラリフラリと漂うように移動していく。
”往年の名作特集”とやらで、特別コーナーが設けられている中に、俺でも名前を聞いたことのあるような古い映画が並んでいた。
その内の一つ。
草原をバックに、両手を広げた女性が微笑んでいるパッケージを手に取ったところで、登美さんの声が背後から聞こえる。
「慎之介さん。おまたせー」
「ああ。うん」
「あ。その映画……」
「たしか、これって登美さんの名前の由来、だよね?」
「うん」
「借りて、見てみる?」
コクリと頷いた登美さんを確認して。カウンターへと向かう。
ちょうど免許証を持っていた俺の名義でカードを作って。
昼ごはんを済ませて、午後からは映画鑑賞会。
映画を見終わった登美さんは、吐息をつきながら冷めたコーヒーを口に運ぶ。
途中、ヒロインへの想いを自覚した男性が他の女性との婚約を破棄したシーンでは、テラの顔がちらりとよぎって、小さく唸ってしまった俺だけど。
確かに、登美さんのお父さんが印象に残ったというラストシーンは、圧巻だった。
そして、その光景のBGMに流れる歌は、映画の最中何度も繰り返された歌だった。苦しい道へと踏み出すヒロインの背中を押すように、彼女の育ての親が歌う曲だった。
『背伸びの方向を間違えていたかも』
昨日そう言った登美さん。
彼女は、いつも”険しい山に登って、虹をつかもう”と背伸びを続けてきたのかもしれない。
その山が、虹へと続いていることを信じて。
連休が明けた月曜日。
新たに仕切りなおし、の実験が始まって。俺は、二時間近く残業をしてからロッカールームに向かった。
白衣をハンガーに掛け、ジャケットを手にとる。
カバンから取り出した携帯を確認して、ドキリとした。
数え切れないほどの着信履歴と、一通のメール。全てが、登美さんからのものだった。
登美さんの身に、何かがおきた?
「お疲れさまです。お先に」
「ああ、お疲れ」
戸口近くで着替えている先輩と軽く挨拶を交わしたところまでは、なんとか平静を装ったけれど。
ロッカールームを出るなり、俺は自分の車を目指して走った。
運転席に座るのももどかしく思いながら、助手席にカバンを放り投げてメール画面を開く。
【結婚して】
その一言だけ。
ただ一行だけのメールに、首を傾げる。
なんだ? 藪から棒に。
エンジンもかけないまま、着信履歴からかけなおす。
そろそろ留守電に切り替わるか、と思った頃に通話が繋がった。
〔もしもし? 登美さん?〕
〔慎之介、さん?〕
〔何? あのメール〕
〔……うん〕
〔いきなり、どうしたの? 『結婚して』なんて〕
〔私、もう嫌だぁ〕
登美さんの声が泣き声になった。
[今日、仕事中に、ちょっと席を離れててね]
[うん]
[仲がいいと思ってた後輩が、陰で私の事を『トミ婆ってさ、爪が人間じゃないのよ』って、笑いものにしてるのを聞いちゃって]
『トミ婆』だなんて、幼稚な、とは思うけど。
仲のいい後輩ってあたりが、なんて言うか……女同士ってエゲツナイ。
俺があれだけ嫌だった『フランケン』が、百倍もマシな事のように思える。
[その上、仕事ができないから辞めればいいのにとか、結婚あきらめたんじゃないとか。もう……言いたい放題]
しゃくりあげるような声が、合間に挟まる。
[デスクに戻ってからも、なんだか自分がこの会社にいる必要が感じられなくって]
[……で、結婚退職したいって?]
[うん。お願い。リセットさせて]
そう言って、登美さんは静かな泣き声を立てた。
彼女の泣き声を耳元で聞きながら、考える。
結婚退職で”リセット”するのは、俺の一言で可能なわけだけど。
〔あのさ、それ、結婚して解決するわけ?〕
〔だってぇ……〕
久しぶりに”風紀委員が”目を覚ます。
〔登美さんの言うように、結婚退職してリセットしたとしてさ〕
〔うん〕
〔この次、嫌なことがあったら、どうリセットする気なの?〕
〔それは……〕
〔専業主婦になって、母親になって、ってした時に逃げる道って、どこにあるのさ?〕
再就職はともかく、育児放棄でもするのか?
できない、だろ?
〔登美さん〕
〔……はい〕
〔貴女は『登美』なんだよ? 困難の山を”登って”、”美しい”モノを手に入れるんでしょ?〕
背伸び、するんだろ?
〔今まで、仕事中に”困難の山”、登った?〕
そう言いながら、出会った頃の幼い話し方とか、危機管理の薄さとかが思い浮かぶ。
なるほど。背伸びの方向をどこかで間違えてたな。
〔社会人になって、十年、だよね?〕
〔うん〕
〔十年の積み重ね、だよ? その評価は、きっと〕
しばらく黙って、受話器の向こう。彼女の息遣いを聴く。
登美さんの息が整ってきたのが感じられた頃。
もう少し頑張って、仕事に行けそうか尋ねた俺に、意外としっかりとした返事が返ってきた。
よし。山の入り口まで、たどり着けたみたいだな。
そして、
〔さっきのメール、忘れて?〕
そんなことを言った登美さんは、きっと電話の向こうで小首を傾げている、だろうな。
〔忘れるの?〕
〔だって……〕
〔忘れないよ〕
〔え?〕
〔登美さんからの、プロポーズだし?〕
冗談交じりに笑いながら言った俺の言葉に悲鳴が返ってきた。
〔嫌ーっ〕
って。ひどいなぁ。
それはともかく。
頑張ろうとしている登美さんに、”飴”をあげよう。
登美さんの名前の由来になった映画でもあっただろ? ”お気に入り”があれば、嫌なことも乗り越えられるって、歌が。
そうだなぁ。例えば……。
〔『結婚、あきらめてないわよ』って、指輪でもする?〕
さっきの”プロポーズ発言”に絡めて言ってみたけど。
〔いらない〕
〔いらない、の?〕
〔指輪は、もう少しだけ爪がキレイになってから、ちょうだい?〕
〔そう?〕
〔うん。指輪をして、人の視線が手に来るのは嫌〕
拍子抜けするほどあっさりと返ってきた『いらない』にがっくりする暇も無く、彼女が明かした理由に、小さく息を呑んだ。
俺は、馬鹿か。
自分が背中を全開で、旗指し物をつけて歩く姿を想像してみろよ。
登美さんは、『人間の爪になったら、ね』なんて今日後輩に言われた”ひどい事”を、逆手に取ったようなことを言って、小さな笑い声をもらした。
だったら登美さん。
サプリメントに頼らない方向に、背伸びしてみなよ。
体を作る基は、自分が口にした全ての物だよ?
落ち着いた登美さんの様子を確認して電話を切って。
背もたれにグッと体を押し付けるようにして、伸びをする。
さて、帰るか。途中で明日の朝ごはん用に、パンでも買わないといけないしな。
数日後、俺は登美さんに初めてのプレゼントを買った。
登美さんが喜びそうなもの、と考えて。アクセサリー、だったらダイヤモンドってのは……発想が貧困、なんだろうか。
それはともかく。
ジュエリーショップの店員と相談して買ったのは、プチダイヤ、とやらのペンダントだった。
そして、土曜日。
首につけてあげると、嬉しそうに微笑んだ登美さんの手が、そっとダイヤを撫でる。
「それなら、手に視線はいかないでしょ?」
「いいの?」
「うん。俺からの、応援の気持ち」
「ありがとう」
俺はいつでも応援していると。ペンダントを見る度に思い出してくれれば。
その日、夕食を取りに入った洋食屋で、鼻歌でも歌いそうな雰囲気でメニューを眺めている登美さんに、意を決して声をかける。
「あのさ、この前のプロポーズ……」
「忘れて、って言ったじゃないっ」
メニューから顔を上げて、睨まれた。そんな彼女の口調を真似て言い返す。
「忘れない、って言ったじゃないっ」
「冗談だって……言ったくせに」
「冗談にする気は、無いよ」
グラスの水で口を湿らせた俺に視線をよこした登美さんは、それまで顔を隠すように持っていたメニューをテーブルに戻した。その顔がほんのりと、赤くなっている。
「仕事を辞める口実に、結婚するのは嫌だけどさ。俺は、登美さんを結婚相手として見てるからね?」
「う、ん」
「”にわ とみ”として、仕事続けてもいいって思えたら、もう一度、言って? 爪がどうでも、左の薬指に指輪を嵌めさせるから」
美しい虹を、指輪に変えてみせるから。
「『ピヨ子ちゃん』って、陰で呼ばれない自信がつくのと、爪が元気になるのとどっちが早いかな?」
そう煽りながら、テーブルの上で揃えられた彼女の左手に触れる。
爪の生え変わりには、数ヶ月単位で時間がかかると、聞く。
彼女の変色した爪を撫でながら、俺自身の心にも訊く。
お前は、それまでに彼女に”全て”を打ち明けられるのか?




